エンプティソウル
青白い月明かりが、冷たい闇を貫いている。光の行方に在るものは、ひび割れた窓硝子と、浮遊する埃の粒子と、朽ち果てたキャンバスが散乱する小さな部屋。
その終点には扉がある。湿った空気と真白い黴に蝕まれ、緩やかに腐りつつあるオークの扉――未だ渇き切らない、粘ついた血の手形が張りついた扉が。
その向こうに広がっている光景を想像する。妖美と退廃に満ちた
存在を感じる。扉の隙間から漏れている空気のせせらぎは、冬みたいに冷たくて、獣が纏う臭いに似ている。濃密に発酵した、返り血と腐肉――絶対的な捕食者の香りに。
標的は、既に手負い。討ち手によって、深々と胸を抉られるのを見た。その血の痕跡をたどり、かの魔物の隠れ家を手繰りあてた。
懸命に手の震えを抑えながら、リボルバーに
目を閉ざして想起する。娘を奪われた父親の涙ながらの訴えと、母親の慟哭を。かつて一度だけ、かの者たちの犠牲となった骸を見たことがある。血を奪われ、萎び、枯れ果てた姿。必ず娘を連れ帰る、と――そう約束することは出来なかった。
錆びついたドアノブに、冷たい汗で濡れそぼつ手をかける。息を飲んでそれを廻し、空錠を外す。ゆっくり、ゆっくりと扉を押し、目と銃口を覗かせるだけの微かな間隙を生み出す。凍える微風の向こうで、なにかが滴る音が聴こえた。
やがて明ける夜と、終わりのない常夜の悪夢。ふたつの世界の断絶がある。
見据えた先の空間に存在するものは、質量を持つほどに濃密な闇と、どろりと粘っこい緑色のランプの明かり。床には、赤い軌跡が続いている。それを目で追って、辿って、そして見つけた。部屋の真ん中でへたり込んだ、影を纏ったその姿を。
切り裂かれたシャツとベスト。路地裏の汚泥を被った金色の髪。その者は跪いている。両膝を床に付き、顔を伏せ、溺れるほどに息を荒げている。
そう、溺れるほどの液体が、そこにある。
それは、赤くて熱い水を湛えた器だった。白くて、柔らかくて、湿っていて、まだ暖かいその器。大きく広げた四肢の末梢は、なにかを求めるようにぴくり、ぴくりと震えている。真中に開いた赤黒い穴からは、とめどなく潤いが溢れだし、静寂を水音で乱している。
その者は器に顔を深く沈めながら、夢中になって渇きを癒す。時には器を引きちぎり、瑞々しい断片を咀嚼する。喰らって、呑んで、貪って――人の姿をしたけだものの、冒涜の聖餐、狂おしい悪夢。
恐怖が全身を貫いた。痺れるような、理外の恐怖。人の内に隠された、最も深い井戸から汲み上げられた原始の恐怖が。
悲鳴を堪えた。込みあげたものを抑えた。けれど、それが決壊するのは、もうすぐの事だった。
天井から、吊り下げられているものがあった。丸くて、滑らかで、白い表面に、緑のランプの光が生えている。一部から伸びた黒い総からは、赤い雫が滴り落ちている。それは床に横たわる器の、本来あるべき一部だった。
それは――丸くて、滑らかで、白いそれは――うら若き娘の顔は、貪食される自らの身体を見下ろしていた。
それは、冷たくなった肉塊ではなかった。美しい眉を歪め、青い目を瞬かせ、うわごとを言うように唇を動かしている。生きている――その首には、まだ生命が宿っている。
けだものが顔をあげた。双眸が見つめ合った。娘の瞳から一筋の雫が零れると、それを見た真っ赤に濡れた顔が凄惨に歪み、そして笑った。
噴出する狂気と、果てない恐怖の波濤。
理解した。これはあの、けだものの仕業だと。首を切り、そうして自らの血を与えて永らえさせ、身体を貪られていく絶望さえ馳走にしようとする、おぞましい儀式だと。歪んだ享楽と愉悦で、満たされぬ魂を満たそうとして。
もはや、耐えることは出来なかった。かつてない恐怖を狂おしい怒りで上書きし、咆哮を叫んで扉を蹴りあけた。けだものの金の双眸が、夜闇で輝くのが見えた。その閃きに向けて、引き金を絞った。
けだものの眉間を、辰砂の弾丸が砕いた。仰向けに倒れこみ、藻掻くように両腕が痙攣する。
撃鉄を引く、引き金を絞る、轟音。撃鉄を引く、引き金を絞る、轟音。撃鉄を引く、引き金を絞る、轟音。撃鉄を引く、引き金を絞る、轟音。撃鉄を引く、引き金を絞る、轟音。撃鉄を引く、引き金を絞る――
けだものは、ついに動かなくなった。髪は朱に染まって、かつて何色だったのか、もう判別できない。顔があるはずの部分には、ただ虚ろな穴が開き、赤と白の混合物がうねっている。死なぬ者は、死んでいない。怪物を殺し、滅ぼすには、辰砂の毒はあまりにも弱い。
天井に吊り下げられた娘の首を見つめる。虚ろな目からの落涙は、床に達するより早く凍りつき、冷たい氷の一粒となる。擦れる声を呟く口から覗く歯は、まるで獣の牙であるように、禍々しく尖りつつある。
娘は言う。喉が渇いた、と。その表情からは次第に絶望が薄れゆき、そして凄惨に歪み、笑った。
辰砂の弾丸を込め直し、撃鉄を引き、引き金を絞った。隣の部屋から朽ちたキャンバスを集めて火を熾し、ふたつの不死と、夜の澱んだこの場所を焼いた。
やがて黎明の陽ざしが訪れた時、灰燼に帰した満たされぬ魂は真の滅びを迎えるのだろうか。
そうであってほしい――それだけが、今やただひとつの願いだった。
短編第一集 二都 @nito_ren
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