この家に我が恋し人はかつて住み

ペトラ・パニエット

巷は眠る

静けき夜 巷は眠る

この家に 我が恋人は かつて 住み居たりし

彼の人はこの街すでに去りませど

そが家はいまもここに残りたり

一人の男 そこに立ち 高きを見やり

手は大いなる苦悩と闘うと見ゆ

その姿見て 我が心おののきたり

月影の照らすは 我が 己の姿

汝 我が分身よ 青ざめし男よ

などて 汝 去りし日の

幾夜をここに 悩み過ごせし

我が悩み まねびかえすや


「ドッペルゲンガー?」

 私のそらんじたある詩の一節に心優みゆが聞き返した。

「そう、ハイネの。でも遠山一行って言った方がいいのかも。翻訳されれば異なる解釈の余地が出来るから」

 どれほど厳密に翻訳しても物事の解釈というものは自由で、完全に同じ解釈幅を持つ翻訳は存在し得ない。

 それが私の持論だった。

「まあ、そこはなんでもいいけど」

 心優は私のこういった主張には昔からあまり熱心でない。

 彼女はその名に反して最初から論理ロジックの人であり、感傷的な表現よりデータを好んだためだ。

 その心優がドッペルゲンガーを知っていたのは、単に彼女が昔好きだったゲームにそれが引用されていたからに過ぎない。

「つまりさ、結論からいうなら、そこにあって『男』は結局、理想的な男性性アニムスの顕現なんだよ」

 私がドッペルゲンガーを諳じた要旨はそこにあった。

 それがこの場の私にドッペルゲンガーを唱えさせたのだ。

「わからないわね。特にわからないのは、なぜ結羽ゆうが今その話をするのかよ」

 心優はつかつかと歩いていき、屋舎の外壁に手を当てる。

 それは女子寮だった。もっとも、女子校なのだから当然のことだったが。

「それとも、昔私に手紙をくれた後輩みたいな想いを、誰か先輩にでも隠し持っていたとか」

 否定する。

「そうじゃないよ」

 心優はそれなりに威厳のあるほうで、そこからいくらかのファンがいた。たまにあることだった。

 私はそんなことを考えなかった。つまり、告白し、恋人になろうという考えを抱いてはいなかった。

「そう?それってただの解釈揺れじゃない?」

 心優の指摘はわからなかった。


 心優と私は、一時期この学舎で同室だった仲だ。

 それがしばらくぶりに再会し、こうしてまたかつての在処を共に巡っている。

 それは後輩のための召集だったし、これら懐旧はまさしく道すがらの懐旧にとらわれたがために行われているに過ぎない。

 心優の背を追い小走りした私の幻影がちらつく。

 この場所はあまりにも思い出の中に在ったし、その中で懐旧をことごとく黙殺するというのは、不可能に近かった。

 私は己が過去のあの日々に生きていることを知っていた。

 あの頃は楽しかった!

 私はずっと無垢で、幸せで――それがとても遠い昔日なのだと感じる。それは数年来のことに過ぎないのに。

「思出話、付き合う?」

 心優が問いかける。

「いや、いいよ。――もうすぐ部室だから」

 十分な余裕をもってきたはずの時は、すでに茜色を見せていた。

 時代に取り残された箱庭の門限は早く、これ以上の話を重ねては本来の目的を果たせなくなる。


「ありがとうございました!」

 後輩たちが口を揃えた。よし、最後まで声が出ている――私たちは演劇部だった。

 役目が終わり、今日という昔日から時間軸が戻されていくことに微かな恐れを覚える。

 だから、心優の「もう少し付き合ってもいいわ。もう門限は関係ないもの」という発案に乗らない選択はなかった。

 とは言え、関係者パスの返却まであまり時間があるわけでもない。向かうべき場所は自明であり、一つだ。


「結局、最後まで誰も知らなかったのよね。がこんなところでご飯を食べていただなんて」

 彼女自身が冗談めかして言った場所が、私たちの秘密の場所だった。

「でも、私はそれを知っていた」

 日陰者はグループから逃れるが、ある程度を越えれば人気者もそうする人が現れる。

 心優はそれで、私はその共犯者だった。

「そうね」

 彼女が微笑む。

 と、その時彼女はすっと立ち上がり、私を見下ろした。

「『静けき夜、巷は眠る』」

 ドッペルゲンガーの一節。

 二年の秋、主役であり、『三銃士』のダルタニアンだったその時の声で心優はそれを諳じ始めた。

「どうしたの?」

 私の問いに彼女は答えず、夜となった空を見上げながら滔々と暗唱を続ける。

 その光景がなにか特別なものだったから、私はそこから目を離せず、それ以上の口を挟むことも出来なかったのだと思う。私は彼女に聞き入っていた。

 暗唱はほどなくして終わり、心優はこう続けた。

「私は、文そのものよりも、むしろシチュエーションに解釈の余地があるのだと思う」

 そう言いながら歩み寄る心優に、何か知らなかった一面を感じていた。

 彼女は私と違い、返事を待たなかった。

「貴女が私から主役を取れなかったのは、そういう機微に疎いからよ」

 手がとられる。

 彼女に恐れはない――、私は恐れ、空想に留めたがったのに。

 彼女のアニムスは彼女自身の味方で、ダンタリオンは彼女の一部だった。

 私は心優のドッペルゲンガーを理解した。

 だから、私はせめてこう言い返してやるしかなかったのだ。

「でも、私はいつも相手役ヒロインだった」

 そして、私の影が、彼女の唇と私のそれを重ね合わせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この家に我が恋し人はかつて住み ペトラ・パニエット @astrumiris

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ