第1章
序話 とある女子大生と謎の男の話
その不思議な男と出会ったのは、秋も近い少し肌寒い曇りの日のことであった。
「おや、お詣りですか」
神社への参拝を終えて、帰りのタクシーを呼ぶために電話をかけようかなと思っていた時、その男は私に声をかけてきた。
「……え、えっと、はい」
元々、あまり見知らぬ人と話すことが得意ではない。
そのこともあり、少々戸惑いながら頷くと、男は銀縁眼鏡の奥を柔和に細目ながら「失礼しました」と軽く頭を下げた。
「驚かせてしまったようで、申し訳ありません。ただ、若いお嬢さんがこの神社に御詣りに来られたことに大変驚きまして」
「あっ、いえ、……その、こちらこそ失礼しました」
男の謝罪を受け、私も慌てて頭を下げる。
「……あのぉ、御近所の方でしょうか?」
「ええ、ここから少し離れた所に隠居している爺です」
爺、という自称とは裏腹に男は皺の少ない顔に笑みを浮かべて答える。
頭こそ総じて白いものの、スラッと伸びた背筋に締まった体はその表現は些か不適当に思われる。
「爺って、まだまだお若いじゃありませんか?」
「ふふふ、ありがとうございます。ですが、ここで育って七十年はとうに過ぎましたから立派な爺ですよ」
ななじゅう。七十。
自分の頭の中で二度ほど言葉を咀嚼して、凡そ自分の年頃の女子には相応しくないであろう驚きの声が口から飛び出る。
「ええぇ!? 七十って……マジですか?」
「はい、マジです」
唖然、茫然。
そんな私の様子に男は楽しげに笑う。
「みなさん、大変驚いてくださるので、ついつい私も楽しくなってしまいまして」
「は、はい。……今でも、ちょっと信じられないです」
五十半ば、いや背格好や顔だけなら四十代でも通じる可能性も十分にある。
「ありがとうございます。……ところで、お嬢さんは御旅行で?」
背中の大きなリュックをみて思ったのだろう。男の問いに首肯する。
「えぇ、大学の友達と今朝まで三日間、京都と大阪を回っていました。ただ、どうしても最後に此所へ来たくって、友達には先に帰ってもらって私だけ」
「そうですか。駅からここまで来るのは大変だったでしょう?」
その言葉に小さく首を振る。
「いえ、実は京都に住んでる友達が滋賀県の北の方に用事があるってことで、途中を越えて送ってもらったんです」
「そうですか、それは幸運でしたね。大原なんかは京都の街中とはまた違う雰囲気だったでしょう」
こうして話していくうちにすっかりと緊張感が解れたのか、旅行の事や友達の事、自分の故郷である町の事や大学の事など、気がつけば私は随分と話し込んだ。
どうやら、昔は教師をやっていたという男は、熱心に私の話に耳を傾けて、時に驚き、時に懐かしそうに話の腰を折らない程度に話に関連したの自らの昔話を挟んでくれた。
こうして、話していくうちにふと、心の中の弱気の顔が出てしまったのだろう。
「……お爺さんは、この神社の由緒は御存じですか?」
「えぇ、近所というのもありますが、昔から歴史の話は大好きでして」
私の質問に、男は柔らかく目を細めて社殿の方を見やる。
この神社――還来神社は、桓武天皇の皇妃にして淳和天皇の生母、藤原旅子が三十三歳の若さで病気で亡くなった際、「故郷、比良山の南麓のなぎの木の根元に葬ってほしい」との遺言により、 死後再び生誕の地に還ったことから神として祭られた事が由緒である。
そして、旅子がこの地に帰ってから約四百年後の一一五九年。
平治の乱に敗れた源義朝・頼朝父子が東国への 敗走中に還来神社に立ち寄り、白羽の鏑矢を貢納して源氏再興を祈願した。父親の義朝は尾張国で無念の内に命を落とすことになり、子の頼朝も伊豆への配流の身となった。
しかし、その後、伊豆で雌伏の時を経た頼朝は平氏に対して反撃の狼煙を挙げ多くの同士の先頭に立ち再び立ち上がった。そして、数多の戦いの末に平氏を打ち倒し、一一九〇年に名実共に武家の頂点として後白河法皇との会談に臨むべく大軍を率いて再び京都に地へと帰還した。
――父と共に敗残者として京都の地を逃れてからおよそ三十一年後の帰還であった。
「こうした言い伝えにあやかって、昔は出征する家族の無事を祈りに来る人が江若鉄道の駅からたくさん訪れていました。……今は数こそ少し寂しくなりましたが、新年度の前や長期休みの前にはお詣りに来る方の姿をよくお見掛けします」
「そうなんですか。……やっぱり、時代が変わっても、訪れる人の思いは同じなんですね」
「ええ。……ですが、それは私よりもお嬢さんの方がご存知ではないでしょうか?」
「ふふ、かもしれませんね」
男の言葉に微笑んで同意する。まるで、胸の内を見透かされたようであったが、不思議と不愉快さは無かった。
「……実は、私の彼氏が来月から遠くに行っちゃうんです」
そして、私は少しずつ胸の内を話した。
将来を誓った自衛隊員の恋人がいること。
その恋人が一年の間、内戦が終結したばかりの中東のとある国へと派遣されることが決まったこと。
今、思い返しても、初対面の人間に話すような内容ではないが、男は大変親身になって耳を傾けてくれた。
「……あくまで後方での勤務になるので、危険はないって彼は言っています。けど、日毎に彼が旅立つ日が近付くにつれて、どうしても嫌な出来事を想像してしまうんです」
「……胸中御察し致します。……僕の知り合いも何人かは戦争で大陸の方や南方の方に出て行きましてね。……帰ってきた人もいれば、駅まで見送ったきりの人もいました」
そう男は悲しげに目を伏せる。
脳裏で名前も知らない日本兵の姿が、自分の良く知る人の姿と重なっていく。
「……すみません、不安を煽り立てるようなことを言ってしまいまして」
よほど酷い顔をしていたのだろう。男は私の顔を見て、申し訳なさそうに謝罪する。
「……いえ。……はは、一体、私になにができるんでしょうね?」
自分のものとは思えないほど乾いた笑いが零れる。そして、
嫌な想像。そして、自分の無力感に心が黒く塗りつぶされていく。
「残念ながら、旅立った後に何かできることは限られてくるでしょう。……ですが、」
男と目が合う。まるで、海の底のような深く穏やかながら、全貌がわからない黒い瞳が私を見つめる。
「無事を祈ることはできます。……所詮は神頼みかもしれません。ですが、どうせ心の中で不安を感じるのなら、その想いを貴方の大切な方の無事を祈る力に代えて外に出してしまえば良いじゃありませんか」
「……そうでしょう……か?」
呟く私に男は深く頷く。
「ええ。心の中で沸き上がる不安はどうしようもありません。ですが、その想いを胸に溜めて憔悴するよりかは、あなた自身も楽でしょうし、……何より、貴方の大切な方も安心してくれるんじゃありませんか?」
「……あ」
その言葉にハッとする。
最近、会う度に浮かべていた不安そうな表情が頭の中に浮かぶ。
何でそんな表情を浮かべるのか、まったく分からなかったし、あまり深く考える余裕もなかったが、何てことはない。
「……逆に心配をかけちゃっていたんですね」
何て滑稽なことだろうか。
自分の不安が逆に新たな重荷になっている何て本末転倒も甚だしい。
「ふふ、どうやら何か整理がついたようですね」
「ええ。……正直、まだ不安はありますが、自分の中で溜め込むことはやめようと思います」
私のためにも、彼のためにも、せめてその想いが届くように外に出して祈ろう。
その思いを告げると、男は「そうですか」と柔らかく微笑んだ。
あれから一ヶ月が過ぎ、彼は遠い異国の地へと旅立っていった。
不安は消えないし、家の電話が鳴る度に嫌な想像が頭をよぎるときもある。
無力感に苛まれる日もあれば、寂しさと不安に枕を濡らす日もある。
だから、私は祈る。
自分の弱さや無力、願いや希望もすべて。
この寒空の遥か彼方、大海を越えた遠い異国の地へといる彼の力になることを願って。
江龍伝説―淡き湖から琵琶の湖へ― 西野淡 @wabisuke03
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。江龍伝説―淡き湖から琵琶の湖へ―の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます