4(世界のシステム)

 雨が降っていた。

 誰かが指でぼんやりと机を叩くような、そんな雨だった。静かで、ずっと同じ調子で、ふと気づくと音が聞こえなくなっている。空気はひんやりとして、夏が少しだけ遠ざかったみたいだった。

 今日は部活が少し早めに終わったので、そのまま家に帰るところだった。練習試合中に、ちょっとした事故があったのだ。そんなにひどい怪我ではなかったけど、一人が足首をひねってプレーが続けられなくなった。

 ぼくは傘を差して、とぼとぼと帰り道を歩いていった。普段は自転車なのだけど、雨の日なんかには歩いていくことにしている。

 ちょうど家の近所にある、公園の前まで来たときのことだった。向こうのほうから、何となく見覚えのある人影が歩いてきた。誰かと思ったら、近所に住んでいるおばさんだった。犬を連れている。

 おばさんはすぐそばまでやって来ると、さも奇遇だというふうにぼくのことを見た。犬のほうはぼくのことを見て、きゃんきゃんと吠えた。白いポメラニアンだった。窮屈そうなレインコートを着ている。

「あらダメよ、カミュ。そんな恐い声で吠えたりしちゃ」

 おばさんはリードを短く持って、小さな犬をたしなめた。でも犬がそれを理解した様子はないし、理解できそうな様子もない。

「ごめんなさいね、家では虫も殺さないようなお姫様なんだけど、散歩となるとはしゃいじゃって」

 おばさんは、まったく仕方のない子ね、というふうに笑う。

 ――ポメラニアンて元々そういうものです、とぼくは言おうかと思ったけど、やっぱり黙っていた。そんなことをしたって、何の意味もない。だから、ただ礼儀正しく笑顔を浮かべていた。

「あなた、吉秀さんとこの信貴くんよね?」

 と、おばさんは言った。でも、同意を求めたわけじゃない。すぐに続けて言う。

「この前はお母さんにお世話になっちゃって。本当、申し訳ないわ。あなたからも是非よろしく言っておいてね」

 何のことかはさっぱりわからなかったけど、必ず伝えておきます、とぼくは笑顔で承諾した。

「ところで、学校のほうはどう? 楽しくやれてるかしら?」

 友達とは仲良くやっているし、勉強もしっかりしています、とぼくは答えた。そういう答えが求められていたから。

「信貴くんは本当にいい子ね。うちにも子供がいたら、あなたみたいだといいんだけど」

 ――そんなことないです、と言ってぼくは首を振った。

「でもねえ、みんながみんなうまくやれるってわけじゃないでしょ。ほら、森さんとこの凛香ちゃん」

 ぼくは黙っていた。

「知ってる? 〝不登校〟なんですってね。いったいどうしたのかしら? ほら、やっぱり難しい年頃でしょ。他人にはよくわからない悩みとかを抱えて。おばさんもね、その頃は本当にいろんなことに悩んだものよ。今から思うとどうしてだろう、ってことでもね。足が大きいとか、爪の形が少し変だとか、そんなの全然たいしたことじゃなかったのにね。でも当時はそう思えなかったのよね。黒子の位置で人生を損してるとか、世の中は何て不公平なんだろうって、そりゃあ苦しい思いをしたものよ。だからね、おばさんにもわからないわけじゃないのよ、彼女のこと」

 犬は雨が降っていることに気づいているのか、いないのか、やっぱり元気よく吠え続けていた。

「でもね、いつまでもそこから逃げるってわけにもいかないでしょ? そんなことしてたら、いつまでたっても前になんて進めやしないわ。私の知っている人にもね、息子さんで不登校になった人がいるのよ。親御さんはその子にあまりがみがみ言わないんで、今でもやっぱりひきこもってるんですって。まあどうなのかしらね、そういうのって。時には厳しく対応することも必要じゃないのかしら? 人生って、そんなにいいことばっかりじゃないんだから」

 ――そうですね、とぼくは礼儀正しく相槌を打っておく。

「凛香ちゃんのことね、私も心配してるの。ほら、やっぱり難しい年頃だから。信貴くん、確か家はお隣同士よね? 同じ中学に通ってるんだし、何かと気にかけてあげるといいんじゃないかしら」

 ――そうですね、気にかけてみます、とぼくは言った。

 おばさんはすっかり満足したような顔をした。

「本当に信貴くんはいい子ね。これからもその調子でね。それから、お母さんにくれぐれもよろしく」

 ――はい、必ず伝えておきます、とぼくは返事をした。

 おばさんは軽く傘を揺らすと、そのまま歩いていった。白いポメラニアンはまだ吠えたりないといった感じできゃんきゃん鳴き続けている。雨音が急にうるさく聞こえはじめた。

 ぼくは軽くため息をついてから、歩きだした。世界は今日も平和みたいだった。


 次の日の学校は、何だかおかしかった。

 でも長いこと、何がおかしいのかわからなかった。まるで、遠くの景色が精巧な書き割りに変わっているみたいに。近づいて手で確かめてみるまで、そのことには絶対に気づかない。

 違和感の正体を発見したのは、何度も休み時間を重ねてからだった。ぼくは藤咲さんが大抵の時間を一人でいることに気づいた。それだけなら別にどうってことはないのだけど、いつもの仲良しグループと不自然な距離をとっている。

 昼休みになって、ぼくは藤咲さんのところに行ってみた。藤咲さんは窓枠のところによりかかって、ぼんやり外を眺めていた。校舎の外には昨日とはうってかわった青空が広がっていて、どこか遠くのほうからやって来た風が吹いている。

 藤咲さんはぼくのことに気づくと、「やあ」といつもの調子で少し笑った。短い髪が、ちょうど吹いてきた風に揺れる。彼女は心地よさそうに目を細めた。

 教室にはこの前本を渡したときと同じように、ほとんど人はいない。

「どうしたの、今日は?」

 ぼくは訊ねてみた。

「――何が?」

 藤咲さんは風のにおいをかごうとするみたいに、また窓の外を見た。

「ずっと一人だよ。いつもは他の三人といっしょなのに」

 藤咲さんは黙っていた。そのままずいぶん長い時間がたった気がする。がしゃん、と時計の分針が動く音が聞こえた。

「もう友達じゃないから」

「――え」

 ぼくはきょとんとした、と思う。そういう顔をした、と。

 でも藤咲さんは何も言わなかった。誰かの笑い声が聞こえる。時間は今も動いていた。

「友達じゃないって、どういうこと?」

 ぼくはあらためて質問した。

「その通りの意味よ」

 藤咲さんはあっさりと言う。ぼくは納得できなかった。

「あんなに仲がよかったのに?」

「うーん、そうねえ」

 藤咲さんはちょっと困ったようにぼくのほうを見た。その顔は何だか、教科書の問題を理解できない生徒を見る先生のそれに似ていた。

「カバオくん、知ってるよね」

「え、うん」

「じゃあ、あの子が腎臓病だっていうのは?」

 ぼくはすぐには言葉が出てこなかった。

 それを見て、藤咲さんは窓枠に手をついたまま、ぼくのほうに体を向ける。

「あの子、ちょっと丸々した感じしてるでしょ? あれって、体のむくみなんだって。腎臓が悪いと、血液の処理がうまくいかなくてああなっちゃうのよね。だから別に、太ってるわけじゃないんだ」

「それ、本当のこと?」

 ぼくは馬鹿みたいなことを訊いた。

「もちろん」

 藤咲さんは皮肉っぽいような、いたずらっぽいような、ちょっと不思議な笑いかたをした。

「私はたまたま知ったんだけど、でも本人はそのことをみんなに知られたくないみたい。考えて見るとちょっと変だけど、わかるでしょ、そういうの。自分が病気だと、人から変な目で見られちゃうんじゃないかって」

「……何となく、わかる」

「でもみんなはそのことを知らないまま、ただ漠然とカバオくんのことを異物扱いしてる。はっきりわからないけど、自分たちと違うぞって。だから私がカバオくんと少し話をしてたっていうだけで、あの三人にはもう許せないのよ」

「口をきいただけで?」

「そう――。みんなはね、〝。それが善意だろうと悪意だろうと、自分たちと同じ嗜好、同じ考えをしないと、ね。そうじゃないと、その人はもう仲間じゃないってわけ。敵対者、裏切り者、異質物。でも私は、そんなのはごめんだな。窮屈すぎる」

「だから、友達はやめる?」

「ええ」

 それから藤咲さんは、ふと気づいたように自分の机のところに行って、何かを持って戻ってきた。

「この本、どんな話だか知ってる?」

 それはこの前ぼくが渡したゴールディングの『蝿の王』だった。

「ううん、知らない」

 ぼくは首を振った。

「アンチ十五少年漂流記、って言えばいいかな」

 本を見つめながら、藤咲さんは少し考えるように言う。

「舞台は第三次世界大戦中らしいイギリス。疎開するために飛行機に乗った子供たちが、無人島に流れつくの。子供たちは最初、みんなで楽しくやってるんだけど、やがて凄惨な殺しあいをはじめてしまう……」

「それで――?」

「二人の子供が死んで、島は炎に包まれ、子供たちは救出される」

 藤咲さんは笑顔でその本をぼくに渡すと、こう言った。

「また何かお薦めの本があったら、貸してちょうだいね」

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