女性エロ漫画家のアシスタントをしているんだが締め切り間際なのに海が見たいと言い出して困る

皐月

夜のドライブ


「真鍋くん。折り入って頼みがあるんだが聞いてくれるか?」


 物が散乱していて足の踏み場もないマンションの一室。

 エアコンの稼働音しか聞こえない沈黙を破り先生が声をかけてきた。


「お断りします」


 俺は即答した。するとわざとらしくペンが置かれる音がする。

 仕方なくPCモニターの横から顔を覗かせると、反対側で同じように顔を出した先生と目が合った。

 以前よりかなり伸びた潤いのなくなったぼさぼさの髪を後ろでくくり、おでこには冷えピタ、眼鏡のフレーム越しでもはっきりとわかる目の隈。

 その化粧っけのない顔はわかりやすく不満気だ。


「なんです?」

「キミは仮にも先生であるわたしの頼みを、聞く前から断るのか?」


 たしかに俺は先生のアシスタントだが、ドライオーガズムの観察だといって寝ている間にエネマグラを挿れようとする人間の頼みを聞くほどお人好しではない。


「どうせろくでもない頼みだという予感がするんです」

「大丈夫だ。今回はキミの貞操を脅かす話ではない」


 今回はということは普段はそうじゃないという自覚があるらしい。無視しようと思ったが、この無駄な時間で先生の手が止まるほうが問題だ。


「わかりました。それでなんでしょう?」

「海が見たくなった」

「駄目です。ペン入れを続けて下さい」


 即答で却下すると、先生はやれやれという風に手を上げる。


「作者のモチベーションは作品の質にダイレクトに関わってくると学んだだろう? それでもキミはこのまま作業を続けろと言うのか?」

「先生が本当に海が見たいのなら協力しますが、俺には単なる現実逃避にしか思えないんです」 


 先生はしばらくの間ジト目で俺を睨んでいたが、立ち上がるとごそごそと抽斗をかき回し始めた。

 だが片付いていない部屋だ、探し物はなかなか見つからないらしい。


「何を探しているんです?」


 先生は後ろ姿のまま答える。


「針を探しているんだが」

「どこかほつれましたか?」

「いや、先が尖っていれば安全ピンや画鋲でも構わない」


 使用目的が不明だが、俺は自分の文具入れからコンパスを取り出した。先生はそれを受け取ると寝室へと歩いていく。

 ますます不可解だ。

 まさか自傷行為じゃあるまいなと不安になったので後を追った。

 俺が寝室に入ると先生はベッドの上に胡坐をかいて、小さな箱からその中身を取り出しているところだった。


「……何をしているんです?」

「見てわからないのかい? 穴を開けようとしているんだが」


 俺は先生の手からコンドームを取り上げた。


「そういう陰湿かつシャレにならない嫌がらせはやめてください」


 俺に睨みつけられて先生は大げさにため息をついた。


「わたしがこういう行動に走るほど、キミの言葉に傷ついたということなんだが」


 よくもそこまで平然と被害者面ができるものだ。


「俺が悪かったです、それは謝ります。ただ現実問題として締め切りまで十九時間を切っているんですが」


 今は二十二時。締め切りは明日の十七時だ。


「具体的数字を出すのはやめてくれ。お腹の子にさわる」

「想像妊娠をするのは勝手ですが、それで締め切りは延びませんよ」


 先生はつまらなさそうに鼻を鳴らした。

 俺は子供に言い聞かせるように説得する。


「だいたい今からだと帰るころには交通機関が止まっていますよ」

「キミのバイクがあるだろう?」


 たしかに俺は中古のバイクに乗っていて、通学や仕事場であるここへ来るのに使っていた。


「駄目ですよ。二人分のヘルメットがありません」


 すると先生は立ち上がってクローゼットを漁りだした。しばらくするとSHOEIのロゴの入ったダンボールを抱えて戻って来る。


「なんでヘルメットがあるんです?」

「ネットで買った。こんなのもあるぞ」


 そう言って取り出したのは通信用のブルートゥースインカムだった。


「……ひょっとして以前からドライブをしたかったとか?」


 先生はそれには答えずにそっぽを向いた。

 照れているらしいが、この人の照れるポイントはズレている。俺の股間をデッサンしても頬ひとつ赤らめないくせに。

 こうなると出掛けないわけにはいかないようだ。締め切りのことを考えて俺は小さくため息をついた。




 俺が先生のアシスタントをするようになって一年ほどになる。

 アルバイトを探している時に美大の先輩から紹介されたのだ。

 商業誌では『お湯割りtheミルク』、同人では『お湯割りザーミルク』というのが先生のペンネームで、コアなファンのいる女性エロ漫画家だった。 


 俺はその先生に四ヶ月ほど前のホワイトデーの日に告白をした。

 成り行きもあったが以前から好きだったのは本当だ。驚くことに先生も同じ気持ちだったらしい。

 そこから恋人として付き合っている。

 仕事での関係もそのままだった。ただ恋仲になったことで先生は遠慮というか容赦がなくなった。


 デッサンのモデルになるのは構わない、実際に先生の画力は上がったと思う。もっともモザイク処理される性器の描写が上手くなってもあまり意味はない。

 やめて欲しいのは同衾の最中に「このアングル良いな」といきなりデッサンを始めることだ。動くと怒られて、こちらは蛇の生殺しだ。

 そのくせデッサンが終わると俺の萎えたを見て、早く復活させろと勝手なことを言うのだ。




 外に出ると熱気が襲ってきた。

 今年は梅雨寒だったが、梅雨が明けると猛暑続きだ。今夜も熱帯夜だろう。

 先生にヘルメットを被せてから、俺は愛車のホンダCB400SFスーフォアに跨った。先生がそれに続く。


「しっかりつかまっていてくださいよ」


 スピードを出すつもりはないが、俺も先生も二人乗りタンデムには慣れていない。

 先生は素直に俺の腰に腕を回してきたのだが。


「……どこを握っているんです?」

「おお、これは手すりじゃないのか。どうりで柔らかいと思った」


 先生の手は俺の股間に伸びていた。


「このまま振り落として帰ってもいいですか?」


 先生はそそくさと股間から手を放す。

 気を取り直して出発しようとすると先生が注文をつけてきた。


「ああそうだ。砂浜じゃないと嫌だぞ」


 なぜ直前になってそういうことを言うのか。

 もっともお台場に行こうと思っていたから行き先の変更は必要ない。あそこの海浜公園には短い距離だが砂浜があったはずだ。


「それから東京湾は却下だ」


 だからなんで直前になってそういうことを言うんだこの人は。

 東京湾が駄目となると九十九里か湘南しか思いつかない。距離的には似たようなものだろう。俺は行った経験のある湘南へと向けて出発した。



 

 湘南には一時間ほどで到着した。海は暗いが何も見えないほどではない。

 砂浜へ降りると先生は波打ち際へと駆けていく。


「転ばないでくださいよ」


 夏とはいえ濡れた服のままバイクに乗ると風邪を引く可能性がある。


「真鍋くんもこっちにきたまえ」


 俺は言われるまま素直に近づいた。

 そのまま波打ち際に立って海を眺めていると、いつの間にか先生が俺の背後に回っていた。そして寄せ波に合わせて俺を押してくる。

 だが普段は引きこもっていて、ペンより重い物を持たない先生の力では俺はびくともしなかった。


「むう。キミは意外に屈強だな」

「先生が非力なだけです。少しは運動をしましょう」


 俺がそう言うと先生は海水をすくってこちらへと飛ばしてきた。

 なぜか先生のテンションが高い。

 さっきも鎌倉高校前の踏切を見て、有名バスケ漫画の聖地巡礼だと騒いでいた。

 今は暗闇の沖を見て何かを探している。


「烏帽子岩っていうのはどこかな?」

「あれは江の島の向こう側、茅ケ崎ですよ。ここは七里ヶ浜ですから」

「キミは物知りだな」


 そんなことはない。バイクにはカーナビが付いていないから、自然と地理に詳しくなるだけだ。


「それよりそろそろ帰りましょう。もうすぐ日付が変わりますよ」


 そうなると締め切り当日ということになる。

 先生は隣に来て俺のスマホを覗き込んだ。

 液晶画面に表示されている時計は、今まさに零時を過ぎたところだ。

 その瞬間、先生が俺の首に手を回してキスをしてきた。


 すぐに終わるものと思っていたのだが、それは長く続いた。

 ようやく先生が離れると俺は辺りを見回す。

 真夜中とはいえ夏の湘南だ。まったく人がいないわけではない。


「いきなりどうしたんです?」

「記念日だからな。こういうことをしてみたかった」


 思わぬことを言われて俺は目を瞬いた。


「やっぱり覚えていないか。一年前の今日、キミはわたしのところに来たんだよ」


 だいたい今頃だとは思っていたが、今日だとは知らなかった。


「やたらと記念日を押し付けてくる女がいるだろう? わたしはああいうのを馬鹿にしていたんだが何のことはない、自分もそうだったみたいだ」


 先生は自嘲するように笑った。


「すみません。忘れていました」

「謝ることはないさ、年増の喪女が勝手に浮かれていただけだ。それじゃあ帰るとしよう」


 先生は先に立つと、振り返らずに浜辺を歩いて行った。




 バイクを発進させるとすぐに俺は先生に話しかけた。


「先生、今度は昼に来ませんか?」

「昼に来て何をするつもりだい?」

「もちろん泳ぐんですよ」


 先生は胡散臭そうに笑った。


「キミから遊びに誘うなんてどういう風の吹き回しかな?」

「今更ながら反省したんです。今までは彼女をデートにも誘わず、寂しい想いをさせていたなって」


 返事にはしばらく間があった。


「わたしのなまちろくて貧相な体が、真夏の陽光に合うと思っているのかい?」

「俺はそのギャップに萌えますけどね」

「……ふむ。キミは案外マニアックなんだな」

「それじゃあ決まりですね。その時は茅ケ崎の方へ行きましょう」


 再び間があって今度は先生から話しかけてきた。


「真鍋くん。このままモーテルに行かないか?」

「駄目です。締め切りまで十七時間ないんですよ」

「今この瞬間、物凄くキミが欲しいんだが」 

「嬉しい殺し文句ですが、原稿が終わった時にもう一度お願いします」

「それなら仕方ない。その時は搾り取ってやるから覚悟しておくように」

「お手柔らかにお願いします」


 先生が俺の腰に回した腕に力を込めた。


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女性エロ漫画家のアシスタントをしているんだが締め切り間際なのに海が見たいと言い出して困る 皐月 @Satsuki_Em

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