第11話

「やっぱり……葵が裏で動いてたんだ」

 結衣の視線が、どんどんと剣呑なものになっていく。

 この状況を正しく伝える術を、俺は持っていなかった。

 もはや、何を言っても無駄なのは火を見るより明らかだった。

 けれど、言わなければならない。

 全てを説明して結衣を納得させる義務が、俺にはあった。

「結衣、これは――」

「瞬矢は黙っててッ!」

 結衣が金切り声をあげる。

 彼女の鋭い視線は俺ではなく葵に向けられていた。

「どうして葵がここにいるわけ?」

 玄関の横に立った佳矢が、困惑した目で俺たちを見ていた。

 結衣は佳矢を無視するように一歩前に出て、肩で息をするように大きく呼吸を繰り返していた。

「瞬矢がいきなり別れ話をしてくるなんておかしいと思った……全部、裏で葵が糸を引いていたんでしょ」

「結衣、違う。違うんだ。全て俺が言い出したことだ」

 俺の言葉に、結衣が首を横に振る。

「瞬矢がそういう答えを出すように、葵が誘導したんでしょ。必要以上に私たちの関係を掻き回して、瞬矢が取れる選択肢を狭めていったんだッ!」

「結衣! 落ち着いてくれ。葵は誘導なんてしていない。俺はただ、昔みたいに――」

「瞬矢ッ! 騙されないで。これじゃあ全部葵の思う壺だよッ!」

 結衣の叫び声と対象的に、葵がどこか冷めた声で言う。

「馬鹿じゃないの?」

「ッ!」

 結衣は唇を強く噛みしめると、怒りに身を任せるように足を踏み出した。

 廊下が軋み、あっという間に結衣と葵の距離がゼロになる。

 直後、結衣の手が葵の襟元を掴んだ。

「せっかく瞬矢と付き合えたのに、邪魔ばかりしてッ!」

「邪魔してるのはそっちでしょ。私と瞬矢は両思いなんだから」

 葵は馬鹿にした態度を崩すことなく、結衣を見下ろすように唇の端を歪めた。

「このッ!」

 葵の襟元を掴んだまま、結衣が押し出すように動く。

 葵の背中が狭い廊下の壁に当たり、鈍い音が木霊した。

「結衣、やめろ」

 引き離そうと結衣の手首を掴む。

 しかし、想像以上の力で葵の襟元を掴む結衣の手を離す事が出来なかった。

「絶対に許さない」

 これまでの叫び声と異なり、全ての感情を削ぎ落としたかのような抑揚のない声が結衣の口から発せられた。

 葵が結衣の襟元を掴み返し、今度は結衣を押し返すように壁に叩きつける。低い音が家中に響き渡った。

「あ、あの、結衣さんも葵さんもやめてください!」

 玄関横で突っ立ていた佳矢が困惑した声をあげる。

 しかし、葵と結衣は聞く耳を見せず、互いの襟元を掴み合ったまま睨み合っていた。

「二人とも落ち着け」

 二人の手首を握り、間に身体を捻じ込む。

「やめるんだ」

 先に葵の手が、結衣の襟元から離れた。

 それに呼応するように、結衣もまた掴んでいた手を離して見上げるように葵を睨みつけた。

 沈黙が場を支配し、息を整えるように深い呼吸音だけが静かに繰り返された。

「頼むから、やめてくれ」

 強い疲労感があった。

 葵も結衣も、深い呼吸を繰り返しながら互いの様子をうかがうように黙ったままだった。

 床の軋む音。

 見ると、佳矢がすぐ横にいた。

「ね、ねえ。どういうこと? お兄ちゃんと付き合ってるのは葵さんなんだよね?」

 佳矢の目には、強い困惑の色があった。

 この騒動の原因を、佳矢は知らない。

 妹の目には、突然押しかけてきた結衣が暴れ始めたようにしか映っていないのだろう。

「瞬矢と葵が……付き合ってる?」

 呆然としたように、結衣の呟く声が零れた。

 彼女の目は大きく見開かれ、俺と葵を交互に見ていた。

「待て、結衣。全部、はじめから説明する」

 声をかけると、結衣は首を横に振って、玄関に向かって後ずさった。

 彼女の口から、渇いた笑い声が発せられる。

「なに、それ……瞬矢と付き合ってるって思ってたのは私だけだったわけ?」

 結衣の目尻に、涙が溜まっていく。

「瞬矢は、裏では葵と付き合ったって家族に話してたの?」

「違う。説明させてくれ。これは――」

 言い切る前に、結衣は踵を返して駆け出した。

 最後に泣きそうな表情を浮かべて、玄関から飛び出していく。

 残された俺は、不格好に伸ばした手を静かに下ろす事しか出来なかった。

 後ろから、佳矢の困惑した声が投げかけられる。

「ど、どういうこと?」

 妹の疑問に対して適切に返せる答えを、俺は持っていなかった。

 妹の目を正面から見つめ返し、言葉を探す。

 しかしいつまで経っても適切な答えは出てこなくて、ただ時間だけが過ぎていった。

「あの」

 妹の視線が、葵に向けられる。

「これ、どういうことなんですか?」

 葵はいつもの眠そうな視線をぼんやりと俺に向けて、それから迷ったように視線を外した。

「詳しいことはよくわからないですけど……何となくは分かります」

 佳矢が口を開く。

 どこか怒りの色を含んだ声色だった。

「お兄ちゃんと何か恋愛的な縺れがあったんですよね」

 でも、と佳矢は言葉を続けた。

「お兄ちゃんは無口で不器用だし、二股とかは絶対にやらないと思います。トラブルの原因はお兄ちゃんじゃないはずです」

 妹の目には、剣呑な何かが宿っていた。

「……葵さん、なにかしました?」

「私は、別に……」

「それ、本当ですか?」

「だって……私と瞬矢は両想いで……」

「だったら、なんなんですか」

 ずい、と佳矢が一歩前に出る。

「お兄ちゃん困ってるじゃないですか。葵さんがお兄ちゃんを困らせてるんです」

 そこで佳矢は大きく息を吸うと、威嚇するように唸った。

「今すぐ出ていってください」

 葵の目に困惑の色が宿った。

「これ以上、お兄ちゃんを困らせないでください」

 どこまでも冷たい声だった。

 葵の瞳が、迷うように左右に動く。

「お母さんにも言いますよ」

 佳矢が言葉を続けると、葵は諦めたように目を閉じた。

「騒ぎを起こして悪かったね」

 そう言い残して、玄関へ歩いていく。

 葵は最後に一度振り返ると、薄い笑みを浮かべた。

「瞬矢。また学校で会おう」

「……ああ」

 喉から絞るように声を出すと、葵は満足そうに一度頷いて玄関から出ていった。

 ドアが閉まると、重い沈黙が落ちた。

 俺は背後の佳矢に向き直ると、言うべき言葉を探した。

「……迷惑かけて悪い」

 佳矢は困ったように笑って、それで、と探るように俺を見た。

「一体何があったの?」

「話すと長いんだが……」

 ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理しながら、ゆっくりと順番に説明していく。

 葵に振られたこと。結衣に告白されたこと。それを受諾したこと。

 そして、葵から改めて好意を伝えられたこと。

 話をしていくうちに、佳矢の表情が厳しいものになっていった。

「……葵さんも結衣さんも自分勝手すぎない?」

「いや。元々は俺がもっとはっきり言うべきだったことだ」

「でも、お兄ちゃんは板挟みになって困ってるよね」

 妹はそう言いながら、それで、と息を漏らした。

「お兄ちゃんはどっちが好きなの?」

「俺は……」

 一瞬だけ、迷いがあった。

 ここまで拗れてしまえば、もう俺の想いなど関係ない事のようにすら思えた。

「……ずっと、葵のことが好きだった」

「そっか」

 佳矢は短く頷いて、でも、と冷たい声を出した。

「今のままじゃダメだよ。お兄ちゃんは元通り、三人仲良くいたいんでしょ」

「ああ」

「そもそも、それって無理だよ。異性が三人集まったら、絶対に一人が余るもん。これまでのような関係には絶対戻れないんじゃないかな」

「……ああ」

 そうなのかもしれない。

 ずっと三人でいたいという考え自体が間違いなのかもしれない。

 季節が巡り、何もかもが移ろいでいく。

 俺たちは、いつまでも子供ではいられない。

 周りはどんどん交際して、結婚して、子供を産んでいくのだろう。

 その中で、俺たちだけがずっと変わらない関係を維持するのは並大抵の事ではない。

 けれど、そうあればいい、と思ってしまった。

 その結果が、これだ。

 歪な願いには、歪な結果しか返って来ない。

 当然の帰結だった。

「……結衣を、傷つけてしまった」

「謝ればいいよ。それしかないもん」

 佳矢が言う。

「大丈夫だよ。謝って許してくれなかったら葵さんとくっつけばいいんだよ。それで全部解決だね」

 佳矢の乱暴な言い方に、思わず小さい笑いが零れた。

「そうだな。明日、謝ってくる。葵にも話をつける」

 俺たちの関係は、完全に破綻した。

 だから、もう終わらせよう。

 これ以上、破綻しようがないのだから恐れる事は何もない。

 明日、全てを終わらせる。

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