母の望みと娘の行く道

 

 

 霧が晴れ、少しずつ白み始めた空高く。飛竜に乗った光大公エレアノーラは、戦いの傷跡を残す、眼下のクロや騎士たちの様子を眺めながら高度を落としていった。


 上空には他にも飛竜を駆る騎士が数名。加えてエレアノーラの娘であるアレサと、その弟子ユーリィの姿もあった。


 そしてエレアノーラが静かに口を開く。


「アレサ」

「ほいほい母様~、あーらよっと」


 アレサは手にしたロッド——幾何学模様をした金属製の球体を、無数の輪が取り囲んだ煌びやかな一品。おそらくは紋章器だろう——を、舞踏でもするかのようにくるくると振るう。

 ロッドは動きに合わせて白く光を放ち、天幕と簡易柵で急造されたこの関所全体を虹色の光で包み込んだ。

 その極光は癒やしの光。イェルの魔法にやられた騎士たちの傷や、深手を負ったクロの身体がみるみるうちに癒えていく。


「ふいー……、助かったァ……」


 気を抜いたクロはその場にへたり込み、大の字になって地面に寝転がる。


 仰向けになった視線の先では、アレサがこちらにウィンクを一つ。どうよとばかりに笑みを浮かべている。クロもぱたぱたと手を振って、感謝の意を伝えた。本当に今回ばかりは、危ういところだった。


「無事で何より」

 そこでイェルの顔が覗き込むようにして視界に入ってきた。


「お前もな。まったく、お互いよく生きてたよ」


 どちらからともなく両者差し出した手をぐっと掴み合い、クロは身体を持ち上げる。まだ血が足りないのか頭が少しクラクラするが……ともあれ、戦いは一応の終わりを告げた。


 変わらぬ右眼と変わり果てた左眼で周囲を見渡す。するとちょうど、エレアノーラが大地を踏み締めた飛竜の背から降りようとしているところだった。

 騎士たちは皆揃って片膝を突いての最敬礼。ラドミアも頭を下げて、ゼラルドはエスコートを任されているようだ。


「お久しぶりです、エレアノーラ公爵。相変わらず実にお美しい」

「あなたもお元気そうで何よりですわ、ゼラルド殿。やっぱりあなたは、剣を振るっている時が一番幸せそうに見えますね」

「はは、戦っているところを見られておりましたかな。いやあ、お恥ずかしい限りで」


 知己の間柄らしい二人は、楽しげに会話を交わす。


 その様子を横目にしながら、こちらは飛竜からひょいと飛び降りたアレサが、軽い足取りでクロのそばに寄ってきた。


「ういっすー、大丈夫だったかにゃ?」

「おかげさまで。傷もそうだけど、あいつ逃がすの手伝ってくれたんだろ? 助かったよ、ありがとな」

「ふっふ~ん。もっと褒めるがよいぞ、くるしゅうないくるしゅうない。はっはっは」


 揺れる大きな胸をぐいっと前に張り出して、アレサは鼻高々。


 それからちらりと薄目だけ開いて、クロの肩に顎を乗せてきた。

「……とはいえ、よくも色々内緒にしてくれたね~ぃ。お姉さんちぃとばかりお怒りモードだよ?」


 耳元で囁く。


 クロが思わずぎょっとして飛び退くと、アレサはまた、けたけたと笑っていた。


「あっはっは、冗談冗談。こっちもそこらへんは、なぁなぁにしときたいんでね~」

「アレサ。そろそろいいでしょう。貴女は貴女の仕事をなさい」


 そこでエレアノーラの声がかかった。

 アレサはおうっとばかり肩をすくめ、「じゃあね~」クロとイェルにお別れの手を振る。それから騎士たちの方へと走っていくと、「そいじゃ君」「あとそこの君」などと各人に命じて、撤収作業の陣頭指揮を執り始めた。


 エレアノーラは娘の仕事ぶりを値踏みしながら、やれやれと溜息を一つ。


「……これで普段の言動がもう少し落ち着いていれば良いのだけれど。まったく……誰に似たのやら」


 非常に頷ける愚痴をこぼしてから、「さて」クロたちに向き直った。


「こうしてお話するのは初めてでしたね。クロさん……で、よろしかったかしら? 何でも、うちのフレデリカとお付き合いされてるとか」

「は⁉ いや、してないですけど……」


 一応キスはしたけど。などと言うと誤解を招きそうなので黙っておく。しかし誤解自体はすでに発生済みなのが救えないところだ。

 もちろん犯人の目星は付いている。アレサだ。


「あの子は本当にいい加減なことばかり……」


 案の定、娘の冗談に騙された形のエレアノーラは憤懣やるかたなし。眉間に指を置いて、困ったものだと顔をしかめていた。


 しかし、そんな様子でもなお、エレアノーラの姿は一つの絵画のように美しい。こうして目の前にしてみると、改めて感じる。つくづく神がかった美貌だ。

 これと瓜二つのアレサ、ひいてはフレデリカも、もう少し立ち居振る舞いに気を配れば同じように美女の色香を振りまける……のだろうが……あの二人の調子ではどだい無理な話か。あ、頭の中で『なんでじゃい!』『なんでよ!』と不服を訴える幻聴が聞こえてきたぞ。


「とにかく今回は助かった——じゃなくて、ええと、助かり……ました。ありがとうございます、エレアノーラ……あー、公爵様?」

「ふふ、無理などなさらなくても、気にはしませんよ。あなたとはフェリウスの領地を与えられた公爵としてでなく、一人の母親として、お話がしたいと思っておりましたから。……たとえ娘と特別なお付き合いをされていなくても、ね」


 濡れた唇に小さく笑みを浮かべて、エレアノーラはこちらに柔らかい表情を向けてくる。

 並の男ならここですっかりのぼせ上がっているところだが、幸か不幸かクロにはそこまでの細やかな神経はない。軽く頭を掻くと、


「はあ、そうなんすか」

 すげなく返した。そして続ける。

「でも何でまた?」


「それはもちろん、あなたがフレデリカの仕事仲間だからですよ。クロさん。私が問い詰めても決して口は割らず、きちんと成すべきを成し……あの子はよくやっているようですね」

「まあ生真面目さに関しては、大したものだと思うけど」


 言いながら、クロはエレアノーラの様子を暗い左眼で注視していた。この女、果たしてどこまで知っているのだろう? もしかすると、自分たち——特にミスハを捕らえに来たという可能性もあるだろうか。


「そう構えなくても大丈夫ですよ。何もしませんわ。ただ一つ、娘のことをよろしくと伝えておきたかっただけです」


 警戒するクロに対しても、エレアノーラは笑みを崩さない。

 そこに遠くからアレサの声が聞こえてきた。


「そろそろ行きますよぉ、母様~! ちゃっちゃと行かないと、葬送式典に間に合わないんだからっさー」


 エレアノーラは承知したとアレサに伝えると、改めてこちらに向き直り、クロの手を取る。


「正直なところ」言ってクロの瞳を見据える。「ヘリオス家の意向としては、あまり皇姫様の側に肩入れしたくない……というのが、本音ではあります。私たちは皇帝ウィグムンド様にこそ仕えておりますから」


 やはり、ミスハの生存は察している。そして誕生についての事情も把握しているらしい。ミスハが皇帝の娘でないという、例の話だ。


「ですから、私が出来ることはここまでです。これ以上の手助けをするつもりはありません」

「十分だよ。とりあえずあんたの力が及ぶ範囲——フェリウス地方を出るまでは安全だと思っていいんだろ」

「ええ。水大公もこちらが動くとは思っていなかったでしょうし、そのつもりも本来はありませんでしたが……今回は近衛騎士として尽力する娘への、ちょっとした贈り物だと思っておいて下さい」

「といっても、その贈り物を受け取ったのは俺たちだけどな」


 クロの指摘に、エレアノーラはその通りと応じる。


「ええ。ですのでお二人にちゃんと、どうぞ娘の助けになって下さいと伝えておきたかったのです。娘には使命に殉じる覚悟があったとしても、一人の母として、やはり娘を失いたくはないですからね」


「……つまり、今回俺たちを助けたのと引き替えに、フレデリカを護ってくれって?」

「ええ。出来れば、皇姫様よりも優先で」

「そりゃまた無茶言うなあ。というか何より、それはフレデリカ本人が嫌がりそうなもんだ」

「ふふ……あの子の性格ならそうでしょうね。だとしても、人の子よりも愛しい我が子——というのが、母親というものなんですよ。実に我が儘でしょう? まあ、頭の片隅にでも置いていて頂ければ十分ですから」


 笑って言うと、エレアノーラはアレサが待つ飛竜へと歩いて行く。

 そして最後、くるりとこちらに振り返って、


「そうそう。くれぐれもこの件は、あの娘に黙っていて下さいね。せっかくバレないように、わざわざ時間を少し置いてここに来たんですから」


 人差し指を唇に付けて、秘密にしてねとウィンクをしてきた。

 はあ。一応、分かりました。クロの反応に、エレアノーラは満足げな顔を見せる。それからは手早く飛竜に乗り込むと、颯爽と風に乗って去って行った。

 

「…………。なんつーか……あれだな」

 クロは隣のイェルにぼそっと告げる。


「母親ってのは、恐ろしいもんだよな」

「うん。まったく」


 去って行く飛竜を見送りながら、二人は短い言葉を交わした。

 

 ◇

 

「そろそろ出立しようか」


 一つの嵐が過ぎ去った簡易関所跡で、イェルがクロに話しかけてきた。


「ああ。ミスハとフレデリカあいつらをさっさと追いかけないとな。リーフが助けに向かったからどうにかなったとは思うんだ、が……」


 言いながらクロは視線をきょろきょろと、捜し物をする。

 何をと言えば、馬だ。今手元に馬がいないのだ。ここに忍び込んだ時の計画では、逃げ出すついでに騎士団の馬でもかっぱらっていくつもりだったのだが、彼らはすでに撤収している。


 果たしてどのように、全速力で逃げていったであろうミスハたちに追いつけばいいのだろうか。


「心配しなくても、合流地点は決めてある」

「あ、そうなの。じゃあとりあえずそこに向かえばいいんだな」

「いや、その前にちょっと寄り道を……」


 言いかけたイェルが、クロの肩越しに背後の何かを見つめて言葉を止めた。

 クロが振り向くと、そこには橙髪の少女が一人。ユーリィだった。


「どうしたんだ。何か忘れ物?」


「当たらずとも遠からずですね。霊樹の蜜葉を採り損ねてしまったので、私だけもうしばらくトランメニルに残ることになりました」

「あ、そっか。悪いな、俺たちだけ回収しちゃって。……というか、橋が落ちたけど採りに行けるのか?」

「恐らくあの子を使うことになると思います。霊樹様の所まで飛ばす許可を取るのは大変そうですが……皇帝陛下のお薬のためですから。何とかなるでしょう」


 遠くに見えるのは、先ほどクロたちが乗って空中戦を繰り広げた飛竜。翼にはいくつもの痛々しい穴が空き、その体躯はところどころ血に塗れていた。


「あいつも無事だったんだな」

「ええ。ただ、しばらくは私が回癒レストで治してあげないと、ですけどね」


 その言葉にクロはわずかに笑みを浮かべて、試すように尋ねる。


「お前の苦手な治癒魔法でか?」

「そうです。けど、だけじゃないですよ。回癒レストはゆっくりと肉体を癒やす魔法ですからね。いくつかの薬草と組み合わせて、色々試してみたいと思ってるんです」

「そりゃあいい。上手くいけば面白い方法が見つかるかもな」

「はい。楽しみです。こういうやり方もあるんだって、今回気付かせてもらいました」


 ユーリィはそう言うと、影のない、満面の笑みを見せてきた。堅苦しいばかりの少女だと思っていたが、こういう顔もできるのか。

 驚くうちにこちらに近付いてくると、クロの耳元で囁く。


「フレデリカ様のあれ、クロさんの入れ知恵でしょう?」


 クロはちろと舌を見せた。それだけで、ユーリィは全てを察したようだった。


「話は終わった?」

 イェルの言葉に、クロは頷く。


「じゃあまたな。ユーリィ」

「はい。フレデリカ様にもよろしくお伝え下さい」


 気付けば、もう朝日が顔を出している。長かった未明の時間は終わり、満ちていた霧は晴れ渡っている。鳥たちが朝を告げる歌を美しい声で奏でていた。


「よし、行こうか」


 見送るユーリィに手を振って、クロとイェルは朝の街道を歩き出した。

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神喰らう者の化身 wani @wani3104

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