第9話

「きっと私の方が、ずうっと瞬矢のことを理解してる。そう思わない?」

 背後の校舎から聞こえる騒音が、遠く感じられた。

 渡り廊下には、俺と葵しかいない。

 葵の昏い目が、すぐそこにあった。

「葵……」

 戻りたい、と思った。

 葵が語ったあの頃の俺たちの関係に。拗れる前の関係に。

 葵に振り向いて貰いたいとずっと願っていた。眠そうな目で静かに本を読む葵の姿を、ずっと目で追っていた。

 けれど、こんな結末は望んじゃいない。

 結衣を蔑ろにしてまで葵と一緒になりたいと願ったことは一度もない。

 何もかもがぐちゃぐちゃになった今でも、それだけは確かだった。

「……違う。葵は何もわかっていない」

 葵の瞳が、小さく揺れた。

「俺はこんなこと、望んでいなかった」

 だから。

「もう、諦めてくれ」

 これ以上の言葉は必要なかった。

 これで分からないなら、どうせ堂々巡りにしかならない。

 俺は踵を返して、渡り廊下を戻り始めた。

「瞬矢……?」

 縋るような葵の声が、背中から届いた。

 意識的に、その声を無視する。

 俺の足音が、渡り廊下に響き渡った。

 教室が近づき、喧騒が戻ってくる。

 同学年の廊下では、女子から好奇の視線が向けられた。

 解決すべき課題が山積みだった。

 教室に入ると、どこか心配そうな視線を向けてくる拓海と目があった。

 ひとまずは、友人の誤解を解かないといけない。




 昼休みに入ると、俺はすぐに拓海に声をかけた。

「飯、いいか」

「ああ」

 拓海が弁当箱を取り出して立ち上がる。

 すると隣の女子がからかうように笑った。

「うわぁ、浮気だぁ。結衣にチクっとこう」

「勘弁してくれ」

 自然とうんざりした声が出た。

 そのまま拓海と揃って教室を出て、前と同じ中庭に向かう。

 案の定、中庭のベンチには誰もいなかった。

 雨は止んでいたが、ベンチには雫が浮いている。

「それで」

 拓海は気にした風もなく、濡れたベンチに腰を下ろして俺を見上げた。

「一体どうなってるんだ?」

 俺は小さく息をついて、拓海の隣に腰掛けた。

「葵に振られた後、事情を話した結衣に告白された」

「なんだ。そんなことだったのか」

 肩透かしを食らったように拓海が笑う。

 俺は首を横に振って、言葉を続けた。

「……まだ続きがあるんだ」

「続き?」

「昨日の昼休み。拓海と話してる間に葵が来ただろう」

「ああ」

「考え直した結果、やはり付き合いたいと言われた」

 拓海の表情が固まる。

「おい……まさか二股かけたのか?」

「違う。結衣と付き合うことになったと正直に話した。葵は三人で話し合いたいと言って、中庭に結衣を呼んだ」

「……おいおい」

 拓海の顔が、徐々に引きつっていく。

「後は想像通りだ。俺たちの関係は完全に拗れて、結衣は葵に張り合うような振る舞いを見せている」

「おい、そりゃあ……」

 拓海は何か言おうと口を開いて、結局何も思いつかなかったのかすぐに口を閉ざした。

 雨上がりの後の冷たい風が吹き付ける。

 俺は足元に視線を落として、後の言葉を探した。

「……俺は一体どうすればいい?」

 拓海はすぐには答えなかった。

 小さく息をついた後、髪を掻きあげるように空を仰いで、それから真っ直ぐと俺を見た。

「お前はどうしたいんだ?」

「俺は……元の関係に戻りたい。俺たち三人は幼い頃からずっと一緒だった。三人の関係を壊してまで前に進みたいとは思わない」

「違う。お前はどっちが好きなんだ?」

 真っ先に葵の顔が浮かんだ。

 教室で静かに本を読む葵の横顔を、俺はずっと目で追ってきた。

 心地良い沈黙が落ちる二人きりの帰り道が好きだった。

 つかず離れず。

 唯一無二の関係が、俺にとっては何よりも尊いものだった。

 社交的な結衣とは違って、葵はどこか俺と似ているところがあった。

「なあ……瞬矢はなんで短距離を辞めたんだ?」

 拓海が突然、話題を変えた。

 とくん、と心臓が跳ねた。

「これは俺の予想だけど、別に陸上が嫌いになったわけじゃないんだろ」

 それはどこか確信めいた言い方だった。

「お前、あのまま行けばインハイだっていけただろう。なのに、すぱっと辞めちゃってさ」

 中学の時の顧問にも、似たようなことを言われたことを思い出す。

「……それくらい好きだったんだろ。他の全てがどうでもよくなるくらい」

 俺は何も答えられなかった。

 言葉が、出てこない。

「このまま義理で葛城と付き合って、一体どうするんだ」

 拓海の真剣な目が、俺を射抜いていた。

「一年が経って、二年が経って、それから先はどうするんだ」

 静かな力のない声だった。

 しかし、俺は何も答えられなかった。

「そのまま葛城と結婚するのか? 義理だけでそこまでお前は出来るのか?」

 拓海は、要領のいいやつだった。

 物事の要点を、すぐに理解してしまう。なんでも器用にこなしてしまう。

 拓海のいうことは、いつだって正しい。

 中学の時から、ずっとそうだった。

「そもそも、それは葛城にとってどうなんだ。今は長宮に張り合ってるから何も気づいてない。でも葛城だって馬鹿じゃない。いつかお前の気持ちに気づく」

 現状は、もっと最悪だった。

 俺が葵に好意を寄せていることを、結衣は知っている。葵がそういう楔を打ってしまった。

「なあ、瞬矢。お前は正直でいい奴だ。誰にでも公平で、自分にも厳しい。そういうところが後輩たちに慕われていた」

 けれど、と拓海は言った。

「公平なことが、いつだって正しいわけじゃない。特に恋愛はそうだ。答えなんてどこにもない」

 拓海はそこで一度言葉を切った。

 冷たい風が、体温を奪っていく。

 思考も感情も、全て流されていく。

 そして、拓海は告げた。

「瞬矢。お前がやってるのはただの一時しのぎだ。それは多分、残酷な結果しか生まない」

 頭の中が真っ白だった。

 反論すべき言葉が、思いつかない。

 黙ってままの俺を見て、拓海が再び口を開く。

「よくいるよな。数年連れ添ったカップルが、最後にこう言うんだ。もう好きかどうかわからないって」

 想像してしまった。

 別れを告げる俺の姿を。すすり泣く結衣の姿を。

「義理と情で数年を無駄にした挙げ句、最後は面倒を見きれなくなって突き放す。よくあるパターンだ」

 完膚なきまでに、拓海は正論を吐き続ける。

「必ずどこかで限界がくるんだ。二人で将来の話をする度に、温度差ができる。情だけで付き合ってることを嫌でも自覚せざるを得なくて、罪悪感と自己嫌悪に苛まれる」

 口の中が渇き切っていて、唇が切れたせいか血の味がした。

「最後の決め台詞はこうだ。きっと俺よりもっといい男がいる」

 拓海の目には、哀れみのようなものが宿っていた。

 淡々と現実を突きつける声は、どこか弱々しくも優しさがあった。

「そうなったらもう、関係なんて修復不可能だ」

「……ああ」

「ずっと一緒だったんだろ。今ならまだ、戻れるんじゃないか」

 まだ、戻れるのだろうか。

 わからない。

 正解なんて、きっとどこにもない。

 風が吹き、木々が静かに揺れる。

 はらはらと葉が落ちていくのが見えた。

 落ちた葉は、風に流されるようにどこかへ消えていく。

 その行方は多分、誰にもわからない。

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