白蛆

 白い天井、白い壁、白いシーツ。

 部屋には窓がなくて、仄暗く青白い電球の閃きだけが、暗闇を暴くただひとつの光。空気はくらくらするくらいにオピウムの匂いが混じり、酷く湿って生温い。錆びついた鉄の扉――格子の掛けられた覗き窓から、時折、怯えた双眸がじっと私の様子を見ている。あの人たちは恐れている。私の、心の悪を。


 天井の染みを数えてみる、壁のひび割れを辿ってみる。今はもうそれだけが、私の能動のすべて。小さなベッドの囚人として許された、ただふたつのささやかな自由。破ろうとしても、手足を縛って離さない抑制帯が、軋む音を叫ぶだけ。逃れることは出来ない――そうする必要もない。だって、これだけが、私の悪を押さえつける、唯一の戒めなのだから。


 願わくば、終の刻までこのままにしておいてください。そうでなければ心の悪が、弱い良心を呑み込んで、私は再び罪を犯すことでしょう。きっと天国に行くことは出来ないだろうけれど、もう神に恥じる行いを重ねたくはないのです。だからこの混沌ベドラムの、永遠の虜のままでいい。

 この、心の悪が、消えない限り。


 §


「マゴットセラピー、と呼ばれる治療法を知っているかね」


 先生は、ガラス細工のように繊細なシリンジの針を刺し、私の腕から血を抜き取りながら話を始めた。


「蠅の幼虫――蛆虫に人体の壊死した組織を貪食させることでそれを除去するという治療法だ。一種のデブリードマン。極めて原始的な技術ではあるのだが――」


 数匹の蠅が、螺旋を描きながら宙を舞っている。先生の、染みだらけの白衣の臭いに引きつけられたのだろう。フリージアの香水でも誤魔化しきれない、濃厚な死の香りに。


「――それによって、君の心の病を治癒させることが可能とすれば、どうだね」


 先生はそう言うと、医療器具を詰め込んだバッグから、ひとつの小瓶を取りだした。そのなかで蠢くのは、小さく真白で艶やかな蛆虫。青ざめた電球の明かりに照らされて、まるで真珠の粒みたいに輝いている。


「この新種の蛆虫マゴットは、肉だけでなく、人の心の病を貪る。そして後には、良き心だけを残してくれる。興味深いことだとは思わないかね。観測の叶わぬ心や魂といった非物質的な存在が、神秘的なものではなくて、肉に由来するものであるという証左なのかもしれぬのだから」


 真っ黒なゴーグル越しに、医療者の双眸が私を見据える。その向こうに人間の目があるという事実が、なぜだかとても非現実的に思えた。

 蠅の羽音が病室の沈黙を乱している。小さな蛆が頭をもたげ、踊り狂っている。とびきりごちそうを目の前にしたように。


「さあ、どうするね。この白蛆に身と心を委ね、癒えぬ病を癒してみるかね」


 悪魔の王は蠅の似姿をしているという。私は肯きながら、そんなことをぼんやりと思った。


 §


 小さなものたちの蠢きを感じる。脳が痺れて思考と動作を奪われる。皮膚の内側が、とても熱くて、酷く痒い。かゆい、かゆい、かゆい……


 臓腑が穿たれる鈍い痛み、血肉の失われていく感覚。辛くて、不快で、苦しくて――けれど叫んでも誰も来ない。逃れようとしても、身を縛る鉄鎖を引きちぎることは出来ない。痛みが過ぎれば、すべてが無感覚になっていく。麻酔がもたらす眠りのように。


 ある時、右目に燃えるような熱を感じた。それはどんどん大きくなって、あふれる涙は皮膚を焼くようで。このまま灼熱し、溶解した目が眼窩に沁み渡り、私を燃やし尽くしてしまうような気がして。昏睡と覚醒を繰り返し、意識が微睡むたび、私は炎の夢を見た。

 やがて、私の右目が爆ぜ、あまりにおぞましい感触が全身を突き抜けると、そこから無数の羽虫が這い出て病室を飛び回った。ブンブン、ブンブン――

 羽音の輪唱を奏でながら。


 そして、私の心の悪が消えた。


 §


 目が覚めた時、私を束縛していた抑制帯と鉄鎖が取り外されていたことに気が付いた。

 酷い臭いが鼻を衝く、電球は切れているのに暗闇を見渡すことができる。まるで別人になったみたいに気分が良い。

 赤と褐色と――諸々の体液で穢れ果てたベッドから起き上がる。何年もそうしていなかったにも関わらず、私は両脚で立つことができた。身に着けた病衣はボロボロで、渇いた血に塗れている。だのに、この身体は――皮膚はまったく綺麗で、汚れひとつない。身体の外にも内側にも、もう何の痛みも感じない。けれど、右目があった場所はただの虚穴で、瞼の奥には丸い空間があるだけ。あれは、夢ではなかった。


 残された私の左目から、冷たい涙が零れた。悲しかったからではなく、嬉しかったから。心の悪を、失ったことが。

 私は手で目元を拭った。もう、あの衝動を覚えることもない、あの感覚を思い出すこともない。人を殺める快楽を、絶望を見出す愉悦を、蕩けるような血肉の甘さを。

 やっと変わることが出来た。神に恥じない心を得る事が出来た。私の犯した罪が許されることは決してないだろうけれど、真心から贖罪の祈りを捧げることが叶う――私が奪った命たちへ向けて。


 私はしばらくの間、その場に立ち竦んでいた。いつもの部屋、いつもの静寂。けれど、遠くに微かな音が聴こえる。ブンブン、ブンブン――と。

 どれだけ時間が過ぎても、巡回の警備員や看護師は現れない。窓がないから、刻は知れない。私は無性に、外に出たいと思った。空を見たいと思った。


 病室の扉は、開いていた。私はそれを疑問に思いながら、覚束ない足取りで廊下へと出た。天井から無造作に吊るされた電球が、頼りない光を暗闇に投げている。

 

 違和感を覚えた。あらゆる場所に満ちていたはずのオピウムの香りを感じられない。その代わりに――ああ、思い出したくない――血と腐敗の匂いが空気に充満している。職員も医師も、誰の姿も、気配もない。想像力が残忍な憶測を吐きだし始める。それを確かめる方法は、ただひとつ。私は歩を進めた。腐った空気がより濃密に、澱む方向へと。


 すべては、予期された結末だったのだろうか。それとも愚かしい失敗だったのだろうか。いずれにせよ、すべては終わっていた。今、この場所に在るものは、狂気と恐怖の支配だった。


 あらゆる場所に、死が満ちていた。床に転がる肉塊は、かつては患者で、職員で、そして医師だったのだろう。けれどもう、誰が誰とも知ることはできない。何者であったとしても、それはもはや白い蛆の苗床に過ぎなかった。


 幾千、幾万――それ以上の蠅の群れが形を成し、より大きな別の実体を得ている。それは歪な人型であり、無数の身体が擦れあう音と不快な羽音が合わさって、この世ならざる叫びを発している。それは腐肉を十分に貪ると、解放された玄関扉から飛び立ち、街へ向かって飛んでいく。空は暗い。なのに街には、わずかな明かりしか灯らない。


 足元で潰れたピンクのペーストには、かろうじて判別できる頭部があった。蛆が詰まって膨張した眼球が、じっと私を見つめている。それは腐って濁っていたけれど、悪意を忘れた幼子みたいに純粋な目だった。


 先生は、こうなることを知っていたのだろうか。


 心の悪は、失われてなんていなかった。私から失われたものは、いまは蠅たちのものとなった。それは、人を殺める快楽を、絶望を見出す愉悦を、蕩けるような血肉の甘さを知った。


 もし、もしもあの白蛆が、世界すべての人間から心の悪を喰らい尽くしたならば――その時、蠅たちは一体何者になっているのだろうか。


 私は笑った。良心が訴えかけるのは、神に祈ることだけだった。

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