5(断片)

 あれは、いつのことだったろう?

 ――そうだ、確か幼稚園に通っていた頃のことだ。ぼくがまだ、隣の家に住んでいる女の子のことを何も知らなかった頃のこと。

 当時、ぼくはどういうわけかリンゴが嫌いで、ある日の給食にそれが出てきた。最後にそれを残したのだけど、どうしても食べる勇気は出てこない。じっと処刑の時間でも待つみたいに、ぼくは泣きだしそうなまま身動きもできずにいた。

「こんなんはぶんかつせよ、ってしゅうどうしもいってるわよ」

 不意に、そんな声をかけられた。見ると、女の子が一人ぼくのことをのぞいていた。正確には、ぼくのお皿に残ったリンゴの切れ端を。

 ぼくはやっぱり泣きだしそうなままで、女の子のことを気にする余裕もなかった。どうしようもない失敗をしてしまったみたいに。取り返しのつかない過ちを犯してしまったみたいに。

 すると、女の子はそんなぼくのことを見かねたみたいだった。ひょい、とリンゴを手に取って、それを二つに割ってしまう。それから一方を自分で食べてしまって、もう一方をぼくのほうへと手渡した。

「ほら、これでへいきでしょ?」

 不思議なことに、ぼくはそのリンゴを食べたかどうか覚えていない。食べたとしたら、それはいったいどんな味がしたんだろう。それとも、やっぱり食べられなかったんだろうか。

 ぼくが覚えているのはただ、その日からぼくと凛香が友達になった、ということだけだ。半分になったリンゴの最後は記憶になくても、凛香と最初に会ったときのことは覚えている。

 それからもう一つ、「困難は分割せよ」という言葉。それは、井上ひさしの短編『握手』に出てくる言葉だ(元は別の人の言葉らしいけど)。たぶん凛香は、親か誰かにその小説を読んでもらって、その言葉を覚えたのだろう。

 彼女はそれをぼくに、大事な宝物を渡すみたいに教えてくれた――



 ――未来の世界はこんなふうになる、と誰かが言った。

 小学校の、休み時間の話だ。低学年の、まだ小さな子供たちが集まっている。もちろんぼくもそんな子供たちの一人で、かたわらには凛香の姿もあった。

 誰かは雑誌か何かで仕入れたその未来予想図を、得意になって話していた。病気がなくなる、今よりずっと長く生きられるようになる、宇宙旅行、人間そっくりのロボット、空飛ぶ自動車、科学技術の発達――

 みんな、ただ感心して聞いていた。話の半分もわからなかったし、しゃべっている当人だってそれは怪しいものだったけど、空の一番星みたいに輝く未来のイメージは、ぼくたちをわくわくさせた。ぼくたちがこれから向かっていくのは、そんな世界なのだ。

 その帰り道か、学校でだったかは覚えていない。でも凛香は不意に、ぼくに向かってこんなことを言った。

「わたしだったら、泉までぶらぶら歩いていくけどな――」

 それが『星の王子さま』の一節だと気づいたのは、ずいぶんあとになってからだった。咽の渇きを抑えて時間を節約できる薬を売っているセールスマンの話に、王子さまは自分ならそうするのに、と考える。

 凛香はその頃からずいぶんたくさん本を読んでいて、ぼくの知らないことをいっぱい知っていた。

 本当に、本当にいっぱいのことを。



 ――みんなが反省するまで、決してこの教室を出てはいけません。

 先生はそう言って、扉から出ていってしまった。クラスメートがけんかをして、机の一つを壊した。まわりの人間はそれを見ていたけど、誰もとめようとしなかった。学校でけんかをした二人も、それを見ていただけの君たちも同罪です。

 あとに残されたぼくたちは、けれどどちらかというと白けた気分だった。同じことは、もう何度か繰り返されていた。重苦しい空気こそ変わらなかったけど、その重さは段々小さくなっていた。プールに入ってしばらくすると、水の冷たさに慣れてしまうみたいに。

 誰かが――大抵はけんかをした二人が――先生のところまで謝りに行って、それで話はおしまいだった。いつもの時間が、またぼくたちのところに戻ってくる。

「絶望することより、絶望に慣れてしまうことのほうが問題だ」

 凛香はつぶやくように、そう言った。

 その声が聞こえたのは、ぼくだけだった。「今、何て言ったの?」とぼくは訊き返した。もちろん、とても小さな声で。

「ノキはそう思わない? 絶望することより、それに慣れてしまうほうがひどいことだって。ちょうど、今のわたしたちがそうみたいに」

 ぼくはその言葉を聞いて、あらためて教室を見渡してみた。みんな神妙に口を閉ざしていたけど、そこには半分眠っているような退屈があった。誰も、何かに対して戦ったり、抵抗しようとしたりなんて考えていない。

 実際には、それこそが必要だったというのに――



 ――テレビか何かで、リポーターが子供たちに向かって将来の夢を訊いていた。

 ぼくたちは居間でそれを見ていた。母親がケーキを買ってきたので、凛香とぼくはいっしょにそれを食べていたのだ。

 カメラに向かって、子供たちは実にたくさんの夢を語った。警察官になりたい、お花屋さんになりたい、野球選手、絵描き、医者、先生、宇宙飛行士、ヒーロー、通訳、歌手、研究者、などなど。

 そんなたくさんの夢を聞いていると、世界は希望に満ちあふれているような気がした。郵便箱をのぞけば、明日にでもその夢が本当に届いているみたいな気が。

「凛香は何かなりたいものってある?」

 ぼくは最後に残したショートケーキのイチゴをつつきながら訊いた。

 その時、凛香はすぐには答えなかった。まるで質問自体がなかったか、聞こえなかったみたいに。ぼくは不思議に思って彼女のことを見た。

 でも凛香は、質問が聞こえていないわけじゃなかった。質問に怒っているとか、呆れているというわけでもない。

 彼女はただちょっと、戸惑うような、困ったような、そんな顔をしていた。

「――〝ライ麦畑のつかまえ役〟」

 やがて、彼女はぽつりと言った。

「え?」

「そういうもの、そういうものにだけ、わたしはなりたい」

 ぼくはその時の凛香の言葉の意味がわからなかった。中学生になったばかりで、ぼくははじまったばかりの新しい日常に、ただ単純な不安や期待を抱いているだけだった。

 『ライ麦畑でつかまえて』の、その言葉の意味がわかったのは、ずいぶんあとになってからだった。

 ずいぶんずいぶん、あとになってからだった。



 ――街頭の一角には、人だかりができていて、その中心に演説者がいた。街の未来のためにとか、政治の腐敗を正すとか、県民の幸せな生活をとか、そんなことをしゃべっていた。選挙の時期だった。

 スピーカーからは、ひび割れたガラスに映ったみたいな、変に誇張された声が響いていた。候補者が何か言うたびに、盛んな拍手が起こった。冬のさなかのこんな寒いところで、ずいぶんなことだった。

 しばらくしてから、ぼくたちは自然にその場を離れていた。今のところぼくたちには選挙権も被選挙権もなくて、演説は直接には関係のない話だった。それに、聞いていてもよくわからない。

 歩きながら、ぼくはたいして興味もなかったけれど言ってみた。

「そのうち、ぼくたちも投票するようになるんだよね」

 凛香はしばらく黙って歩いていた。この頃には、凛香はもう学校には行っていなくて、その日は駅前の本屋に出かけた帰りだった。

「――切符はお返しする」

 ふと、凛香はいたずらっぽい、くすっと笑うような感じで言った。

 それが何かの本に書かれたことなのだろうというのはわかったけれど、もちろんぼくにはその題名さえ見当がつかなかった。

「切符って、何のこと?」

「『カラマーゾフの兄弟』に出てくる、イワンの言葉」

 自分の思いつきがおかしいのか、凛香はくすくす笑っている。

「例えすべての人間が天国に行って、そこですべての罪が赦され、贖われたとしても、それが約束されたことだとしても、俺はそんな切符はお返しする。正直な人間であるからには、できるだけ早く、そんなものは謹んで神様にお返しする――そんな話」

「よくわからないよ」

 ぼくは力なく首を振った。

 そんなぼくを、凛香ははっとするような強さでのぞきこんだ。彼女の瞳は、一番きれいな夜空を切りとったみたいだった。

「ノキは、そのほうがいいんだと思う」

 彼女はそれまでとはまるで違う微笑を浮かべて、そう言った。



 それから、そう――あれはいつのことだったろう。

 確か、ぼくの部屋で凛香が本を読んでいたときのことだ。ぼくが何か言ったのだろう。それに対して、凛香はこう答えた。

「いい、ノキ? 世界は悲劇よ。それは間違いない。ろくでもないことはいつまでも起こり続けるし、間違いは直らない、ちょっとした行き違いで人は傷つくし、争う。でも悲劇っていうのは、この日常を言うの。少なくとも、その多くは日常に含まれる。それはただの、何でもない、ごくありふれただけの真実なの。誰もそこからは逃れられない。この日常からは、誰も、どんな人間だって」

 ぼくはその時、どう返事をしたんだろう。反駁したのか、同意したのか、それとも黙っていたのか。

 そもそもぼくは、凛香の言葉を理解していたのだろうか?

 ――でもぼくは今、少なくとも今は、こう思うのだ。

 ぼくには凛香の言うことがわからない。そんなふうに思うことはできない。だってそれじゃあ、あんまりだと思うから。

 きっと、すべてのことに意味はある。どんな問題だって解決する。希望のない未来なんてあるはずがない。光はいつだって明るいし、それは世界を満たしている。ぼくたちはきっと、どこにだって行ける。

 でないと――

 それは、あんまりにも悲しい話だ。



 ぼくは想像する。時には、夢にだって見る。

 ――一人ぼっちのまま、ぼくの部屋で本を読む凛香の姿を。

 彼女は静かに、本当に静かな手つきで本のページをめくる。その目はとても真剣に、とても幸福そうに文字の上を見つめている。

 まるで、そちらのほうが本当の世界みたいに。本を読んでいるときだけ、彼女は生きているみたいに。

 その姿は何だか、月から降りてきた人を連想させた。ぼくは大声で彼女の名前を呼ぶ。でもその声は、真空の中みたいに何の響きも生みださない。ぼくの声は、彼女に届くことはない。

 そして彼女はただ一人で、静かに本を読み続ける。



 目が覚めたとき、ぼくは嫌な汗をかいていた。

 体の中身がちょっとだけいつもの位置からずれているみたいな、そんな感じだった。現実が現実らしく見えなくて、時間がクラゲみたいに頼りなく漂ってる。世界は支えを失って、ゆっくりと揺れていた。ぼくは何度か頭を振った。

 目が覚めたのは、母親の声が聞こえたからだった。その声は、ずっと上のほうにある水面から響いてくるみたいにぼやけたままだった。ぼくは何とかベッドの上から皮膚をはがして、部屋のドアを開けた。

「どうかしたの?」

 ちょうど階段を上がってきたらしい母親に向かって、ぼくは訊ねる。

「大変なのよ、信貴」

 母親の声には、普段にはない切迫した調子があった。

「凛香ちゃんがね、凛香ちゃんがどこにもいないんだって」

「――どこにも?」

 ぼくの頭はようやく復旧しはじめていた。

「そうなの、いつのまにか部屋からいなくなってたんだって。伝言も書置きもなくて、今どこにいるかもわからないのよ。それでお二人とも心配になって、うちに訪ねてきたの」

「凛香に変わった様子は?」

「別に、何もなかったって。でも、まさか……ねえ?」

 母親の言う「まさか」が何なのか、ぼくは考えていなかった。部屋に引っこむと、ぼくは必要なものを持って家を飛びだしていたからだ。

「どこに行くの?」

 と、後ろの玄関から母親の声が聞こえる。

「決まってるだろ」

 ぼくは自転車を引っぱりだしながら、振り向きもせずに言った。

 もちろん、ぼくは凛香を見つけるつもりだった。

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