6(日常から遠く離れて)
数日前に降った雨の痕跡はもうどこにもなくて、街はいつも通りの姿を見せていた。
公園、コンビニ、大通りの信号、騒音を立てる車の群れ、住宅地を抜けた先にある小さな水路と桜の木、そんなもの。
ぼくは自転車を走らせながら、そんないつもの光景に凛香の姿を探していた。でもそれは、久しく見たことのない状況だった。いつもの光景から、凛香はもうずいぶん長いこと失われたままでいる。
短い坂道、電柱の陰、雑草の生い茂った空き地、薄暗い工場の倉庫、月極の駐車場、個人経営の病院、かすかなうなりをあげる自動販売機、モデル募集中の貼り紙を出した美容院、何匹かで集まっている猫、看板さえ目立たないような料理店、古い写真館、コンクリートの一部がひび割れた道路。
いない――
もちろん、そんな場所に凛香がいるはずはなかった。彼女はこの世界の住民票を返して、本来いるべきところに帰ってしまったのだ。もうどこを探したって、見つかりっこないのだ。
ぼくはいったん自転車をとめて、深呼吸をした。
――落ち着かなくちゃいけない。
それからあらためて、凛香のいそうな場所を探す。昔、通っていた小学校、よく遊んだ公園、秘密基地のあった藪の中、探検に使った小道、少し離れたところにある本屋、市立の図書館。
昔の思い出を、ぼくは次から次へと引っぱりだす。その記憶は水底で泥をかぶっていた魚みたいに鈍く、ゆっくり身じろぎした。でもそうやって起きた水の流れは、確かにぼくを揺り動かしていた。
ぼくはふと、あの日のことを思い出す。たぶん、凛香が学校に来なくなるきっかけになった日のことだ。
それは国語の授業中のことで、ぼくたちはちょうど太宰治の小説を読んでいるところだった。授業が半分くらい終わったところで、凛香は急に立ちあがった。そして何を言うまでもなく胃の中の物を全部吐きだした。
どうしていきなり吐いたりしたのか、原因は不明だった。ぼくが凛香に訊いてみても、まともな答えは返ってこなかった。おかしなものを食べたわけでも、体調が思わしくなかったわけでもない。時間になったら目覚まし時計が鳴るみたいに、凛香は突然嘔吐したのだ。
それ以来、凛香はあまり学校に来なくなった。来ても、保健室で過ごすことが多くなった。やがて保健室にしか来なくなり、ほどなく学校そのものに行くこともやめてしまった。
あの時、凛香に何があったんだろう? 今日の失踪と、それは何か関係があるんだろうか――
いつのまにか空は茜色に染まり、夕陽が沈もうとしていた。ぼくはとにかく、自転車を走らせた。もうすぐ、夜が来る。そうしたら凛香は星に帰ってしまうんだろうか。祈るようにきれいな、あの夜の光点に。
ぼくの前には洪水も盗賊も午後の灼熱もなかったけど、同時に、向かうべき場所も、守るべき約束もなかった。自転車だけが、惰性に従って走り続けている。王はそれでも処刑を敢行するだろうか。ただ、それが残酷だからというだけの理由で。
――そういえばあの時、凛香は何と言っていたっけ?
学校に来なくなった、ちょうどあの頃。彼女はぼくに向かって何かを言ったはずだ。とても大切な、重要な何か。心の大切な部分をそっと解きあかすような、そんな何か。
ぼくはぼくの頭に向かって、必死になってそれを思い出すよう命令する。
「重力は距離の二乗に反比例するの」
と、凛香は言った。
それはやっぱり、彼女がぼくの部屋で本を読んでいるときのことだった。凛香は座ったまま、塔の中の囚人みたいに小さな窓を見あげていた。
「つまり、ちょっとでも距離が離れると、重力はそれ以上に弱くなる。だから今より少しでも空に近づけば、体はずっと軽くなるかもしれない」
凛香の言葉にどう答えたのか、ぼくは覚えていない。その時のぼくには、彼女が本当はどこを見ているのかさえわかっていなかったから。
今、ぼくはあらためてその言葉を思い出す。
いくつかの思い出もいっしょに。
ハンドルを握りなおし、ペダルを踏む足の位置を変え、ぼくは急いで自転車を走らせた。目指すべき場所は、きっとあそこだ。今はそれがわかる。北極星が空の決まったところにあるみたいに、はっきりと。あとはそこに向かうだけだった。
世界はすっかり夜へと変わり、街灯の明かりが無関心そうにあたりを照らしている。ぼくは住宅地を抜け、山のほうへと自転車を走らせた。道の傾斜がペダルの重みになって伝わる。重力はいつだって律儀に働き続けているのだ。
しばらく坂道をのぼったところで、ぼくは歩道の脇に自転車をとめた。もう少し行くと高速道路の上を渡る橋があるのだけど、もちろん用事があるのはそっちのほうじゃない。
ぼくは脇道というか、狭くて細くて急な道を登りはじめた。手にはちゃんと、懐中電灯を持って来ている。小さな光の輪が前方を照らした。時々、草を揺らす音がして、涼しい風が通りすぎていく。
少しばかり親切心に欠けた急坂を登りながら、ぼくはある懐かしさを感じていた。ここには昔、子供の頃に来たことがある。ピーターパンとか宝島とか、そんなものを信じていた頃の話だった。よくある探検ごっこだ。こんな坂を、子供の頃によく登れたものだな、とは思ったけれど。
頂上までやって来ると、ひらけた空き地が広がっている。月に照らされて、その場所は意外なほどの白さと明るさだった。何だか、そのまま月にまで昇っていけそうな気がする。
空き地には、通信会社の基地局があった。基地局といっても、てっぺんにアンテナがついただけの鉄塔だった。施設というほどのものじゃないし、もちろん無人だ。高めのフェンスに囲まれているほかは、特別なことは何もない。
ぼくは鉄塔のそばまで行って、上空を見あげてみた。かなりの高さがあって、半分以上はただのシルエットになって夜の闇に沈んでいる。でもそこが目的地であることは、間違いない。
懐中電灯の光を空に向けて、ぼくはそれを回してみた。すぐに返事はあった。暗闇の中に、同じような光が回転する。
やっぱり、凛香はそこにいるのだ。
――月にも、星にも、夜の暗闇の中にも還ることなく。
ハシゴは延々と空に向かって続いている。ぼくは落っこちたときのことをできるだけ想像しないようにして、重力に逆らってのぼり続けた。無骨な鉄の骨組みの中でそうしていると、何だか大昔に化石になった怪獣の背中でものぼっていくような気分だった。
まっすぐにのびたハシゴをのぼっていくのは案外の重労働で、軽く腕をつってしまいそうだった。しがみついていないと不安で、余計な力を入れすぎているのかもしれない。
上のほうに近づくにつれ、風の音は勢いを増し、夜の闇は濃くなっていった。ぼくは肩を軽くまわして、もうひとがんばりすることにする。高さが増して、重力が少しでも弱くなったのかどうかはわからない。
凛香の持つライトの光で、頂上がもうすぐそこだということはわかった。ぼくは慎重に、足を踏みはずさないように注意して最後の何段かをのぼった。
頂上付近には格子状の小さな床があって、人が二人くらいなら楽に座れるスペースがあった。怪獣の背中から降りて、ぼくはその場所に足を着ける。
凛香は手すりに背中をもたれて、床の上に座っていた。あまりアクティブとはいえない格好で、スカートをはいている。家からそのままで出てきた、という感じだった。その様子は何だか、ぼくの部屋で本を読んでいるときに少し似ている。
「――ようこそ、天まで近きところへ」
小さなライトの光の中でも、凛香がにっこりと笑うのが見えた。
「天まで近きところ?」
ぼくは適当な場所に移動しながら、あたりを見渡してみた。
そこは暗闇の宙空に漂う、頼りない救命ボートみたいな場所だった。立っていると、今にも足元でバランスが崩れて、何もかも横倒しになってしまいそうな気がする。心なしか鉄骨は揺れていて、ぎしぎし音を立てているようでもあった。
でも、ふと視線を遠くに向けると、そこには街の明かりがあり、ずっと向こうには工場の照明らしいものが輝いていた。それは地上に落ちてきた、星の光だった。少なくとも、そんなふうに思うことはできる。
「みんな心配しているよ」
ぼくは恐る恐る腰を落ち着けながら言った。
「…………」
凛香はライトの明かりを消した。眠りを妨げられたみたいに、暗闇はまた元の場所に戻ってくる。でも目が慣れるに従って、あたりの様子も、凛香も、前よりははっきり見えるようになってきていた。
「どうして、この場所に?」
ぼくは訊いてみた。
「さあ、どうしてかな――」
凛香はまるで、独り言でもつぶやくみたいにして言う。
風が吹いて、凛香の髪を揺らした。彼女の瞳は暗闇に溶けてしまったように、どこか遠くを見ている。
「メモくらい残しておけばよかったのに」
「まあ、そうなんだけど……自分でも、どこに行きたいのかわからなかったし」
凛香は軽くため息をついた。風のせいでよくはわからなかったけど、たぶんそんな何かを。
しばらくのあいだ、ぼくたちは黙っていた。夜の空気は無関心に、公平にぼくたちの存在を許している。人工の星明りが、地上を飾っていた。人間てたいしたものだな、とぼくは思う。
それから、不意に凛香が言った。
「でもね、ノキなら見つけてくれるような気がしてた」
「うん――」
「ありがとね」
ぼくは赤くなっていた、と思う。あたりが暗いのは幸いだった。そんな顔をしていたら、絶対にからわかれていたに違いないから。
照れ隠しもあって、ぼくは返事の代わりに訊いた。
「少しは、体が軽くなった?」
凛香はちょっと考えるようにして言う。
「うーん、少しは軽くなったかな」
もう一度、沈黙。家では今頃、家族がぼくたちのことを心配しているはずだった。けっこうな騒ぎにもなっているかもしれない。警察に連絡するか迷っているかもしれない。
――でもここは、世界から遠く離れた場所だった。悲劇の多くが含まれた、日常からは。
「聞いてもいいかな?」
と、ぼくは訊いてみた。それは自然な質問だった。
「何?」
「どうして、学校に行かないの?」
凛香はすぐに答える。「どうして、学校に行くの?」
――うまく答えられなかった。
「わたしだって、学校には行ったほうがいいと思う」
凛香は慎重に、言葉をよりわけるみたいにして言った。
「……つまり、システムとしては、ね。みんなが作った、そのほうがいいっていうシステム。みんなができるだけ幸福になれるためのシステム。でもどうしてだか、ダメなの。そこに行こうとすると、気持ち悪くなって、水の入った袋に穴が空いちゃうみたいに体中から力が抜けていく。足がふにゃっとして、立っていられなくなる。手が震える。息ができなくて、苦しい。――どうしてなんだろう、って思う。どうしてわたしは、こんなにも苦しいんだろうって」
凛香は指を空中でそっと動かした。世界に見えない線を引くみたいに。
「それでわかったのは、わたしには無理なんだってこと。この日常は、わたしを許していない。わたしを存在させられない。でないと、こんなに苦しくなるはずがない」
「……本当に、そうなの?」
ぼくはどんなふうに訊いていいのかわからなかった。
「絶対に無理ってわけじゃない」
と、凛香は力なく首を振った。
「でもそれには、すごくすごく努力がいる。また最初から〝わたし〟を作りなおさなくちゃいけないくらいに」
ぼくは口を噤んで押し黙った。ぼくに言葉はなかった。ぼくは凛香みたいにたくさんの本を読んでいるわけじゃない。頭だっていいわけじゃない。誰かみたいにユーモアのセンスもない。鋼の意志も、鉄の勇気も、あふれる優しさなんかも――
この日常に、ぼくのできることは少ない。ぼくの力はあんまりにも弱くて、誰かを救うことも、誰かを守ることもできはしない。夜の闇は深く大きくて、街の光はあくまで遠く小さかった。それらはまるで、ぼくたちの存在を消し去ろうとしているみたいにも見える。この暗がりの向こうで、どれくらいの人たちが同じ思いを抱えているんだろう。
「聞け、君らよ――!」
その時、不意に凛香は立ちあがった。吹きさらしの風にも負けず、深い暗闇にも怯まず、両足でしっかりと体を支えて。
「私はこの夜の王。
馬手に月を従え、弓手の王錫で星々を支配する。
運命の道行きは私の手の中で踊る。
私の箱にはすべてが詰まっている。
――すべての善きものが。
――すべての悪しきものが。
喜びが涸れ、悲しみが尽きるとも、すべてに終わりが訪れることはない。
だから君よ、懼れずに行くがいい。
幸いは君らと共にある。
救いはいつか訪れる。
足音を高らかにし、音声をあげよ。
我らの悲劇はここにある――」
凛香の声は朗々と、夜の闇と風の中に響きわたった。その叫びはあっというまに、何の痕跡も残すことなく消えてしまったけれど。
しばらくして、ぼくは訊いてみた。
「それ、誰の言葉?」
凛香はいたずらっぽく、笑みを含むように答える。
「もちろん、『わたしの言葉』よ」
あらためて、ぼくは夜の闇と街の光を眺める。それらはやっぱり、その巨大さと遠さでぼくたちを圧倒した。
――でもそこには、凛香の言葉がある。
彼女の声とその響きは、いつだってそこに含まれていた。何の変化も、痕跡も、証拠なんてなくても、そこに。ぼくはそれを知っている。凛香の言葉は、だからいつもぼくのそばにある。
悲劇の多くは日常に含まれる、と彼女は言うけれど 安路 海途 @alones
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