第4話 負け続けの中学時代ってどうなんだ? 1

 グラウンドに澄んだ音が響いた。

 観客のまばらな空間ではあまり発生することのない興奮が、ベンチの内側まで伝わってきて、ギネスブックを覗き込んでいた俺たちは、慌てて振り向いた。

 大木が走っている。一塁に向かって、土を蹴立てて大木が走っている。その間に、打った球はショートを抜けてワンバウンドし、慌てて駆け寄ったレフトのミットにえっちらおっちら回収された。

 ようようレフトが投球体勢に入れた時には、すでに大木は三塁まで到達していた。

 まさか、と思った。

 横の峰川も、菖蒲も同じ気持ちだったはずだ。小山田監督もきっとそうだ。長らく誰も踏まなかった三塁に、彼はたどり着いていた。俺たちにとっては、人類で何番目かにエベレストに登頂した冒険家にも等しい快挙だった。みんな、あっけにとられて口が半開きになっていた。

 三塁打を打った。いや、三塁打自体は、打とうと思えば運次第では打てただろう。だが今の俺たちの中に、三塁打を打とうと思える人間が残っていた。そのことに、驚きを禁じえない。打てることに意味があるのではなく、打とうと思ったことに意味があるのだ。

『ああ、勝てないだろうけど、打てたらちょっと楽しいから、俺は少し粘ってみるよ』

 先ほどの言葉がよみがえる。実際に打てた大木は、今、三塁というエベレストの上で何を思っているのだろう。

 当の大木は、その山頂からこちらに向けて大きく手を振っていた。振っては俺たちのいる本塁を指差し、また手を振ってくる。俺をエベレストのさらに上、宇宙まで連れて行ってくれよ。そう言っていることが身振り手振りでわかる。めちゃくちゃ、楽しそうだ。

 そうか、大木を宇宙に連れていくのだから、次のバッターは責任重大だな。のんきに考えたが、すぐに悲観的になった。そういえばネクストバッターズサークルには誰も入っていなかった。そんな無責任な打者に、大木を本塁に帰す気はあるとは思えない。

 他人事に構えていたところを、横にいた峰川につつかれた。

「おい」

「なんだよ」大木に手を振り返しながら答える。

「打順」

「打順がなんだよ」

「打順、次はお前だろ」

「は?」

 俺は絶句した。


 こういうのは、ピンチというのではないのか。

 俺は打席に上がりながら考える。投手と打者の真剣勝負、などという言葉がこの場に存在しなかったのはさっきまでの話だ。いまだに大木は手を振って、宇宙にまで連れていけと要求している。バットをちゃんと振れ、ヒットを打て、俺を本塁にまで帰すんだ。

 責任は重大だった。

 手汗を拭うことすら忘れて、バットを握った。グリップに巻かれたゴムの感触が非常に汚い、という感想を頭の隅へ追いやる。観客席からユキの応援が聞こえた、が、今の俺の励みとなるかは心もとない。

 見よう見まねのオーバースローでピッチャーが振りかぶる。

 ストライク!

 振りかぶる。

 ファール、ツーストライク!

 あと一球。あと一球だけだ。打てたらどうする。頭の中の俺が囁く。打てたら大木が走る。ばか、と頭の俺は突っ込んだ。お前だって走るんだ。足が速いのが取り柄だろう。でも、打てなかったら? と俺は聞く。そんなことは考えない。考えても詮無いからだ。打てたら走れ、打てなかったらその時だ。なすがままでいけ。

 そうか。俺は納得する。なすがままか。

 再度、ピッチャーが振りかぶる。投げた。

 直感的に「これは狙える」と理解した。体を捻り、バットを振る。自分でも無茶苦茶な体勢だと気づいている。だが、

 ——カン。

 打てた、と思った瞬間に走り出す。足が速いだけが取り柄だ。

 無事に一塁に収まると、すでに大木は本塁に戻っていた。

 記念すべき一点追加だった。

 チームメイトに囲まれている大木が、こちらを振り向いて手を上げた。それは月面でアメリカ国旗を背景に敬礼する宇宙飛行士を思わせる清々しさがあった。

 胸の中には、さっき打った時の興奮が、ばくばくという心音とともに残っている。じん、と手のしびれる感触が気持ちよかった。宇宙にいる大木に向かって、俺は一塁という地上から手を振り返した。


 結局、その試合ではそれ以上の追加点を挙げることなく、同じ回の裏で相手チームに二点奪われて一対八でコールド負けした。さすがにあの一点で試合の風向きが変わるほど、現実は優しくない。

 しかし。

 それでも。

 俺の手の中には、何かを掴みかけたような熱い手触りが残っていた。

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Let It Be 三木光 @humanism

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