おいしゃさんセット
お母さんがお家に帰ってこなくなってから、もうどれだけ経つのでしょう。真っ暗な夜にひとりぼっちで眠るのは、とても怖くて寂しかった。けれど、今はもう、大丈夫なのです。だって、この子たちがいてくれるから。
ジャレッドはフクロウの顔をしたお医者さん。ぶかぶかの白衣を着ていて、きらきら光る目は貝殻のボタン。とっても優しくて、物知りで、わたしに沢山の事を教えてくれる院長先生です。
サロメとマリアは双子のヤギの看護師さん。ふたりはいつも一緒にいて、一緒に喋って、一緒に笑います。とっても可愛いふたりだけれど、そっくりな姿をしているので見分けるのは大変です。ちょっとだけ、首の縫い糸が解れてしまっているのがサロメだったでしょうか。
イーノックはネズミの患者さん。身体中を包帯でぐるぐる巻きにして、いつも小さなベッドにいます。本を読むのが大好きで、不思議なお話を聞かせてくれます。だから、彼とわたしは親友です。でも、院長先生のジャレッドはその事をよく思っていません。〝医師と患者が私的な関わりを持つことは医療倫理に悖る〟――だそうです。それでも、わたしは彼が大好きです。だって、たったひとりの大切な友達なんですから。
そう、わたしはこの部屋の小さな病院のお医者さん。まだまだ新人だけれど、いっぱい勉強して、ジャレッドみたいな立派な先生になりたいです。そして、イーノックの病気を治してあげるのです。
でも、イーノックは日に日に元気をなくしていました。お薬を飲んでも、注射をしても、まったく良くはなりません。前は三日に一回だった手術も、いまでは一日一回しなくてはなりません。わたしも、双子の看護師さんも大忙しです。
「でも、これでいいんだよ」
ある日、イーノックは言いました。
「ぼくは死んでしまうけれど、それがぼくにとっては救いで、幸いなんだ。だからもう、ぼくのお腹をいじくりまわすのはやめておくれ」
わたしはイーノックと別れるのが嫌でした。ずっと昔に死んでしまったお父さんみたいに、知らない男の人とどこかに行ってしまったお母さんみたいに。もう二度と会えなくなるなんて、そんなことは絶対に嫌でした。だからはわたしは、泣きながら首を横に振りました。
「ぼくが死んだら、ぼくのことはきれいさっぱり忘れてしまうのがいいさ」
イーノックはそう言って、黒いビーズの目を読んでいた本に戻しました。わたしは彼を励まそうとしたけれど、なにも言葉が思い浮かびませんでした。落ち込んでい手術の準備をしていると、サロメとマリアが励ましてくれました。それでも、悲しくて、哀しくて、もっと涙があふれてきました。
その日の夜、イーノックの具合が、突然悪くなりました。びくびくと身体を震わせ、縫い目や包帯から黒い霧のようなものが漏れでています。わたしが声をかけても、返事がありません。そのことをジャレッドに伝えると、すぐに手術が決まりました。サロメとマリアが大急ぎで準備をしているあいだも、わたしは必死に彼に呼びかけました。
手術は、いつも通りでした。暗いランプの明かりのもと、イーノックの包帯を解いて、お腹の縫い目にプラスチックのメスを入れて切り開きます。あふれた赤い綿と白い綿をとりのぞいて、真っ黒になった内蔵を取りだします。フェルトの肝臓、毛糸の胃腸、折り紙の肺、それからガラス玉の心臓――
ブリキの缶から新しい内臓を選びだして詰めていきます。真っ白な、穢れない、綺麗なものを。最後に針と糸でお腹を縫い合わせて、手術は終わりました。これで、イーノックは目を覚ますはずです。いつも、そうだったように。
けれど、イーノックはいつまで経っても眠ったままでした。どれだけ待っても、名前を呼んでも、その布の手足はぴくりとも動きません。小さな鼻をひくひくさせてお気に入りの本を探すことも、わたしだけに聞こえる声で話すことも、もう、ありませんでした。
「彼は死んでしまいました」
と、サロメ。
「でも、わたしたちがいます」
と、マリア。
胸の奥から熱い悲しみが湧きあがり、涙になって零れました。
彼がいなくなってしまった。わたしの、たったひとりの友達が。ずっとずっと、一緒にいられると思っていたものが。
みんな、みんな、いなくなってしまう。お父さんも、お母さんも、イーノックも――
きっといつか、サロメもマリアもジャレッドも、どこかにいってしまうのでしょう。そうすれば、わたしはまたひとりぼっちです。
わたしはもう、どうすればいいのかもわからずに、ただずっと泣きました。強く、強く、もう動かなくなってしまったぬいぐるみの身体を抱きしめて。
……やがて、涙も枯れ果てたころ、ずっとそこにいたジャレッドが言いました。
「もし君が望むなら、もう一度イーノックに合わせてやることができる」
わたしは、驚いて訊き返しました。
「ああ、もちろん本当だとも。わたしはこのミシューゼラー病院の院長だからね。古今、あらゆる医学に精通しているのさ」
ジャレッドは誇らしげに言いました。貝殻ボタンの目が、ランプの光で金色に光っていました。
「ほんとうに彼に会いたいならば、わたしが処置を施してあげよう。すべては、君の思うままだよ。さあ、どうするね」
答えは、決まっています。もう一度、彼に会えるならば、なくしてしまったものを取り戻せるならば、なにも迷うことはありません。
わたしは、そう言いました。
ジャレッドは頷いて、フクロウらしくホウホウ、と鳴きました。でも、もしかしたらそれは、笑い声だったのかもしれません。
突然、マリアが飛びかかってきました。彼女はわたしを押し倒すと、自分のお腹にプラスチックのメスを突きたてて切り裂き、引きずりだした毛糸の腸でわたしを縛りあげ、動けなくしました。マリアは赤い綿と内臓をあふれさせながら、からからと笑いました。
サロメが、首の縫い糸を解きました。頭がポロリと落ちると、首元から銀色に光るものが覗いていました。彼女が両手で引き抜いたそれは、金属の本物のメスでした。床に転がるサロメの顔が、けらけらと笑いました。
ジャレッドが、サロメからメスを受け取りました。彼の姿は、もうフクロウではありませんでした。羽ではなく沢山の指があって、貝殻のボタンではなく幾つもの光る目があって、布でも綿でもなく霧みたいな真っ黒な身体で。
そのおぞましい目に見つめられた時、わたしはもう声をあげる事もできませんでした。
ジャレッドは、わたしを切り裂きました。そして、わたしの肝臓を、胃腸を、肺を、そして心臓を、かつてイーノックだったものに詰めていきました。最後に、わたしの頭を開いて脳を取り上げ、古びたネズミのぬいぐるみに閉じ込めました。
……気が付くと、わたしはわたしを見つめていました。いえ、かつてはわたしだった、いまはもう空っぽになってしまった抜け殻を。
わたしの両側で、双子のぬいぐるみが言いました。
「これでずっと、わたしたちは一緒です」
「あなたの願いは、叶えられました」
ふたりの身体は、前よりもずっと大きく見えました。ほんとうは、わたしが小さくなってしまっただけだったのに。
わたしの魂の奥底から、凍えるように冷え切った声が響きました。かつて聞いたことのあるひとつの声と、そうではない幾百もの声が。友達の声と、きっと彼の友達だったものたちの声が。
〝だから言ったのに〟――と。
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