第10話
終業のチャイムが鳴る。
教室が喧騒に包まれる中、背後から拓海の声がかかった。
「寄り道していくか?」
振り返ると、いつも通りの拓海がいた。しかし、その瞳には気遣いの色があった。
「……いや。いつも通り、結衣と帰ることにする」
「……そうか」
拓海はそれだけ言うと、あっさり背中を向けた。
後ろ姿を見送っていると、入れ替わるように結衣が戸口に顔を見せた。
軽く手を上げると、結衣はどこか疲れた笑みを見せた。
鞄を肩にかけて、結衣の元へ向かう。
「……帰ろうか」
「うん」
葵については触れないことにした。
結衣も何も言わなかった。
並んで階段を下りていき、下駄箱で靴に履き替える。
「雨、止んだね」
空を見上げて、結衣が呟いた。
役目を失った傘が、ぶらぶらと彼女の右腕に引っかかって揺れていた。
「ああ」
相槌を打ちながら、濡れたアスファルトへ足を踏み出す。
雲間から差す淡い光が、周囲の水溜りに反射して煌めいた。
「ねえ」
敷地外に出たところで、結衣がどこか遠くを見つめながら言った。
「そこの公園。昔、よく遊んだよね」
少し道を外れると、小さい公園がある。
三人で遊んだ思い出の場所だった。
「……寄っていくか?」
「うん」
結衣の細い指が、俺の手に絡みついた。
雨上がりの澄んだ空気の中、結衣の目がじっと俺を見上げる。
「瞬矢は、随分と背が伸びたよね」
「……そうかもしれないな」
小学生の時は、葵が一番背が高かった。
女子の成長は、男子よりもずっと早い。
「私の中の瞬矢はね、私よりも小さくて、大人しくて。弟みたいだって思ってたの」
それは初耳だった。
小学校の中学年くらいで背は追い越したはずだったが、彼女の中のイメージはそこで止まっているのかもしれない。
「いつの間にか、大きくなっちゃったね」
呟くような彼女の言葉は、宙に溶けていく。
公園が見えてきた。
人影はなく、静かだった。
「……小さいな」
自然と思ったことがそのまま口を飛び出した。
昔は大きく感じた滑り台が、ひどく小さく見えた。
あれほど広かった砂場が、今はとても狭く見えた。
「うん」
結衣が引っ張るように、公園の中へ足を踏み込む。
濡れた土の上に、俺達の足跡が刻まれていく。
そのまま奥のベンチに向かうと、俺たちはどちらからともなく腰を下ろした。
冬の訪れを予感させるように、周囲には命の気配がなかった。
鳥類の影も、虫の鳴き声もない。
ただ、雨で濡れた土がべっとりと広がっている。
「ここでさ、よく鬼ごっこやったよね」
繋いだ手が、少しだけ強く握られた。
「ああ」
「私、鬼の時はいつも瞬矢ばかり狙ってたんだよ。知ってた?」
結衣はそう言って悪戯っぽく笑った。
いつものような元気はなく、どこか影のある笑い方だった。
「……それは初耳だな」
「その頃から、ずっと好きだったから」
言葉を探すように俺は視線を彷徨わせた。
子供が、公園の入り口に立っていた。二人の幼い男の子と女の子だった。
遠い昔の俺たちと重なって、それ以上言葉が出なかった。
黙り込んだ俺に対して、結衣もそのまま押し黙った。
繋いだ手に、沈黙が落ちる。
水たまりが煌めく中、子供たちがはしゃぎながら滑り台に向かっていく。
自然と、目が釘付けになった。
よたよたと滑り台を登っていく姿は、在りし日の俺たちそのままだった。
滑り台がずっと大きく感じられて、この公園をもっと広大に感じていたはずの俺たちが、そこにいた。
「俺は」
無意識に言葉が飛び出した。
考えてのことではない。ただ胸の内が弾けて、勝手に吐き出してしまった。
「後悔してる」
結衣の視線が、何かを見定めるように俺を見上げる。
繋いだ手が、強く握られた。
「こんなこと、望んじゃいなかった」
葵にも告げた言葉が、自然と繰り返された。
視線の先では、滑り台から幼い少女が滑り落ちるところだった。
着地点の泥が飛び散って、少女の綺麗な服を汚していく。それでも少年と少女は気にする風もなく、無邪気に笑い合っていた。
滑り台で遊ばなくなったのは、一体いつからだろう。
服が汚れるのを気にするようになったのは、一体何歳からだっただろうか。
この公園で遊ぶことをやめてしまったのは、一体何がきっかけだったのだろう。
葵に恋心を覚えたのは、互いに性別の壁を意識し始めたのは、いつだっただろう。
変わることなんて何も望んでいなかったのに、何もかもが移ろいでいく。
「結衣」
繋いでいた手を、ゆっくりと離す。
結衣の瞳が、小さく揺れた。
「昔みたいな関係に、戻らないか」
力を失った俺の手を、結衣の小さな手が弱々しく掴んでいた。
子供たちのはしゃぎ声が、閑静な住宅街に響き渡る。
「それは」
結衣の唇が微かに開いて、か弱い声を絞り出した。
「葵に何か言われたの?」
「ちがう」
即答する。
「全部、後悔してる。葵に告白したことも、結衣の告白を受け入れたことも」
何もかもが軽はずみだった。
俺の責任だった。
「今のまま進んでも、誰も幸せにはならない」
結衣は無言で足元の泥濘んだ地面を見ていた。
納得は出来なくても、きっと心の中では結衣もわかっているはずだ。
「一度だけでいい。三人で話し合う場を設けたい」
立ち上がる。
地面を眺めていた結衣の視線が、ゆっくりと俺に向けられた。
「話し合いの場は、俺が準備する。また連絡するから来て欲しい」
「瞬矢……」
縋るような結衣の目が、胸を締め付けた。
結衣が望んでいる言葉を、俺は吐けない。
そのまま踵を返し、俺は一人で歩き始めた。
◇◆◇
「遅かったね」
自宅のリビングに入ると、当然のように葵がいた。
佳矢と並ぶようにソファに座り、映画を見ているようだった。
「うっわー、新婚さんみたいな会話」
佳矢が茶化すように笑う。
俺はそれを無視して、葵に目を向けた。
「葵。少しいいか」
「なに?」
葵が薄い笑みを浮かべて立ち上がる。
「部屋に来て欲しい」
「いいけど」
そう言いながら葵は佳矢を見やった。
佳矢は露骨に目を逸らし、気にしていない風を装っていた。
「ごゆっくりー」
ニヤニヤした佳矢をリビングに置き去りにして、葵とともに自室へ向かう。
部屋に入るなり俺は扉を閉め、正面から葵と向かい合った。
「率直に聞きたい。葵は、結衣のことをどう思っている?」
葵は一瞬だけ意外そうな顔を見せ、それから訝しそうに目を細めた。
「どうって?」
「言葉の通りだ。結衣と仲直りするつもりがあるのかを聞きたい」
「ああ……」
葵の目が、いつもの眠たそうなものに戻る。
「そんなの結衣次第じゃないかな」
短い返答だった。
真意が見えない。
「……葵は、最終的な落とし所をどうするつもりだ」
「落とし所?」
「最終的な物事の着地点を、葵はどこにしたいんだ」
「……結衣が身を引けば解決じゃない?」
「その後、結衣と葵の関係はどうなる?」
「どうって……」
葵は視線を逸らして、ベッドに腰を下ろした。
「……もう今更どうでもいいよ」
どこか自暴自棄な印象を受ける声色だった。
葵はそのままベッドに後ろ向けに倒れ、呟くように言った。
「ねえ、結衣の話なんてやめようよ」
制服のスカートが僅かに捲れ上がり、健康的な太腿が露わになる。
葵のいつもの眠たそうな目が、どこか妖艶な雰囲気を纏うのがわかった。
「せっかく二人きりなんだから」
声色が変わり、葵は囁くように言った。
「いま、スカートに目がいったのわかったよ」
クスクスと笑いながら葵は足を組むように動かした。
「瞬矢は、私のこと好きだもんね」
「……葵」
俺の制止の声を振り払うように、葵が挑発的な目で俺を見た。
「そして、私も瞬矢のことが好き」
酷薄とも言える満足そうな笑みを葵は浮かべていた。
「なのに、瞬矢が何を躊躇しているのか私には分からないよ」
「……俺はただ、戻りたいだけだ」
葵はベッドに横たわったまま何も言わなかった。
「一度だけで良い。三人で話し合う場を設けたい」
まだ一度たりとも、三人で冷静に話し合う事が出来ていない。
「無駄じゃない?」
葵はどこか他人事のように言う。
俺は肺腑の中に息を吸い込んで、それから告げた。
「もし、俺が結衣と別れたらどうする?」
劇的な反応があった。
葵は起き上がって、何かを探るように俺の目をじっと眺めていた。
「ゆっくりで良い。結衣との関係を修復できるか?」
「それは――」
葵が口を開きかけた時、インターフォンの音が響いた。
静かな家の中で、それは妙に大きく聞こえた。
葵は言いかけていた言葉を飲み込んで、息を潜めるように扉の向こうに視線を向けた。
「……見てくる」
言葉を残し、自室から外に出る。
途中で佳矢の声が聞こえた。
「お兄ちゃん、結衣さん来てるよー」
とくん、と心臓が跳ねた。
嫌な予感がした。
廊下が軋み声をあげる。
玄関に、結衣が立っていた。
「瞬矢……」
結衣は俺の姿を認めると、弱々しい笑みを浮かべた。
「さっきの公園のこと、私、色々考えて――」
結衣の言葉が、突然途切れた。
表情と呼べるものが消え去り、徐々に歪んでいく。
彼女の目は、俺の肩越しに何かを見ていた。
振り返ると、葵がいた。
「どうして」
結衣の震える声が、小さく響いた。
「どうして、葵がいるの?」
「結衣、これは――」
俺は適切な言葉を探そうとして、失敗した。
それは多分、致命的なエラーだった。
言葉を失った俺と葵を交互に見て、結衣は憎悪の籠もった声で呟いた。
「やっぱり……葵が裏で動いてたんだ」
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