スターゲイズ・ラブ
猫柳蝉丸
本編
先生に預かった合鍵で理科準備室の鍵を開ける。
本当は駄目なんだけどね、と苦笑していた先生の表情が脳裏に浮かぶ。
一生徒に理科準備室の合鍵を預けるなんて、外部に知られてしまったら確かに大問題だろうけど、どうせ総生徒が五人しか居ない学校なんだ。目くじら立てて厳重に管理するほどの鍵じゃないってのが本当のところだろう。僕の家にも鍵なんて掛かってない事だし。
「突っ立ってないで早く入ってよ」
まるみが長い髪を横に振って僕に催促する。まったく、堪え性の無い奴だ。
まるみは髪ばかり長くなってるくせに、その実は子供の頃から何にも変わっていない。中学生にもなって甘口のカレーしか食べられないし、ぬいぐるみのクマを抱きながらじゃないと眠れないままだし、この前なんかホラー映画を観たせいで夜中にトイレに行けずにおねしょをしてしまった事だって僕は知っている。まあ、胸と身長くらいは少しだけ成長してるみたいだけど……。
「分かってるよ」
僕が理科準備室に入ると、まるみはすぐに僕を追い越して目的の場所に辿り着いた。
天体望遠鏡。先生の私物だけれど、僕達に自由に使わせてくれてる古びた望遠鏡だ。
今でも日焼けで真っ黒になるくらい外で遊んでるくせに、まるみは星が好きだった。星なんかあんまり興味が無い僕を無理矢理天体観測に誘うくらい、僕に星座の名前を無理矢理半分覚えさせてしまうくらいには星が大好きな女の子だった。
「ほらほら、セッティングしたから見ちゃってよ」
活発にポニーテールに纏めた髪を振り乱して、まるみが僕に催促する。
「僕が先に見ちゃっていいのか?」
「どうせ二分くらいで見終わっちゃうじゃん。あたしはその後でじっくり見るのよ」
「よくお分かりで」
まるみがそう言うのなら希望通りにしてやろう。確かにまるみの言う通り、僕は五分だって同じ星空を見上げ続けられない。そこまで星座や宇宙に思い入れが無い。僕にとっては星空なんかより天体望遠鏡を覗き込むまるみの方がずっと興味深い。星空一つで千差万別な表情を浮かべられるまるみの方が。
そんなまるみを観察するためにも早めに星空を見上げておくとしよう。正確に言うと接眼レンズに瞳を寄せるだけではあるけれど。
流石は天体観測を好むまるみがセッティングしただけはある。焦点は完璧に合っていて僕は何の苦労も無く壮大な星空を目にする事ができた。ここが田舎だって事も関係しているんだろうけれど、天体望遠鏡で覗き込んだ宇宙には少なからず圧倒される。まるみが夢中になってしまうのも分からなくはない。まあ、二分見てたら飽きるんだけどね。
コル・カロリ、デネボラ、アークトゥルス、スピカ、まるみに教えられた春のダイヤモンドはすぐ見つける事ができた。いや、違うか。まるみは僕にこれを見せたくてあらかじめセッティングしておいたのだろう。
まさか本物のダイヤモンドが欲しいとか言い出さないだろうな……。
まるみより年上ではあるけれど、僕も中学生なんだぞ?
そんな事を考えながら勝手に背中に汗を掻いていると、まるみが僕の耳元で囁いた。
「どう? 綺麗に見えるでしょ?」
「ああ、うん、綺麗な春のダイヤモンドだな」
「はっ? 何言ってんの?」
「……見せたかったのは春のダイヤモンドじゃないのか?」
「違うってば。春のダイヤモンドの中に見える星座があるじゃん?」
春のダイヤモンドじゃなかったのか……。
僕は騙し絵を見る時みたいに焦点をずらし、春のダイヤモンドの周辺を凝視してみる。見えた、確かに。まるみに教えてもらった記憶がある星座。だけど僕はその星座の名前をすぐには思い出せなかった。確か何か変な名前の星座だった気がするんだけど。
「けんびきょう座?」
「けんびきょう座が見えるのは秋だっての。かみのけ座だよ、かみのけ座」
名前的には遠くなかった。季節的には正反対だったけど。
かみのけ座だったか。そういえば今日まるみが珍しく腕を振るってくれたパスタのカペッリーニも髪の毛って意味があるんだっけ。これは偶然なのか? それとも……。
自慢気に腰に手を当ててまるみが、あまり無い胸を張った。
「王冠に見立てた星、ディアデムを主として構成された星座なんだよ、かみのけ座って」
「いやまず、かみのけ座って昔の人は何考えてそんな星座を思い付いたんだよ」
顕微鏡も十分変だけど、何しろ髪の毛だ。とても常人の発想とは思えない。
「ん? 聞きたい?」
「いや、そんなには……」
「いいから聞いてよ。かみのけ座ってね、古代エジプトのベレニケ二世の髪の毛なんだよ」
また始まった。まるみは勉強が苦手なくせに、星座の話にだけは饒舌になる。その情熱を他にも回してくれればいいのにと思うけれど、存外に僕はそんなまるみが星座を語る得意そうな姿が嫌いじゃない。いや、むしろ好きだ。だから、あの時、僕はまるみに……。
「ベレニケ二世の夫のプトレマイオス三世がね、戦争に行ったんだよ。それで心配になったベレニケ二世はアプロディーテーに誓ったわけ、夫が無事に帰って来られたら髪の毛を捧げますって。そのせいかどうかは分からないけどプトレマイオス三世は戦争から帰って来てくれて、それでベレニケ二世は自慢の髪をちゃんと捧げたんだよ。いい話でしょ?」
いい話かはともかくとして、そんな由来があるとは知らなかった。
まるみの星座に関する知識には素直に感心させられる。
「まあ、いい話なんじゃないか。それでまるみはそんなかみのけ座が好きなわけなの?」
「いや、特に好きってわけじゃないけど」
「何じゃそりゃ」
「でも、見ておいてほしかったんだよね。しばらく見られなくなる星空じゃん?」
「うん……、まあ、そうだね……」
ゴールデンウィークが終わったら、僕は車で二時間離れた隣町に引っ越す。高校進学に備えて少し早めに隣町に慣れていた方がいいと思ったから。用意に時間が掛かって今の時期までずれ込んでしまったけれど、それでもそんなに遅くはないはずだ。
たった二時間の距離じゃ星空にそんなに違いなんて無いだろう。それでもこの町で見られる星空とはしばらくお別れだ。だからまるみに誘われた時、見納めにこの町の星空を見ておきたいって思ったんだ。
「いつ頃、帰って来るの?」
僕から視線を逸らしてまるみが呟いた。
普段はあんなにうるさいくせに独り言みたいに小さな声だった。
「分からないな。少なくとも高校受験が終わるまでは帰れないと思うけど……」
「お盆も、お正月も?」
「お盆は勉強合宿があるし、お正月こそ追い込みの時期だからね。無理かもしれない」
「その後は?」
「高校生活の準備があると思うから分からないよ。一年生のお盆くらいには帰れるかもしれないけど、もしかしたら活動が活発な部活に入ってるかもしれないしさ」
「そうなの……?」
「そうなんだよ……」
最後のまるみの言葉は掠れていたかもしれない。
だけど、分かってほしい、まるみ。僕はこの町を離れなくちゃいけないんだ。あの時、一ヶ月前、天体観測を楽しんでいるまるみを見た時、その愛おしさに思わずまるみの唇を奪って泣かせてしまってから、そうしなくちゃならないって思えたんだ。これ以上僕が傍に居たらまるみを困らせてしまう。だから、僕はおばさんに無理を言って早めに転校させてもらう事に決めたんだ。僕とまるみはこれ以上近付いちゃいけないんだから。
まるみが僕に視線を向ける。その瞳は潤んでいるように見えた。
「分かってる。分かってるってば。高校受験の準備も必要だよね。転校するのも仕方がないって分かってる。それは止めないよ。でも……」
瞬間、まるみはスカートのポケットの中からハサミを取り出すと、綺麗に纏められたポニーテールを切断した。止める隙も時間も無かった。あんなに綺麗だった長い髪の毛は一瞬にして失われてしまった。そうして現れたのは、小さな頃の僕がその髪の滑らかさを褒めるまで好んでしていた動きやすいショートヘアのまるみだった。
「帰って来て……、帰って来てよ……! 待ってる……、いい子にして待ってるから……!」
まるみの瞳から流れる大粒の涙。
普段は男の子みたいなくせに、日焼けで真っ黒に焼けてるくせに、まるみはいざという時に泣いちゃうんだ。小さな頃からずっと一緒に居るんだ。そんな事分かってた。分かってたから、これ以上泣かせたくなかったんだ。
だけど、分かっているのか、まるみ?
僕がこの町に帰るという意味を本当に分かっているのか?
あの時の涙は、拒絶じゃない別の意味の涙だったって言うのか?
馬鹿じゃないのか。そもそもどうして髪を切る必要があるんだ。髪を切るのは百歩譲って分かる。かみのけ座の由来に因んだんだろう。と言うかそれなら僕が帰った時に髪を切らなきゃ意味が無いじゃないか。全然因んでないじゃないか。そんな事も分からないくらい必死なのか? そんなに僕に帰って来てほしいのか? そんな事をしたらまるみも父さんも母さんも傷付くだけなんだぞ?
分かってる。分かってるってば。僕だって馬鹿だ。馬鹿だから恐かったんだ。まるみとこれ以上の関係になるのが恐かったんだ。だから、逃げ出そうと思ったんだ。馬鹿なまるみをいつの間にか好きになっていた馬鹿な僕だから離れたかったんだ。キス以上の関係だけは避けなきゃいけない事は分かってたんだ。
頭の中では饒舌なのに、何も言い出せない僕の胸の中にまるみが飛び込んでくる。
「帰って来てよお、兄ちゃんっ……!」
胸の中で泣きじゃくるまるみの肩を抱き締めればいいのか突き放せばいいのか、僕には分からなかった。ただ間抜けにも考えていたのは、アプロディーテーに捧げたというベレニケ二世の髪の毛はその後どうなったんだろうという事だけだった。
スターゲイズ・ラブ 猫柳蝉丸 @necosemimaru
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