第8話
「お前、昨日の今日でどうなってるんだ? 葛城がお前と付き合うことになったって学年中に言い触らしてるぞ」
自然と息が止まった。
同時に肩が叩かれる。
振り返ると、同じクラスの女子が立っていた。
「西寺くん、聞いたよ。結衣と付き合うことになったんだって?」
彼女はにんまりと笑って、小首を傾げた。
「ね。どっちから告白したの?」
向けられる好奇の目に、俺は思わず視線を逸らした。
「……悪い。後にしてくれ」
拓海と女子に背中を向け、結衣と葵がいる隣のクラスに向かう。
引き戸を開けると、一斉に視線が集まった。一部の女子が囃し立てるような声をあげる。
俺はそれを無視して、教室を見渡した。窓際に座っている結衣とすぐに目があった。
「結衣。ちょっといいか」
名前を呼ぶと、周囲の女子が黄色い声をあげた。
どこか嬉しそうな顔で、結衣がそばまで寄ってくる。
「なに、どうしたの?」
「場所を変えたい」
ここは周囲の目が多すぎる。
廊下に出て、真っ直ぐ階段を下りていく。
教室に向かう生徒たちと逆行しながら、誰もいない別棟との渡り廊下で足を止める。
「ひとつ確認したい。周りに話したのか?」
結衣は何度か目を瞬いた後、弾けるような笑みを見せた。
「私たちのことだよね? うん、話したよ」
「……葵を刺激することになる。和解するまでは控えてくれないか」
途端、結衣の笑みが消えた。
「なんでそこまで葵に配慮しないといけないの?」
結衣の目に、怒りの色が宿る。
「葵はもう関係ないでしょ。あとは私たちの問題じゃない?」
「……結衣。葵との関係は、放置していい問題じゃない」
「知らない。そもそも葵の身勝手な行動が発端でしょ。それに――」
結衣の表情に、僅かに不安が混じった。
「――なんだか嫌な予感がするの。葵ってたまに何考えてるか分からないから、根回ししておいた方がいいかなって」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
結衣の勘は当たっている。葵は既に、取り返しのつかない行動を開始していた。
「そろそろ時間だし、戻るね」
これ以上の問答を拒絶するように、結衣が踵を返す。
去っていく背中を、俺は黙って見送ることしかできなかった。
俺たち三人の関係は、どうしようもないほど捻れ始めている。
すでに周囲を巻き込み始めていて、事態が長期化すれば泥沼になるのは明白だった。
なにか、手を打つ必要があった。
「結衣は昔から変わらないね」
後ろから、声がかけられた。
振り返ると、暗い渡り廊下の向こうから葵が歩いてくるところだった。
いつもの眠そうな目が、暗がりの中から俺を見ていた。
「結衣は昔から周りを味方にしようとする小賢しいところがあった」
でも、と葵の唇の端が釣り上がる。
「周囲の評価を気にしない人間だっていっぱいいる。私と瞬矢は、特にそのタイプだ。だから私たちはいつも一緒だった」
静かな声だった。
それなのに、不思議と威圧感があった。
「覚えてる? 結衣はカラオケが好きだったけれど、私はカラオケが嫌いだった」
たしか、それで喧嘩したこともあったはずだ。
「瞬矢はいつも私に気を遣って、結衣の誘いを断ってた。そのうち結衣は私に対して怒りを向けるようになった」
そうだった。
結衣の怒りは、なぜか葵に向けられた。
「あの時も、結衣は周囲を味方につけようとした」
けれど、と葵の瞳孔が開く。
「瞬矢は結局、私と一緒にいた。結衣の誘いには乗らなかった」
そんなこともあった。
たしか、中学三年生の夏だった。
夏季休暇が終わり、それぞれが受験に向かい始めていた。
「中学最後の思い出作りにみんなでカラオケ行こうよ」
言い出したのは、結衣だった。
彼女は昔から、クラスの中心に立っていた。そんな結衣の言葉で、クラス中の女子が賛成の意を次々と示していった。
俺はそれを遠くから見守りながら、まずいな、と思った。
数日前に、頑なにカラオケに行きたがらない葵と結衣が喧嘩したばかりだった。
流れをつくって、何としてでも葵と俺をカラオケに誘うつもりなのだろう。
女子の大半が賛成の意を示したところで、次は男子に声がかかり始めた。
「行くひとー!」
結衣が声を張り上げる。
既に女子の大半が行く事が決定しており、断れる空気ではなかった。
興味なさそうな奴らも、次々手をあげていく。
結衣は得意そうな顔でクラス中を見渡していた。
「葵も行くよね?」
そこでようやく、葵に声がかかった。
窓際の席で静かに本を読んでいた葵は、僅かに鬱陶しそうな素振りで顔をあげた。
既に大半のクラスメイトが参加することになっていて、クラス中の視線が葵に集まった。
「私はいい」
短い一言だった。
それまでの流れに反する態度に、場の空気が固まった気がした。
結衣の表情から笑みが消え、何かを言おうと口が開きかかる。
そこで俺は椅子から立ち上がった。
クラス中の視線が俺に集まる。
「俺もやめておくよ」
凄い音痴なんだ、と付け加える。
「えー、西寺くんもー?」
騒がしい女子の一人が、文句の声をあげる。
「下手でも大丈夫だって。全然気にしないから!」
「悪い。本当に苦手なんだ」
愛想笑いを浮かべ、肩を竦めてみせる。
ちらりと結衣の方へ目を向けると、彼女は表情のない顔でじっと俺を見ていた。
それを皮切りに、数人の男子が不参加を表明する。
結衣を中心とした参加組がぞろぞろと教室から出ていくのを見送りながら、俺は椅子に座り直して小さく息をついた。
「瞬矢も行けば良かったのに」
後ろから、葵の声がした。
「歌、下手じゃないはず。東村くんたちと一緒に行ってるの知ってるよ」
「気分じゃなかったんだ」
振り返ると、葵は読んでいた本を畳んで俺のことをじっと見つめていた。
不参加だった数人の男子も教室から出ていき、いつの間にか教室には俺と葵の二人しかいなかった。
「私は別に一人でも平気だから」
「俺もだよ」
答えると、葵は一瞬きょとんとした顔をしてから薄い笑みを浮かべた。
「なにそれ」
「さあ」
そこで会話が途切れた。
葵は再び本を開いて、視線を落とした。
俺は窓から校庭をぼんやりと見下ろしていた。
広い教室には、俺たちしかいない。
長い沈黙があった。
俺も葵も、口数が多い方ではない。
いつものことだった。
そして、俺はこの沈黙が嫌いじゃなかった。どこか心地良さすら感じていた。
ふと、葵に目をやる。
静かに本を読む葵の顔は、人形のように整っていて綺麗だった。
葵も、同じことを感じているのだろうか。
この沈黙を、心地良いと感じてくれているのだろうか。
そうならいいのに、と心から思った。
俺の視線に気づいた葵が顔をあげる。
「なに?」
「カラオケ、二人だけで行くか?」
葵は一瞬驚いたような顔をしていて、それからいつもの眠そうな笑みを見せた。
「瞬矢となら、まあいいけど」
「結衣は少しだけ、瞬矢を誤解してる」
葵の言葉で、意識が引き戻される。
「いや、私たちを誤解してる。結衣はいつも皆の中心にいるから、私たちの思考を正しく読めない」
葵の足が、ゆっくりと俺に向かう。
「味方にするなら、家族にするべきなんだ。クラスメイトなんて味方につけても何の意味もない」
葵の顔が、近づいてくる。
いつもの眠そうな表情に、昏い目を浮かべた葵が。
「きっと私の方が、ずうっと瞬矢のことを理解してる。そう思わない?」
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