2(学校と日常)

 清志きよしくんが何かを言って、教室中がどっと笑った。ぼくはぼんやりしていて、どういうやりとりがあったのか聞いていなかったのだけど、みんなと同じように笑った。清志くんがその発端なのだから、何か面白いことを言ったのに間違いはない。

 今、ぼくたちは理科室で実験中だった。各班に分かれて、実験のための準備をしている。その説明で先生が何か注意して、清志くんがすかさず言葉を挟んだらしい。そういうのがとてもうまいのだ、清志くんは。

「……何かあったのか、ノブキ?」

 班の何人かが実験器材を取りにいっているあいだに、清志くんがぼくに話しかけてきた。

 ノブキというのは、ぼくのあだなみたいなものだ。ぼくの名前が吉秀信貴よしひでのぶたかというので、後ろを「キ」と読んで「ノブキ」と呼ばれている。小学校時代からの名残りなのだけど、いつ頃からそう呼ばれているのかは自分でもうまく思い出せない。

「ううん、別に何もないよ」

 ぼくは努めて平静に首を振った。でも、

「嘘だろ、それ」

 と、清志くんはにやっと笑う。

「さっきオレが何て言ったか聞いてなかったろ。わかるんだぜ、ちゃんとそういうの」

 まいったなあ、とぼくは思う。清志くんの言っているのは本当のことだった。表情とか声の調子だけで、清志くんはその人が何を考えているのかとか、どんな気分でいるのかとかを当ててしまう。

 仕方なく、ぼくは本当のことを言った。

「考えごとしてたんだ」

「へえ、ノブキでもそんなことあるんだな」

 清志くんは茶化すように言った。ぼくはすぐに抗議しておく。

「どういう意味?」

「怒るなよ、誉めてるんだぜ。普段のノブキなんて、人畜無害の見本で悩みなんてこれっぽっちもないって顔してるからさ」

「そんなことないよ」

 清志くんのおどけかたがおかしくて、ぼくはつい吹きだしてしまう。清志くんは得たり賢しといった表情で続けた。

「でも、誉めてるのは本当だぜ。一種の悟りの境地みたいでさ」

 清志くんはぼくと同じバスケットボール部で、ぼくとは違ってレギュラーになれるくらいにうまい。練習で1オン1をしても、ぼくが勝てることなんてほとんどない。背が高くて、格好がよくて、でもまわりのことにはよく気づくし、気配りもうまい。それからユーモアのセンスもある。もちろん、みんなの人気者だ。

 対してぼくのほうはというと、背は平均以下だし、特に格好よくもないし、子供みたいなやつだとよく言われる。でも清志くんはどういうわけか、ぼくと仲良くしてくれる。

 一度、清志くんの家に遊びに行ったことがある。洋風の、テレビに出てくるようなきれいな家で、お母さんが丹精したというガーデニングの庭があった。それから、見るからに賢そうなレトリーバーがいて、ぼくがなでているあいだもしっぽを振って大人しくしていた。

 清志くんは向かいに座っている女子に冗談を言った。彼女はおかしそうに手を振って笑った。清志くんが何かを言うと、誰だって笑ってしまう。きっと怒っている人も、泣いている人も。

 そうこうするうち、実験器具をもらいに行った生徒が帰ってきた。ぼくたちは顕微鏡を木箱から出して、プレパラートを用意するための作業にかかる。

 今日の授業は「細胞」の観察だった。植物を薄切りにして、染色液につけ、細胞壁や核や、そんなものを実際に確かめてみるのだ。

 ぼくは家から持ってきたピーマンにカミソリを当てた。皮のところをできるだけ丁寧に、薄く切っていく。形を崩さずケーキを切るときみたいに。

 何とかその仕事を終わらせたとき、「いたっ!」という声が机の向かいから聞こえてきた。見ると、カバオくんが表情を歪めて指を押さえている。カミソリが机の上に転がっていた。どうやら、間違って自分の指を切ってしまったらしい。

「おい、大丈夫かよ?」

 清志くんがすぐさま声をかける。

 カバオくんは黙ったまま、大丈夫というふうにうなずいた。ちょっと病的な感じの色の白さで、体がぽっちゃりしている。そんなカバオくんが大丈夫と言っても、何だかあまり説得力はない。

「ちょっと切っただけだから」

 そんな周囲の想像に気づいたのか、カバオくんは笑顔で言った。「押さえてれば、すぐに血はとまるよ」

「なら、いいんだけどな」

 清志くんはちょっと戸惑うように頬をかいた。

 カバオくんというのは、もちろん本名じゃなくてあだなだ。名前があつしというので、川と馬、つまり河馬でカバだ。でもそう呼ばれるのは、どちらかというと鈍重で、小太りの体型をあてこすられているところもある。

 指を怪我したカバオくんの代わりに、清志くんが作業に当たった。カバオくんが用意したのは大根だった。よく見ると、白い表面の一部に赤い染みができている。

「でもいいよな、カバオは」

 清志くんは木材の寸法を測る大工さんみたいな手つきで大根をためつすがめつしながら言った。

「え、何が?」

 とカバオくんはびっくりしたように言う。指はまだ押さえたままだった。

「オレさ、この前バスケの顧問に何て言われたと思う?」

「わからないけど……」

「お前みたいにひょろっちいと、センターは任せられない。もっと体重を増やせ、体重をって、そう言われた」

「……うん」

「でもさ、いくら飯食ったって、増えないもんは増えないんだよな。パワーをつけようと思ったら、重いほうが有利なのはわかるよ。当たり負けしないからな。でも人間、もって生まれた性質ってものがあるだろ。だからさ、オレもカバオみたいにちょっと太めのほうがよかったなって思うんだ」

 大根は薄く切られて、カバオくんに渡された。カバオくんは照れたように笑って、それを受けとる。こういう時のカバオくんの表情は水辺で気持ちよさそうに浮かぶその生き物に少し似ているな、と思ってしまう。

 染色液に浸された植物は、核や細胞壁がきちんと見えた。顕微鏡を操作したり、互いの顕微鏡をのぞいたりして、ぼくたちは賑やかに実験を続けた。

 先生がぼくたちのところに来て、一言二言いう。すると清志くんがうまく返して、近くにいた生徒たちは笑った。お手玉でもできそうなくらい和気藹々とした空気で、どこにも結び目のない時間が過ぎていく。

 ――世界はこんなにも簡単に、幸福になることができた。


「あ、ノブキ、ちょっといいかな?」

 声をかけられたのは、昼休みのことだった。ぼくは用事があって図書室に行こうとして、ちょうどイスから立ちあがったところだった。

 後ろを振り向くと、そこには藤咲さんがいた。藤咲千和ふじさきちかずさん。髪の短い女の子で、いつもみたいに溌剌としている。水たまりを勢いよく跳ねとばして、そのまま走ってきたという感じだった。

 教室にはあまり人は残っていなくて、賑やかな声だけが遠くから聞こえる。音はくぐもって、形がはっきりしない。まるで大きな金魚鉢でもかぶせられたみたいだった。

「どうかしたの、藤咲さん?」

 藤咲さんの用事は何となく想像がついたけど、ぼくは訊いてみた。

「これ、この前借りたやつね」

 そう言って、藤咲さんは一冊の文庫本をぼくの前に差しだす。

「面白かった?」

 ぼくは本を受けとりながら訊いた。

「うん、面白かったよ。さすが森さんが選んだだけはあるね」

 森さんというのは、もちろん凛香のことだ。藤咲さんとは直接の面識はないけど、お互いのことは知っている。前に一度、ぼくが凛香のことを話したことがあって、それでつながりができていた。凛香がよく本を読んでいると伝えると、じゃあ面白そうなのを貸してよ、と頼まれたのだ。

 凛香が学校に来ることはないので、ぼくがその窓口というか、仲介役になるのだった。

「今度もまた、何かお薦めの本を貸してもらっていいかな?」

 藤咲さんは努めて遠慮がちな声で言う。それは何だか少し、猫が甘えるときの感じに似ていた。

「だったら、凛香から預かってる本があるよ」

 ぼくは机の中をかきまわして、その本を取りだした。

「――『蝿の王』?」

 タイトルを見て、藤咲さんは顔をしかめる。

 著者はゴールディング。イギリス人らしいけど、ぼくは詳しいことは知らない。

「面白いの?」

「ぼくは読んだことないから、わかんないよ」

 凛香と違って、ぼくはあんまり本は読まないのだ。

「ふうん」

 藤咲さんは本の表紙を見ながら言う。そうしたって、中が透けて見えるわけでもないだろうけど。

「とにかく、読んでみるよ。森さんセレクションだしね」

 その時、ぼくの後ろから「ちーかず」と言って藤咲さんを呼ぶ声が聞こえた。見ると、女子が一人こっちに歩いてきている。

「千和、購買行こうよ、購買」

 彼女は藤咲さんの腕を抱えこむと、子供みたいにそれを振りながら言った。

「わかった、わかったからくっつくなって」

 藤咲さんは苦笑する。

 でも彼女は腕を離したりしようとはせず、「だってー」と拗ねたような声を出した。向こうを見ると、他にも女子二人が藤咲さんを待っているみたいだった。彼女たちはクラスの仲良しグループなのだ。

「いっしょに購買行くって約束したじゃん。千和がいないと寂しくなっちゃうよ」

「ちょっと先に用事を済ませてただけだから。心配しなくてもあとで行くよ」

「だめー、今じゃなきゃだめなの」

「まったく、困ったお嬢さんだな」

 藤咲さんは肩をすくめてみせる。

 女の子は再び、「だってー」と繰り返した。藤咲さんが仕方ないな、というふうにその頭をなでると、彼女は「えへへ」という感じに笑った。

「――じゃあまあ、そういうわけだから。私はもう行くわ」

 藤咲さんはぼくに向かって軽く手を振ると、女の子に連れられるようにして行ってしまった。

 ぼくも一応、手を振ってみるけど、彼女がそれに気づいた様子はない。教室を出て行く途中、呼びに来た女の子は藤咲さんの持っている本を見て、「何それ?」と訊いた。「何か怖そう」と言ってるのも聞こえる。

 やがて彼女たちが教室からいなくなってしまうと、ぼくも最初の予定通り図書室に向かった。凛香から本を借りてくるよう頼まれていたのだ。

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