彼岸へ

 敷設されたばかりの車道を走る心地よい振動を感じながら、いま見ている景色と過去の記憶を重ね合わせてみる。


 あの時は、まともに舗装すらされていない曲がりくねった山道があるばかりで、恐る恐るステアリングを操作しながら這うような速度で安全運転に努めなければならなかった。陰鬱な針葉樹の植林、暗い木々の間から聞こえる姿の見えない鳥の声、不安を煽る〝転落事故発生現場〟と記された案内板とひしゃげたガードレール。今ではもう、その名残もない。アクセルを踏むことを躊躇う必要がない快適な道路が続き、木々は伐採されて青い空が拓かれ、茶色い鷹がくるくると旋回している。

 あの時、どこまで行こうとも往来に在るのは私が運転するセダンだけだったが、今は多くの自動車が行き交っている。輸送用の大型車両を除けば、その多くは家族連れや若者の集団だった。最近になってから整備された自然公園や、それに付随して乱立したレジャー施設で連休を楽しむのだろう。ほんの六年前までは、知られない山奥の僻地だったのに。


 私は、助手席に座りながら流れていく景色をじっと見つめている妻を一瞥した。目的地が近づくにつれ、妻の口数は減ってゆき、最後の言葉を交わしたのは何時だったか。久しぶりに自分の故郷に戻ったというのに、ウィンドウに映る表情に喜色はなく、枯れ果てたノスタルジーだけが張り付いている。あの日から、ほんとうの幸いというのものは失われてしまった。彼女と、そして私の人生から。

 記憶の景色と一番違うのは、そこに妻が座っているということ。あの時、彼女はリアシートに座っていた。薄暗い林のなかを進んでいるというのに、楽しそうに自分の生まれ育った土地について語る姿が、バックミラーに見えた。相槌を打って笑う――娘の姿も。


 必要のなくなったセダンを下取りに購入したコンバーティブルのリアシートには、まだ誰も座ったことがない。ただ冷たい人造皮革のシートには、カサブランカとチューリップとカスミソウのブーケが、芳しく香りながら横たえられている。あの子が好きだった、真っ白な花たちが。


 §


 河川公園に辿り着くことが出来たのは、夕刻に差しかかろうという時だった。雲はほんのわずかに燈色を帯びているけれど、空はまだまだ青くて、夏の日は焼けつくように目を眩ませる。茹だるような暑さのなか、西の空で少しずつ色彩を変えていく太陽に照らされて、たくさんのテントと人々の影が伸びている。湿った風に揺れる葉桜と、脂っぽいバーベキューの匂いと、若者のから騒ぎと――小さな子供を連れた家族の笑い声。


 六年前のこの場所は、大きな種子の莢をつけたクロタネソウニゲラが繁り、蒲が高さを競う草叢だった。今では立派なコテージを備えたキャンプ場が建設され、かつての面影はどこにもない。ただ、ひぐらしの輪唱だけが、褪せた記憶と重なりあって騒々しく響いている。

 かなかなかな、かなかなかな、――と、追走曲カノンのように。


 私と妻は、涼やかにせせらぐ川の畔へと足を運んだ。

 冷たい流れを遊泳する人々、大きな焚火を囲う人々、岩のベンチに腰かけて缶ビールを呷る人々。誰もが思い思いに時を過ごし、楽しみ、憩っている。ささやかで、だが確かな幸いがそこにある。あの頃には、私たちの傍らにも存在していたものが。

 私たちは明かりから逃れようとする夜の生き物みたいに、暗い木陰の続く下流へと向かった。太陽が落ちていく、方角へ。

 談笑する恋人たち、小石を積み上げて遊んでいる子供たち――あの人たちから、私と妻はどう見えているのだろう、と考えた。いや、きっと、存在に気付いてすらいないのかもしれない。自ら光を放つものが、影を見ることが出来ないように。そんな無意味な想像が、浮かんでは沈んでいった。

 黒いドレスに身を包んだ妻の表情は、鍔広の帽子が落とす深い陰影に隠されて、窺うことが出来ない。ただ両腕に、象牙細工のように見事なブーケを大切そうに抱え、影である私のさらなる影であるように、離れず後につき従う。

 あの日はそうではなかった。手を繋いで歩く妻と娘の後を、私が追った。心に沈んだ追憶の欠片が、器から水を溢れさせようとする。手を握りしめてそれを堪える事だけが、人生の理不尽への唯一の抵抗だった。


 やがて空がほんのりと黄色く染まり始めた頃、私は進む足を止めた。

 そこは、あるはずの流れさえほとんど絶えた、冷たく、広く、深い、川の淵。波ひとつ立たない水面は、闇が溶け込んだかのように黒く、底が見えない暗い鏡。魚の姿もなく、風すらも凪ぎ、ただ彼岸の森で鳴くひぐらしの声が悲鳴のような歪な狂想曲カプリッチョを奏でている。

 他がどれほど変わっても、ここだけは六年前と僅かさえ変わらない。水とともに、時の流れさえ凍り付いてしまったような、そんな場所。

 

 娘はここでいなくなり、そしてついに戻らなかった。


 私の脇をすり抜けた妻が、川べりにひとり立って彼岸を見つめた。そこには鬱蒼とした木々が繁るばかりで、獣や鳥の影すら見つからない。ただ暗闇と、ひぐらしたちの支配だけがある。けれど、それでも、そこに在るはずのない小さな姿を求めているのが解った。私たちの、幸いであったものを。


「……あの子はここに座って、じっと向こう側を見つめていました」


 重い沈黙を破った妻の声は、寒さに凍える蝶の羽ばたきのように朧だった。蝉の叫びに、呑まれ、かき消えてしまうほどに。私は妻の横に並び、その吐露に耳を傾けた。


「〝なにを探しているの〟と私が訊くと、あの子は〝向こうに誰かがいる〟と言いました。私は一緒に、その〝誰か〟を探しました。でも結局、それは見つかりませんでした」


 私は彼岸を見た。

 暗い、暗い、落葉樹の原生林。樫の木と楢の木が、ずっと奥まで影を落としている。そこには濃い霧が澱んだように固まって、なにも見通せない。もしかしたら、あの向こうにはまだ娘がいるのではないか――そんな在り得るはずもない妄想が、滲み出る。


「……私が……私が悪かったのです。子供の頃に遊んだこの川に来たいなんて言わなければ。あの子の手を離さなければ。そうすればあの子は、消えてしまわなかったかもしれない。いまでも此処で、笑っていたかもしれない」


 妻はずっと自分を責めていた。永遠に癒えることのない傷を掻きむしり、止まらぬ血を流し続けることだけが贖罪だと言うように。だが、それなら私だって同罪だった。あの子から目を離さなければ。こんな場所に行くのを止めていれば。


「ねえ、あなた。あの子はほんとうに……ほんとうに死んでしまったのだと思いますか。どこか私たちの知らない場所、遠いどこかで生きていると思いませんか」


 私は――なにも言えなかった。

 理性は訴えかける。娘は冷たい水底で、醒めない眠りにあるのだと。けれど、一方で、妻と同じく、諦めきれない想いがある。


 あの子は六年前、〝消えてしまった〟。なんの前触れも、痕跡も、声すらなく。最初から、幻であったかのように。

 警察と地元住民が、何十日にも亘って捜索を続けた。周囲の森を、川の底を、下流の果てまで。だが終に、あの子は見つからなかった。探偵社に人探しを依頼しても、新聞に広告を出しても、ひとつの成果もなかった。


 それからの人生は、灯火を失った夜道を歩くかのようだった。私は哀しみを忘れようと努力した。どれほど辛くとも、その道はいつ果てるとも知れず続く。ずっと膝を折っていることは出来ない。なにも見えなくとも、懸命に歩き、走った。……少なくとも自分では、そうしたつもりだ。

 だが妻にとっては、より困難な道だった。身も心も病み、薬に頼り、仕事を続けることは無理だった。若くして老い疲れ、呪いのような影が瞳を濁した。彼女は歩みを止めてしまった。


 今日、再びここを訪れる事を提案したのは私だった。

 いつまでも、過去の重荷を背負っていくことは出来ない。明日に進むためには、棄てなければならないものだってある。だから最後に花を送り、あの子との別れとしようと。

 妻は、反対しなかった。そうしなければならないのは、彼女が一番良くわかっていたはずだ。


「……ごめんなさい。わかっているのです。あの子が戻ることはないって。でも、ここに来ると、どうしても想い出が、あふれて」


 俯いて震えはじめた妻の肩を、私はそっと抱き寄せた。そうして追憶がもたらす苛みに、じっと耐えた。どれだけ時間が過ぎたとしても、この痛みから逃れる術はないのだろう。


 太陽が彼岸の彼方に落ちていく。空が朱く滲んでいく。ひぐらしの絶唱は最終楽章フィナーレを迎え、宵闇の到来を予告する。

 時が黄昏に至った。

 木の影と、岩の影と、私たちの影――あらゆる影がふくらんで、夜の気配と一体になっていく。もう間もなく、全き闇が地に満ちるだろう。


 最後の別れを済まそう、と私は妻に言った。その暗い双眸に、夕日の燈が映り込んでいる。最も近しい存在であるはずなのに、その奥にどんな感情が逆巻いているのか、私に知ることは出来なかった。

 やがて妻は頷くと、ブーケを川岸に置いた。王冠のカサブランカ、純潔のチューリップ、散る星のカスミソウ。白いが故に、すべてが夕日に染め上げられ、滾る篝火の色彩を宿す。夜にあっても、輝くほどに。

 

 私たちは目的を遂げた。これからは、新しい人生を歩み始められるかもしれない。結末は知れなくとも、そう信じることで明日を迎えられる。あの子は〝あちら〟に去ってしまっても、私たちのいるべき場所は、まだ〝こちら〟だ。その断絶を跨ぐことは、出来ない――決して出来ない。

 そのはず、だった。


「あなたっ」


 妻が、声を上げた。


「あなた、あちらに――川の向こうに、誰かがいます」


 私は妻が指さす先に目を凝らした。彼方に沈む夕日の眩さが視界を遮る。そこには森と、澱んでいる霧と暗闇だけがある。動くものの姿など、どこにもない。

 だが妻は、はっきりとそれを見ている。声と息を弾ませて、その姿を追っている。決して、見失うまいと。


「ああ……あの影、あの小さな影は――」


 続く言葉がなんだったのか、私は判らなかった。空を揺らすほどに高まったひぐらしの叫びが、あらゆる音を呑み込み、終局に達した。川の黒い水面が、微かに震えた。

 

 妻は駆けだした。川のあちら側へ――彼岸へと向かって。冷たい飛沫が舞った。その水は雫となってなお、闇を湛えているように黒かった。

 

 私が手を伸ばした時には、すべてが遅かった。

 彼岸の森から吹きだした突風に乗って拡散した霧が、周囲のすべてを白で覆い尽くした。冬の粒子のように、あるいは死の息であるように、冷え切った霧。寒気と怖気が背筋を這いあがり、心臓に沁み込んでいった。心が凍えるという感覚を、私は知った。


 どこからか、妻の声が聴こえる。誰かを呼ぶ声、愛しい者を求める声が。私は彼女を呼び止めようと、必死に叫んだ。


 行かないでくれ、私を置いて行かないでくれ、と。


 霧が、晴れた。

 蒸し暑い空気がゆるやかに戻り、空の色は暁夕の燈から宵の瑠璃へと変わり始めている。ひぐらしの声はまばらに散り、静かな夜想曲ノクターンを奏で始めている。


 妻はもう、何処にもいなかった。

 川岸にも、水のなかにも、木の影にも。なんの名残すらなく、消えていた。最初から、幻であったかのように。


 川岸に置かれたはずのブーケも、そこにはなかった。けれど確かに、百合の甘い残り香を感じた。この芳香だけが、私とあの時間とが繋がっていたことを証明する、唯一の痕跡だった。


 私はずっと悪夢を見ていたのだろうか。それとも、とうに狂っていたのだろうか。


 答えをくれるものの姿を、私は彼岸に求めた。

 暗い森に澱む霧が、形を成したように見えた。大きな人の影と、小さな人の影。ふたりは手をつなぎ、闇の奥へと去っていく。


 小さな影は、なにかを掲げていた。闇のなかで輝く白い篝火のようなそれは、もしかしたら花束だったのかもしれない。

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