第5話 文章
最近文章を書かない。アメリカに住んでいるせいか、ほとんどの文章は英語だ。昨年の七月に、最愛の母が亡くなった。母は私の小説の唯一の読者であり、理解者だった。
母が生存中は、忙しい合間にも少しづつ小説を書いていた。しかし母が亡くなると、やる気はスーと消えた。最近は何も書いていない。
ある日、本棚に太宰治全集が目に留まった。その横に並んで「小説家の休暇」三島由紀夫の文庫本が並んでいる。私は小説家の「休暇」という言葉に、なんとなく興味を持った。
本を手に取るとカウチ(ソファー)に横になり適当なページを開けて読み始めた。
しかし、三島由紀夫の難しいカタカナの羅列や修飾語の多さにうんざりして、すぐに本を閉じた。三島由紀夫はニヒリストだ。有名なニヒリストのフリードリヒ・ニーチェは中学生のころに読破したがニーチェの言わんとしていることは、さっぱり分からなかった。三島もわからない。彼は頭が良いらしい。しかし、あのように文章を飾って難しく書く必要はないのではと、ぼんくらの私は思うのです。ま、日本でも芥川賞をもらう作家は、ほとんどの名詞を修飾語であれこれと飾っている。読んでいると不愉快になる。言葉から得れる想像の域を遮断されるからだ。私には山村暮鳥のような平易な表現の文章がのぞましい。
大体売れる作家には、文章を飾りに飾って、読者、編集者、はたまた文壇にまでネコナデ声で褒められている。例えば村上春樹などだ。ありゃあ、アメリカの本などの生き写しで、日本人の英語解釈では修飾語が多くなるだろう。まったく、マネしているのではないかと思えるぐらいだ。だから、ドナルド・キーン氏やサイデンステッカー氏など日本文学びいきの人たちの訳した英語の文章は世界にうまく受け入れられる。
とにかく、ぼんくらな私は、このような人たちとは無縁である。深く物事を考えられない私は、三島由紀夫に疲れて、疲れたといっても数ページ読んだだけで疲れを覚え太宰治全集を取り上げた。
私は「太宰文学」などと呼称される研究のまねごとを、若い時に少しした。太宰は、現在でも通じる文章を書いている作家である。しかし、太宰の文章は自己陶酔形で、己だけの世界に身を置いている。私小説でもないが憂鬱な文章だ。本人は滑稽さで、自分を慰めているが小説となると、それが足を引っ張っている。それが芥川賞をもらえなかった理由です。
ぼんくらな私には、頭の良い太宰が馬鹿な振りをして読者を騙している、と思えるのです。いや、欺いていると言っても過言ではない。
私は、難しい文章に疲れを覚える年齢になったようだ。絵画の巨匠でも、ある年齢を超えると、子供のような絵になっている。一見幼稚に見えるが自然の摂理を端的に描いている。つまり、余計なものは描かないのである。彼たちの卓越した才能は、ある年齢から莫大なエネルギーとなり、自然と対峙し、カンヴァスに魂をぶつけている。見る人は、心を静寂にして聞くように鑑賞することです。画伯の意図がうかがえる。
私は、何万という数多くの言葉が作り出す文章が余計な修飾語を省き、魂の乗った言葉で書かれた小説を、良しと思う。
08月13日、お盆、2023年
Youは何しに海外へ? -国外在住者のつどい 三崎伸太郎 @ss55
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