3(凛香)

 部活が終わって家まで帰ってくると、部屋の扉が少し開いていた。といっても、ぼくがドアを閉め忘れたわけでも、誰かが勝手にドアを開けて入ってきたわけでもない。

 それは凛香が部屋にいるときの、一種の合図みたいなものだった。例の、屋根の道を通って凛香はやって来る。だからドアそのものは開閉されていない。窓にはいつも鍵をかけていないから、出入りは自由だ。ティンカーベルだって、施錠された窓からは入ってきにくいだろうから。

 ノックをしてから中に入ると(自分の部屋ではあるんだけど)、思ったとおりそこには凛香がいた。ベッドに机、本棚。いくつかの玩具が床に転がっていて、天井には昔お父さんにもらった星座のポスターが貼ってある。

 凛香はベッドのそばにある彼女専用の座イスに座って、足をのばしていた。手元には当然のように本があって、重力とか水の表面張力とか、そういう自然の力が働いているみたいに、凛香はページの上にじっと目を落としている。

 元々、そういうことは多かったのだけど、凛香は不登校になってからはずっとぼくの部屋で本を読むようになっている。そのための本棚も、読書用のイスも用意してあって、いつでもやって来れるように窓の鍵だって開いてる。

 どうして凛香がわざわざそんなことをしているのか、実際のところはよくわかっていない。手間だってかかるし、特に必要なわけでもない。でも気づいたら、いつのまにかそうなっていた。どっちの家の親も、そのことはあまり気にしていない。

「――おかえり、ノキ」

 と、凛香は本に目を落としたままで言った。彼女だけが、ぼくのことを「ノキ」と呼ぶ。そこには何となく、「呑気」と言いたそうな調子がいつもあった。

「うん、ただいま」

 机の上にカバンを置きながら、ぼくも返事をする。

 凛香は赤色をした細いフレームの眼鏡をかけていて、髪は長くのばしている。華奢な体つきで、運動はあまり得意じゃなかった。でも身長はぼくより少しだけ高い。子供の頃はそうじゃなかったけど、最近はほとんど家の中に閉じこもっている。

 部屋の本棚にはいっぱい本がつまっていて、それは全部凛香が読んだものだった。凛香はずっと本を読んでいる。それは冬眠前のリスと同じで、できるだけ知識を貯めこもうとしているみたいだった。やがて来る、飢えと寒さと暗闇に備えて。

 ぼくの部屋にあるとはいえ、その本棚の中にぼくが読んだ本は一冊もない。たまにページをめくってみることはあったけど、きちんと読んでみたことはなかった。凛香が説明するのや誉めているのを聞いて、きっと良い本なんだろうな、と思うくらいだ。前にも言ったとおり、ぼく自身はあんまり本は読まない。

 そんなわけで、凛香の推奨する本は大抵、藤咲さんのところへ流れていくことになる。ぼくはそのための、卸し問屋みたいなものだった。

 ぼくはカバンから勉強道具を引っぱりだして、予習復習にとりかかった。大体、それがいつもの光景だった。ぼくが宿題を片づけているあいだ、凛香は本を読んでいる。

「――そういえば、頼まれてた本借りてきたよ」

 宿題が一段落したところで、ぼくは言った。

「ん、ちゃんと学校の図書室にあった?」

 凛香は本を読んだままで言う。

「あったよ。『停電の夜に』でしょ」

「そう」

 ぼくは本を取りだして、凛香の横のベッドに置いた。凛香はちょっとうなずいてみせただけで、やっぱり本から目を離そうとはしない。

「あと、藤咲さんにあの本を渡したよ。ゴールディングの」

「うん」

「前に貸した本も、面白かったって。凛香には、本を選ぶ才能みたいのがあるのかな?」

 それからぼくは、学校であったことや、友達の話なんかをした。凛香は気のない返事をしたり、うなずいたりするだけだったけど、それでも二、三度は笑った。凛香が笑顔になると、きれいなガラス球がころころ転がるみたいな感じがする。

 ぼくは時々、どうして凛香は学校に行かないんだろうか、と思うことがある。そういう場所が嫌いだからだろうか? 居心地が悪くて、何をしていいのかわからないのかもしれない――

 でもそれは簡単な話で、ただみんなにあわせていればいいだけの話だった。先生の話を聞いて、友達といっしょに笑って、適当なことをしゃべっていればいい。

 それで、みんなが仲良くやっていけるように、世界はできているからだ。そういうシステムになってる。

 この世界はきっと単純で、みんながそのことに気づいて、それを守りさえすればうまくいく。問題は何もかも解決するし、悪いことなんて何も起こらない。みんなが笑っていられるし、傷つかずにすむ。凛香だって学校に行ける。

 ――ぼくには、そんなふうに思えた。

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