最終話

 翌日の空は、嫌になるほど晴れ渡っていた。

 賑やかな校舎内を一人で進み、葵と結衣の教室へ向かう。

 引き戸を空けると、クラス中の視線が一斉に集まった。

「あ、結衣はまだ来てないよー」

 廊下側の席の女子がひらひらと手を振りながら言う。

 俺は頷いて、教室中を見渡した。

 ちょうど奥から葵が歩いてくるところだった。

「葵」

 呼びかけると、葵はいつもの眠そうな表情を浮かべながら俺の元まで来た。

「少し、いいか」

「うん」

 やけに素直に頷く葵を連れて、廊下を引き返す。

 いつかの渡り廊下までくると、人の気配がないことを確認して俺は葵と正面から向き合った。

「話がある」

 葵はじっと俺を見つめた後、小さく息をついた。

 どこか諦めたような表情だった。

「結衣と仲直りして欲しいんでしょ。いいよ、別に」

 葵の切れ長の目が、探るように俺を見る。

「今の関係を一旦整理したいなら、瞬矢がそれを望むなら、私はそうする」

 想定外の切り返しに、俺は一瞬言葉を失った。

 これまでと真逆の言動を見せる葵の真意が掴めなかった。

「……どういうことだ?」

 自然と冷たい声が飛び出した。

 探るように葵を見る。

 葵は怯む事なく、俺の視線を正面から受け止めた。

 まるで、何も疚しい事なんてないのだと主張するように。

「私は瞬矢のことが好きで、瞬矢も私のこと好き。けれど、そんなの何の意味もない」

 葵の口から溜め息が漏れた。

「瞬矢の心の天秤は、常に良識と常識に傾いている。瞬矢自身の感情や損得は、いつも後回しになっている」

 だから、と葵は言った。

「私は佳矢ちゃんやおばさんを巻き込んで、その天秤を壊そうとした。私に傾くように仕向けようとした」

 けれど、と葵は自嘲するように笑った。

「私は失敗した。小細工がバレて、佳矢ちゃんにも嫌われてしまった。私が取れる選択肢は、もう殆どない」

 葵の声には覇気がなかった。

 ふと、脳裏に中学時代の拓海の姿がよぎった。大会で敗けた後、誰もいないロッカーでうなだれている後ろ姿。

 今の葵は、あの時の拓海によく似ていた。

「これ以上は悪手にしかならない。私は一度、矛を収める事にするよ」

 葵は淡々と言葉を繋げていく。

「なら……」

「ああ。瞬矢に従おう。必要なら、結衣に頭を下げても良い。瞬矢が望む通りに動くよ」

 あまりにも素直な言葉に俺が疑いの目を向けると、葵は肩を竦めてみせた。

「私の勝ち筋は完全に潰えた。仕切り直すしか方法がない」

 そう言って、葵はいつもの眠たそうな表情で笑った。

 良くも悪くも、葵は感情的にならない。

 同級生にはないそうした部分が、在りしの俺には孤高で気高く見えた。

 だから、その姿を自然と目が追うようになった。

 それは今も変わらない。

「瞬矢」

 葵が短く問いかける。

「私のこと、嫌いになったかな?」

「……いや」

 答えると、葵は満足そうに笑った。

「なら十分だ。私が優勢である事に変わりはない」

 何か言おうと口を開きかけて、結局やめた。

 もう話は終わった。

 最後に呆れるように笑い返して、踵を返す。 

「……結衣を呼んでくる」

 教室に戻ろうとしたところで、後ろから声がかかった。

「今日は来ないんじゃないかな」

 いつもの平坦な葵の声だった。

「結衣は、ああ見えて心が弱いから」

 そうかもしれない、と思った。

 結衣はいつも皆の中心に立っていたが、打たれ弱いところもあった。

 彼女は他人からの拒絶に、慣れていない。

「……一度、確認してくる」

 葵は頷くと、俺の後ろを追いかけるように歩き始めた。

 時計で時間を確認すると始業のチャイムが鳴る直前だった。

 教室に戻り、引き戸を開ける。

 結衣の席は空白になっていた。

「ほらね」

 後ろから葵の声。

「どうする?」

「……放課後、結衣の家に向かう」

「私も行った方がいいかな?」

「いや、一人で行く。説得してから葵の家へ向かう事にするよ」

「そっか」

 葵はそう言って、教室の中に戻っていった。

 中に消えていく葵の背中が、少しだけ寂しそうに見えた。

 

 


 終業のチャイムが鳴ると、拓海が声をかけてきた。

「収拾つきそうか?」

「半分は何とか。残りの半分はこれから行ってくるよ」

 答えると、拓海は嬉しそうに笑った。

「顔色、良くなったな。昨日のお前、今にも死にそうな顔してたぞ」

 思わず苦笑する。

「少なくとも、今よりも状況が悪くなることはない」

「言えてる」

 最後に小さく笑い合って、俺は教室から飛び出して昇降口に向かった。

 生徒の間を抜けて、校舎を出る。

 依然として、空は嫌になるほど晴れ渡っていた。

 晴天の下、冬の乾いた風が頰を撫でていく。

 いつもは三人で下校していた道が、今はとても広く感じられた。

 小さい頃は、手を取り合って歩いていた。

 今はもう、手を握り合う年齢ではなくなってしまった。

 あるいは、もう一度手を握り合うような年齢になってしまった。

 望む望まないに関わらず、何もかもが変わっていく。

 変わらないことを願うには相応の努力が必要で、俺たちは多分、それをよくわかっていなかった。

 今こそ、これまでのツケを払わなければならない時だった。

 結衣の家に辿り着き、深呼吸する。

 スマホを取り出し、コールボタンを押す。

 数コール待っても、結衣は出なかった。

 諦めてインターフォンに手を伸ばす。

『瞬矢くん? ちょっと待ってね』

 スピーカーから舞さんの声が届いた。

 そのまま待っていると、すぐに玄関ドアが開いた。

 扉の間から覗く舞さんは、いつもの笑顔ではなく暗い表情を浮かべていた。

 俺は一歩前に出ると、頭を下げた。

「突然の訪問、すみません。結衣に会わせて頂けませんか?」

「それはいいけれど、その、結衣と何かあったの?」

 舞さんの声には、疲労の色があった。

「昨日帰ってきてから部屋に籠もりっぱなしで……」

「申し訳ありません。結衣を傷つけるような事をしてしまいました。謝罪と釈明の機会を頂きたいんです」

 深く頭を下げる。

 舞さんはすぐには答えなかった。

 沈黙が落ち、俺は頭を下げたまま動けなかった。

「あのね……」

 舞さんの静かな声。

「瞬矢くん、そんなに畏まらなくていいから頭をあげて」

 言われた通り、頭をあげる。

 困った表情を浮かべた舞さんと目が合った。

「結衣と喧嘩したの?」

「……はい。それ以外にも、傷つけるような事をしました」

「そう……」

 舞さんの視線が迷うように動く。

 それから、小さな溜め息が漏れた。

「結衣とは、うまくいきそうにない?」

 言葉に詰まった。

 そんな俺を見て、舞さんは柔らかい笑みを浮かべた。

「あのね、瞬矢くんは小さい頃から結衣とよく遊んでくれて、たぶん、結衣にとっては唯一無二の存在だと想うの」

「……はい」

 俺にとってもそうだった。

 結衣と葵は、ただの友人ではない。

 誰にも代替不可能な存在だった。

「そういう人と結ばれる事はとても素敵だけど、現実はとても難しくて、そうなれない方が多いと思う」

 だけど、と舞さんは続けた。

「だからと言って、そのまま縁を切るような事はしないで欲しいの。今はまだ互いに気まずいと思うけれど、それを我慢して友人として接して欲しいと私は思ってる」

 舞さんの意図が正しく掴めなかった。

 無言でいると、舞さんは小さく笑った。

「今はきっと強いショックを受けているけれど、三年後、五年後、十年後には笑い話になるから。この一瞬のために縁を切るような事だけはしないって約束してくれないかしら?」

「約束……ですか?」

 思いがけない言葉に、俺は戸惑いを隠せなかった。

「そう。数十年来の友人というものは、とても得難いものだから。瞬矢くんたちにはまだわからないかもしれないけれど、色恋沙汰なんかで失っていいものではないから」

 色恋沙汰なんか。

 そう簡単に言ってのけてしまう舞さんは俺なんかより遥かに大人で、ずっと別の視点を持っているのだろう。

「……はい」

 頷くと、舞さんは柔らかい笑みを浮かべて身体を引いた。

「どうぞ、入って。ちょっとくらい怒鳴り合いしても聞かなかったことにするから」

 小さく頭を下げて、玄関に入る。

「結衣は二階で鍵かけて閉じこもってるから」

「はい」

 舞さんに見送られるようにして二階へ続く階段をのぼる。

 二階にあがってすぐ手前が結衣の部屋だ。

 ドアの前に立ち、深く息を吸う。

 それから軽くノックした。

「結衣、入っていいか」

 反応はなく、ただ静寂があった。

 ドアノブに手をのばす。

 鍵がかかっていた。

「結衣」

 呼びかけるも、返事はない。

 ふと、幼少期の思い出が脳裏に蘇った。

 小さい頃、結衣はよく不貞腐れて部屋に閉じこもっていた。

 呼びかけても無視する結衣に為す術もなく、そのうち俺と葵は無理やりドアを開ける方法を覚える事になった。

 財布を取り出し、一枚の硬化を鍵穴に差し込む。回すと、簡単にそれは開いた。

「結衣、入るぞ」

 一声かけて、ドアを開ける。

 ベッドの上で頭まで毛布を被っている結衣がそこにいた。

「結衣。話をしにきた」

 ゆっくりとベッドに近づく。

 足音に気づいたのか、毛布の中から結衣が顔を出した。いつものポニーテールではなく、下ろされていた。

「……何しにきたの?」

「誤解を解きにきた」

 結衣の瞳は、俺に向けられたまま動かない。明確な拒絶の様子はなかった。

 心の奥底では何らかの釈明を期待しているのだろう。

「座っていいか」

 問いかけてから、返事を聞く前にベッドに腰掛ける。

 結衣は逃げる様子もなく、毛布にくるまったまま俺を見上げていた。

「まず、はっきりとさせておきたい事がある。俺と葵は付き合っていない」

「……だって佳矢ちゃんが……」

「葵が吹き込んだだけだ。葵は母さんや佳矢に対して俺と付き合う事になったと吹聴していた」

「……なにそれ。最低じゃん」

 結衣の声に活力が戻るのがわかった。

「そうだな」

 俺は頷いて、小さく息をついた。

「すでに佳矢には経緯を説明した。母さんにも仕事から帰ってきたら話すつもりだ」

「じゃあ――」

 弾む結衣の声を遮り、俺は言葉を続けた。

「結衣。俺は今のまま結衣と付き合い続けるつもりもない」

「……どういうこと?」

 弾んでいた結衣の声が、突如低くなる。

 俺は言葉を選びながら、ゆっくりと唇を開いた。

「俺は結衣や葵とずっと一緒にいたいと願っていた」

「……そんなの、無理だよ」

 結衣の視線が、力なく下を向く。

「そうかもしれない。俺たちはどれだけ取り繕っても男と女で、これまでのようにはいかないかもしれない」

 だけど、だからこそ。

「だから、時間をくれないか。俺は急ぎすぎた。無理に関係を変えようとして失敗した。時間を巻き戻したい。そして猶予をくれないか」

 結衣は何も言わず、俺の話を聞いてくれていた。

「全てをリセットさせて欲しい。一旦、関係を整理したい。それからゆっくりと、三人の関係を探っていきたいんだ」

 気づけば、結衣の目尻に涙が浮かんでいた。

「……もう、無理だよ。あんなに喧嘩して、葵と元通りに過ごすなんてもう無理だよ」

「結衣……葵とこのまま関係が拗れたままでいいのか?」

「違うけど……だってもう無理だもん」

 結衣はそう言って、毛布の中に潜り込んだ。

 俺は毛布の上から結衣の頭を撫でてやることしかできなかった。

「結衣……覚えてるか。俺たちは初めから仲が良いわけじゃなかった」

 自然と昔話が口から飛び出した。

 記憶すら曖昧な、幼少期の日々。

「俺と葵は、内気な方だった。騒がしい子供の世界で孤立しがちだった」

 もはや不確かで、朧げな世界。

 けれど、そこに俺たちを構成するに至った原初の何かがあった。

「そんな中、結衣はいつも皆の中心に立っていた。人気者だった」

 結衣は物怖じせず、誰とでも関係を持とうとした。

 失敗することを恐れることがなかった。

「結衣が、俺と葵を拾ってくれた。繋げてくれた。輪の中に入れてくれた」

 はじめは、結衣が作っている集団の中の一人でしかなかった。

 けれど、いつしか俺たちは三人で過ごすようになった。

「何もないゼロから作り上げてくれた。結衣がいなければ、俺も葵も今とは全く違う人生を歩んでいたと思う」

 だから。

「今度は、俺が結衣と葵を繋ぎたい。仲直りは難しいかも知れないけれど、それならもう一度ゼロからやり直したい」

 それが心からの本心だった。

「俺はずっと、結衣と葵の三人でいたい。何度ゼロからやり直しても、この三人でいられたらいいと思ってる」

 毛布の上から、そっと結衣の頭を撫で続ける。

 ずっと昔、不貞腐れた結衣をこうして慰めた気がする。

「葵は結衣に頭を下げると言っていた。あとは結衣次第だ。その気があるのなら、俺が全部何とかしてみせるから」

 沈黙があった。

 もぞもぞと毛布から結衣が顔を出す。

「……葵は、瞬矢のこと諦めたの?」

「葵は嘘がバレて佳矢に嫌われた。矛を収めるしかないと言っていたよ」

「自業自得じゃん」

 結衣はそう言って笑った。

 俺も小さく笑って、そうだな、と返した。

「そっか。佳矢ちゃんに嫌われたのか」

 結衣は小さく息をついて、それからゆっくりと起き上がった。

「……うん。それなら仲直りできる気がする」

 冗談っぽく言う結衣に思わず苦笑を零す。

「なんだ、それは」

「だって、佳矢ちゃんが多分一番手強いんだもん。将来の小姑さんだよ」 

 小姑。

 少しだけその兆候はあるかもしれないな、と考えて俺は小さく笑った。

「結衣。葵と仲直りできるか?」

「……多分」

 結衣は自信なさそうに小さく言う。

「大丈夫だ。今度は俺が、繋げてみせるから」

「うん」

 さっきより強い言葉が返ってくる。

 俺は頷いて、結衣の手をとった。

 少しだけ、結衣の頬が赤くなる。

「さあ、葵に会いにいこう」




 玄関を出ると、外は既に暗くなっていた。

「寒いね」

 結衣が暗くなった空を見上げながら言う。

 寒空の下、つないだ手が温もりを持っていた。

 遠い昔のように、手をつないで葵の家を目指す。

 結衣の家から葵の家に辿り着くまでの距離は、約100メートル。

 中学のタイムは11.32秒だった。

 この距離を葵と歩く為だけに、俺は陸上を辞めた。

 中学の顧問にも、友人たちにも引き止められた。

 父親にも、考え直せ、と言われた。

 けれど、俺の価値観の中では陸上よりも遥かに高い位置に葵の存在があった。

 いや、葵だけではない。

 結衣も含めた俺たち三人の関係こそが、あらゆる優先順位の中で常に最上位にあったような気がする。

 ずっと続けばいいと思った。

 三人でいつまでも笑っていられればいいと思った。

 けれど、そんな事はきっとただの絵空事でしかない。

 俺たちは男と女で、奇数だった。

 この関係は永遠に続くものではない。

 だから、いつかは決めなければならない。

 俺たちは意識して、一歩前に前進しなければならない。

 けれど、それは少しだけ後の話だ。

 今はただ、元通りに再生するだけでいい。

 かけがえのない日常を取り戻し、それを噛みしめるだけでいい。

 今はまだ、束の間の日常を楽しもう。

 選択の日は、そう遠くないのだから。

 遠くに影が見えた。

 家の前で、葵が俺たちを待っていた。

 俺は結衣と顔を見合わせて、アスファルトの上を駆け出した。

 今だけは、11.32秒よりも少しだけ早く走れる気がした。




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トライアングル・エラー 月島しいる @tsukishima_seal

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