第3話 負け続けの中学時代ってのも、悪くないよな3


 西中で野球部に所属していると胸を張って言えるレベルに到達しているのは、キャプテンの大木だけだった。

 それは七回表のことで、局面は◯対六というなかなかに絶妙なことになっていた。もう一点リードされればコールド負けという、普通のチームなら「やべえよ、やべえよ」と尻に火がつき出す危機的な状態で、だが俺たちは極めて冷静に対処していた。なぜなら負けることには慣れていたからだ。

 打順でなければ自由時間と考えて、当時の俺は峰川たちとベンチでギネスブックを肴に雑談をするのが常だった。このどうしようもない状況を、新任監督の小山田先生は感動をもって、「こんなにやる気のない野球部は初めて見た……」と表現したのだが、それはともかくとしてこの時読んでいたのはエロ本でも漫画でもなく、どうしたわけかギネスブックだった。

 アウトォ、バッター、チェンジ!

 無駄に張り切っている審判の声が、ベンチまで虚しく届いた。

 こちらの攻撃が始まってすぐ三振を奪われた菖蒲が、バッターボックスからベンチに降りてくる。身長が百二十と中二平均から大幅に下回るチビのくせに、やたらと口さがない生意気な後輩。それが菖蒲だ。

「お、三振おつかれー」

 ベンチに戻ってくる菖蒲に気づいて、峰川が、ニカァ、と手を振った。俺も適当に手をひらひら振って応えた。

 峰川は知的かつ痴的なクラスメイトで、吊り目のキツネ顔に銀縁メガネをかけているから、まるで絵巻に描かれている妖怪のように見える。この印象はあながち的外れではなく、中二の頃、俺はこいつに嵌められた。授業中、峰川からトラブるダークネスを渡されて戸惑っていると、「本田くんがエロ本見てまぁす!」と大声で叫ばれて赤っ恥をかかされたのだ。

 しかしだからといって峰川に反抗することは叶わない。なぜなら峰川には俺たちの誰も持っていない非常に重要な能力が備わっており、毎月のように彼はどこからか本物のエロ本を拾ってくるからだ。そうして発見された貴重な戦利品は、夜な夜な俺たちの家々を渡っては「健全な興奮」を供給している。きっと俺たちは一生彼には逆らえない。

 菖蒲と入れ替わりで、大木がベンチから出ていく。

「次は俺だな」

「おう、頑張ってきて。どうせまた勝たないし、適当に三振しちゃって」

 峰川が、あごを突き出しながら言った。

 普段なら適当に頷く大木は、しかし、曖昧な笑みで答えた。

「ああ、勝てないだろうけど、打てたらちょっと楽しいから、俺は少し粘ってみるよ」

「うっわ、キャプテン真面目ですね」菖蒲が呆れた口調で言った。

「まあな」

 俺はそのやり取りを、何とは無しに聞いていた。ああ、そうだ。確かに打つのは気持ちいい。でも打つならバッティングセンターでも出来ることだし、結局のところ、わざわざこの暑い中で勝たない試合を長引かせる理由はどこにもないんだ、と。

 要するに俺は倦んでいた。将来のことを考えるのは苦手だ。

 俺たちの日常には劇的なことなんてやってこない。どこかで見たラノベ作品のように軍所属のヒロインが転校してくることも、奉仕部なるイベントに巻き込まれることもない平坦な日常が、盆地の果てまで続いている。でもそれで十分だった。その外側の世界に何があるのかは知らないし知りたくもない。

 だからその時の大木の決意が、のちにどれだけ重要になるのかを、俺はまだ知らなかった。

 大木が出ていくと、声変わり前の甲高い声で菖蒲が聞いた。

「で、センパイたちは何を見てたんすか」

 峰川が本を持ち上げながら答えた。「ギネスブック」

「世界の山ランキング」俺が補足した。

「珍しい。漫画じゃないんすね」

「そうなんだよ、ギネスなんて気にするの小学生以来だわ。でも意外と面白いぞ。お前世界最高峰とか知らないだろ」

 俺は菖蒲が座れるように場所を作った。背後でストライク! という審判の声が響いた。

「いやそのくらい知ってますよ、八八四八メートルすよね」

「すげえ、知ってたのか……」

「逆に聞きますけど、どうしてわからないと思ったんすか」

「俺が知らなかったから、俺より赤点の多いお前ならきっと知らないだろうなって」

「は? キレそう」

 煽り合戦を始めかける俺たちの間に、峰川が一瞬で滑り込む。審判はファール! と叫んだ。

「ちなみに一番登るのが難しいのはエベレストじゃないんだとさ。二番目に高い、カラコルムって山らしい」

 話題に飽きたのか、菖蒲が身も蓋もないことを言った。

「ふーん。でもどんな山よりも、宇宙の方が強いですよね」

「ちょっと、何をしてるんだ?」

 急な声に振り向くと、小山田先生がベンチの入り口に仁王立ちしていた。

 全体的にぽっちゃりとした腹。大人しそうな丸い顔。二重あご。いかにもオタクっぽさの抜けないこの運動音痴な先生は、実のところ一児を息子にもつ父親で、子煩悩な面が強すぎて監督としての威厳が全くない。小山田先生は本気で叱ることができない人なんだろうな、というのは俺たちの間で一致している見解だ。

 小山田先生は俺たちの間からギネスブックを取り上げると、困った顔をして言った。

「ほら、ほら、せめて試合中くらいは野球しようよ。このままじゃまたコールド負けするよ」

「「はーい」」

 まるで小学生のような対応だが、小山田先生にはこれでいいのだ。

 試合に動揺が走ったのは、そんな日常に生まれた隙だった。

 俺たちが立ち上がろうと尻を浮かせたその瞬間。



 カン!



 澄んだ音が、グラウンド全体を貫いた。

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