約一年前……竹生島にて

 木々が騒めき、水面がうねる。

 朝のような青空と太陽の姿は既に消え、色彩を失った灰と黒が空を包む。

 黒雲からは唸るような雷鳴が轟き、そこから無数の矢の如く大地へと放たれる雨が肌を刺す。


『覚悟はいいか?』


 頭の中からソレが問いかける。

 何が起こっているのかすらも半分も理解できていない。

 ただ、確実に言えることは、自分の世界は半日も立たないうちに崩壊してしまったこと。

 そして、その崩壊を受け入れない限りは自分に先は存在しないこと。


 目の前からは異形の怪物が一歩ずつ距離を詰めてくる。

 二足歩行の蜥蜴人間とでもいうべき怪物の瞳には、捕食者ならではの嗜虐的な炎が爛爛と輝いている。


 黒く染まった胸元に手を当てる。手から伝わるぐっしょりと湿った感覚に、胸元を貫かれた瞬間の恐怖が生々しく蘇る。

 が、すぅ、と軽く息を吸い込んで吐く。

 たったそれだけで、潮が引くように恐怖が静まっていく。


 目の前には自分を殺した怪物。灰色の世界の中でたった一人という状況。


 普段であれば少し前のように恐慌に駆られて泣き叫ぶ筈だ。まるで、自分が自分でないみたいに感情の振れ幅が鈍い。

 ぼんやりとした疑問が頭をよぎるが、今はどうでもいいと打ち消す。そんなことより、目の前の怪物だ。

 頭の中のソレに答えを返す。シンプルに一言。


「出来てるよ」


 閃光と共に空を揺らすような轟音が響く。

 唸り声は咆哮へと変わり、光の剣を大地に叩きつける。

 風が暴れ、荒波が宙へと踊り狂う。

 空へと舞いあげられた水の塊が重力に従って滝のような雨となる。


『上出来だ。……行くぞ』


 その言葉を合図に左の手に刀が顕れる。

 白い鞘に、紺色の柄。


 日本刀など触れた事すらないのに、どう扱えば良いのか体が覚えている。

 いや、それ以上に、何故か懐かしさすら感じる。


 左手を鞘に添えて、右手で柄を握りゆっくりと引き抜く。

 稲妻に照らされて石英のような半透明の白刃が光る。

 そして、半ばに至る前に一気に残りを引き抜く。


「!!」


 刹那、眼前に稲妻が降り注ぐ。

 飛び散る焼けた土の匂いが頬を通り過ぎる。


 右手から瞬く間に何かが体を覆っていく。

 まるで鱗のように第二の皮膚というべきものが体に作られていく。


 落雷による土埃が晴れると共に視界がクリアになっていく。

 視線を下ろして体を見ると、先ほどのようなボロボロのシャツと長ズボンはなかった。

 その代わりに全身を覆うのは、白いスーツに肘や胸を覆う装甲。


 さながら、白い龍の鎧武者というべき存在か。


 対峙する怪物の目が突然変化した目の前の得物を見据える。

 その目には既に嗜虐的な色に加えて、別の色の炎が垣間見える。


 戸惑い。そして、警戒。


 そのまま、舐めてかかってきた方が幾分と楽であったと思うが、仕方がない。

 どのみち、やることに変わりはない。

 刀を構えて相手を見据える。

 すっと体勢を低くする。

 そして、足に力を込めて一気に駆けた。




 その日、伊高 透(いたか とおる)が竹生島を訪れることになったのは、ほんの偶然と気まぐれからであった。

 大学で卒業論文のテーマについて調査している中で、たまたま図書館で竹生島の神事に関連する史料を見つけたのが、一週間ほど前。

 そういえば、小学校の頃のフローティングスクールで船の上から見ただけで、実際には一度も訪れたことが無かったなと思いながら、何となくネットで検索すると今津港から観光船が出ており、せっかくの機会だからと、半ば衝動的に予約の申し込みをした。


 快晴の空の下で小型船の中で揺られること三十分。短い船旅を経て竹生島へと到着する。

 帰りの船の時間などの諸注意を告げるガイドの説明もそこそこに受付で手続きを済ませると、祈りの階段と呼ばれる石段をまっすぐに上っていく。本格的な運動から離れた大学生活の中ですっかりなまりきった体に若干のショックを受けつつ、途中で本坊と月定院に寄り道をしながら、一番上の高台までたどり着くと朱色の社殿が目に映る。この島最大の建造物の宝厳寺本堂だ。

 弁財天を祀る平安時代様式の建造物であるが、現在のものは昭和時代に新築されたコンクリート造りのものである。

 しかし、ある程度の年季を既に経たためか、将又自身の見る目がない故か、伊高の目からは外観を見る限り不自然な真新しさもなく、さほど違和感は感じなかった。それでも、流石に江戸時代に建てられた唐門と比較すれば、年季の差は顕著ではあるが。

 本堂を参拝し、向かいの石段を上った場所にある宝物殿を見学した後、石段を下りて一番楽しみにしていた唐門と船廊下へと向かう。


 宝物館の見学が充実していたこともあり、若干浮ついていたのであろう。

 先ほどまでにいた観光客の姿が誰一人として見当たらないことに何の違和感も感じないまま、軽い足取りで下りの石段を進んでいき唐門の手前に差し掛かった瞬間にふと生臭い匂いが鼻をつく。


 ここで初めて違和感を感じて石段の途中で足を止める。

 ゆっくりと後ろを振り返るが、誰の姿も見えない。

 背筋に冷たいものを感じながら周囲を見回すが誰の姿も見えない。

 一緒の船に乗ってきていた人々も、先に来ていた老人会のツアーらしきグループも。

 港から聞こえてくる喧噪や船の音も。誰の声も、気配も。


 ざわざわと木々が揺れる音が嫌に大きく聞こえる。

 依然、生臭い臭いは消えない。


『……ろ』

「え?」


 木々の音に交じって捉えた誰かの声が聞こえたような声がして、思わず口から声が漏れる。

 慌てて耳を澄ますと、確かに。遠くか近くかすら不明な不思議な声が、誰かが何かを言っている。

 木々が揺れる音が徐々に小さくなっていくと共に、声が徐々に鮮明になっていく。

 右手で口と鼻を覆い、臭いを少しでも防ぎながら聴覚に意識を集中する。

 そして、その声の言葉を完全に捉える。


『逃げろ!』


 突然の警告。

 そして、それに疑問を持つ間もなく耳を穿つような咆哮が響き、背中に激痛と衝撃が走る。

 突如として感じる浮遊感に頭の理解が追い付かないまま、伊高の体は重力に任せて落ちていった。




 仄かな木と香の匂いが鼻腔をくすぐる。

 水の底から浮き上がるように徐々に意識が覚醒していく。


「……ん、……あ?」


 視界に映る見知らぬ板天井。

 次いで、潮が満ちるように全身の痛みと、意識を失う前の記憶が蘇ってくる。

 苦悶の声を口から漏らしながら、伊高は上体を起こして若干まだはっきりしない頭のまま周囲を見回す。

 どこかの堂舎の一室なのか、板間の部屋には何も見当たらない。

 ポケットを探ると、スマホと財布はちゃんとある。現金が取られたようでもない。


「……助け……られたのか?」


 そう口にしてみるが、胸の内の粘つくような不安はまったく消えない。

 伊高は、僅かに逡巡するとゆっくりと体の感覚を確かめるように立ち上がる。

 節々が熱を持ったように痛むが耐えられないほどではなさそうだ。

 恐る恐る、障子を開けると外へと足を踏み出す。


 部屋を出てすぐに伊高の目に映ったのは長い廊下であった。

 一直線に続く板敷が延々と続き、所々に左右の格子状の窓から仄かな光が漏れ出ている。


 まるで、船廊下みたいだ。


 周囲を見回すが、人の姿はおろか気配も感じない。

 伊高は意を決すると、廊下の先を目指して足を進める。

 一歩、一歩、進むたびに鳴る木材の軋む音がいやに大きく響く。

 得体のしれない恐怖から脱するべく早く足を進めようとする意思に反して、体は思うように動いてくれない。

 酔いが回ったような覚束ない足取りのまま進みながら何とか終点までたどり着く。


 ふと、鼻腔に何かの匂いを感じる。


 鉄のような、魚のような。


 奥へと目を向けると、立ち並ぶ障子のうちの一つが仄かに橙色の光を帯びているのが見える。

 頭の中で絶え間なくなる警鐘。しかし、まるで吸い寄せられるように伊高は障子へと近付きその隙間に目を当てる。


 最初に目に入ったのは熟れた柘榴のような赤だった。

 まるで、果実が破裂したかのように室内全部に赤が飛び散っている。


 そして、部屋の真ん中には何者かの後姿、……いや、一見すると人影にみえるが、明らかに人間ではない異形のナニカが蠢動している。


 ぺちゃ、ぺちゃと両手を口に当てながら目の前に横たわるモノを貪るように喰らう。


「っぅ!!」


 胃の中がせりあがり、口内に不快な酸味が広がる。

 けして声が漏れ出ないように必死に両手で口を押える。


 しかし、そんな行動をあざ笑うかのように、ナニカは動きを止めるとくるりと背後を振り返る。


 ……ニタァ

 

 ペロリと長い舌が口元の朱を拭う。

 爬虫類のような顔に、黄色い瞳。

 異形の姿のソレは、伊高の方を見ながら真っ赤に血で染まった口を吊り上げた。




 その後、どうやってあの場を離れたのか、どうしたのかはハッキリとは覚えていない。

 堂舎を出るとただ必死に走り続けた。

 脚が縺れて何度も転ぶ。灰色の空から雨が降り、体をより一層濡らす。


 一歩でもアレから遠くへと逃げる。


 その思いだけを胸に、肉体的にも精神的にも限界を越えるなか、周囲の違和感など一切気がつかないまま走り続ける。

 道なき山道を走り、木々の間を走り抜ける。

 そして、鬱蒼と茂った森を抜けた先に待っていたのは。


「……あ、あ」


 灰色の空の下で果てしなく続く黒い湖。

 そして、歓喜の貌で牙を鳴らす異形であった。


 体中の力が抜けて体が崩れ落ちる。

 逃げるべく体を動かそうとするが、水中でおぼれるように一歩も進まない。

 地面を這いながら手足だけを懸命に動かす獲物を弄ぶように、それはゆっくりと伊高に近づく。


 グシャッ!


 背中を襲う衝撃と共に潰れたカエルのような声が出る。

 万力のような力が徐々に背中に加えられていく。

 体の内側から何かが割れるような不快な音が響く。

 鉄臭さの強い胃酸が口に上る。


「……や、やべ……て、……ぐだ……ざい」


 伊高の懇願に一瞬の間を空けて背中が軽くなる。


(……た、助かった?)


 生まれてしまった希望を胸に伊高が微かに首を動かす。

 そして、一瞬で絶望へと叩き落される。


「あ……あ、あああぁ!!」


 ぐしゃぐしゃになった獲物の顔を見て異形が口元を吊り上げる。

 そして、満足したように喉を鳴らすと、見せつけるように刃物のような爪をゆっくりと振りかぶる。


(イヤだ!、イヤだ!、イヤだ!)


 恐怖と絶望に染まった獲物を満足げに見ながら、異形の爪が伊高の心臓へと振り下ろされた。




 胸が焼けるように熱い。

 その一方で、四肢は徐々に冷たくなっていく。

 自分の命が体から流れ出ている感覚を味わいながら、徐々に思考に霧がかかっていく。

 時間の間隔すら曖昧になるなる中で、自分の存在が希薄になっていくのを感じる。


『そうだ。お前の考えているようにそれが死だ』


 どこか聞き覚えのあるような声が頭の中に響く。

 男とも女とも、若者とも老人とも判断のつかない。あぁ、誰の声だっただろうか。


『このままだと、数刻もしないうちにお前の存在は消え、本能のままにこの世界を彷徨う『怪異』の仲間入りをすることになるだろう』


 謎の声が生煮えのスープのような頭の中を回る。

 退屈な講義を聴いている時のように、何となく大事な事であるとはわかるが意味が全く咀嚼できない。

 ただ流されるままに、耳だけ傾ける。


『……単刀直入に問おう。お前は、もう一度生きたいか?』


 いきたいか。生きたいか。

 微睡みに入りつつある思考の奥が揺れる。

 失われつつある自分の中に最後に残った想いを振り絞り声に応じる。



 死にたくない。生きていたい。


「おれは……まだ、何もしていない!」



 その言葉に応えるように、凄まじい力が胸から体に流れてくる。

 血と一緒に垂れ流された命が何倍にもなり胸から全身を伝い、四肢へと満ち溢れていく。

 死に染まっていた自分の肉体が、思考が、新たに生まれ変わっていく。


『契約完了だ。受け取れ、新たな今代の子よ』


 体を包む白い光の奥へと左手を伸ばす。


 光の彼方から天翔ける龍の姿をとった力が左手から体内へと入る。


「お、おおぉぉっ!!」


 叫びと共に白い龍の力が体の中で混ざる。

 体の外に溢れ出た力の奔流が龍の鱗の如く肉体を覆っていく。

 形成された鱗皮の上に白く輝く装甲が纏われていく。

 そして、龍を象った顔全体を覆う兜が装着される。


 光の中で戦士の影が浮かび上がる。

 他のものが目にするのであれば、鎧を纏ったその姿は西洋の騎士にも戦国の鎧武者とも形容するであろう。


「こ……これは?」


 その瞬間、呆然とする伊高の脳内に凄まじい情報が流れ込んでくる。


 琵琶湖に眠る白と黒の龍。


 飛び散った光と闇の力。


 歴史の裏に存在する異形とそれを討つ者。


 凄まじい速度で流れていく景色のように、刹那の時間で長きに渡る時の映像が伊高の頭を通り過ぎる。


『火急の事態ゆえに不安もあったが、何とか継承したようだな』


 頭の中で声が響く。


「……今のは?」

『記憶だ。まぁ、今だけでは欠片も理解できなかったと思うが、じきに思い出す事もあるだろう』

「どういうことだ?」

『後でわかる。……さて、そろそろ目覚めの時だ。新たな「命」と「力」が君の助けにならんことを』


 その言葉と共に視界を包む輝きが強さを増す。

 眩しさに目を細めながら、伊高の意識は再び光に呑み込まれた。




 雨の音と匂いが鼻をつく。

 うっすらと目を開けると空には、色彩を失った灰と黒。

 強風に乗って冷たい雨が肌を打つ。


「まてよ」


 伊高はゆらりと立ち上がると、その場を去らんとしていた捕食者を呼び止める。

 血と泥で汚れながらも、すっかり傷が消えたその姿を不思議に思ったのか。

 こちらを振り返った怪物は訝しげに小さく唸る。


 だが、所詮は些末事と断じたのだろうか。

 瞳の奥に瞬く間に嗜虐の色の炎を燃え上がらせて、改めてこちらに対峙する。


 木々が騒めき、水面がうねる。


 空を覆う黒雲からは唸るような雷鳴が轟く。


 目を閉じると、自分の知らない筈の記憶が次々と蘇る。


 何が起こっているのかすらも半分も理解できていない。

 しかし、記憶は、経験は自分が何をするべきかを容赦なく告げてくる。


 確かなことなど何もわからない。

 ただ、確実に言えることは、自分の世界は半日も立たないうちに崩壊してしまったこと。

 そして、その崩壊を受け入れない限りは自分に先は存在しないこと。



『覚悟はいいか?』


 頭の中から声が問いかけた。




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