後編 再会とブルーチーズ

「ワインに合うおつまみは豆とか生ハムとかありますがね。僕のおススメは断然チーズですよ」


 春一番が客足を吹き飛ばしていった日、僕と更科さんは弁当売り場で喋っていた。例の取り置き以来、少し世間話をすることが多くなった。今日はうちの店で最近チーズに力を入れ始めたせいでこんな話になった。


「チーズ、ですか。いろいろありますよね。モッチェレラとか、クリームチーズとか」


 ビニール袋にお弁当を入れながら更科さんが答えてくれる。今は他のお客さんはいない。手慣れた手つきだ。細くて長い指が華麗に舞う。


「そう。モッチェレラはスパークリングワインですね。ワインって甘いワイン、酸味のあるワインと色々あって、それに応じてチーズにも相性があるんです。甘口のデザートワインにはブルーチーズ。ロゼにはシェーブルタイプっていうヤギで作ったチーズが良いんですよ」


 お釣りを受け取りながら、僕が熱弁をふるっているのを更科さんは目を丸くして見ていた。子供が新しいゲームを持っている友達を眺めてるみたいな表情だ。なんだか、こそばゆい。


「チーズって、いろいろあるんですね。そう言えば、ブルーチーズって青カビのやつですよね。どうやって食べるんですか」

「青カビはチーズみたいなタンパク質に生えた場合は、毒がすぐ分解されちゃうみたいですよ。なんで、そのままでOKです。実は、最近チーズコーナーができて、調べてびっくりしたんですけどね」

「ですよね。あれ食べるってちょっと勇気いりそうです」

「いや、あれが結構美味しいんですよ。コクがあって、ハチミツかけたら相性抜群」

「チーズにハチミツ!?」


 素っ頓狂な声を出した彼女に来たばかりの客が声をかける。それに合わせて僕のほうは退散した。彼女と話したのはこれが最長じゃなかろうか、最後の表情が無防備で可愛かったな。そんなことを考えながら、職場に戻る。この日のお弁当はブリの照り焼きだった。


 彼女とはこの後も色々話した。その中で彼女自身のこともちょくちょく話に出てきた。大学では国際学科にいること。趣味はサイクリングであること。実家暮らしなので、家事を色々手伝わされて大変なこと。去年シンガポールに行ったら、思いの他マーライオンが小さくて残念だったこと。


 僕らはお互いのことをゆっくりゆっくりと知っていった。周囲を取り巻く空気は少しずつ暖かくなり、桜はつぼみを膨らませる。僕はそんな中、作業中にヒョコヒョコ動く彼女のポニーテールを眺めて満足していた。


 四月に入り、元号発表で世間がなんとなくざわついていたころ、僕の日常も変わってしまった。新入社員の研修に付き合っていたせいでなかなか立ち寄れず、しばらくぶりになってしまった、あのお弁当屋に行ったとき、店頭にいたのは小太りの店長だった。


「あの、更科さんは……」

「ああ、あの娘はね。無事に大学卒業して、就職したよ」


 朗らかに、我が子のことのように嬉しそうに答える店主に何と言ったのか、全く覚えていない。手や足の感覚が抜けて、世界がスーッと遠ざかり。気が付いたら、職場でお弁当を広げていた。焼き鮭とカニクリームコロッケ。味なんかまるで分らなかった。ただ、視界が滲むだけ。


 **********


 今はレジ打ち中だというのに、つい物思いにふけってしまった。更科さんがバイトを辞めてから一月以上が経つ。習慣というのは恐ろしいもので、今でも僕はあのお弁当屋に通っている。


 最初の頃は毎回心をジワリと締め上げる感覚がしたものだが、時が経つにつれ、それは弱まり、頻度も下がった。辛さから解放されたが、そのことが無性に悲しかった。僕の想いはその程度だったのか……。


 どうして、あんなにもあっさり終わってしまったんだろう。その答えは簡単。臆病だったからだ。欲しいものには手を伸ばさなくてはいけなかった。どうして、そんなことに気づかなかったのか。


 今更な後悔に囚われていた僕は知らぬ間にうつむいていた。その目の前に透明な袋に入ったチーズが置かれた。白地に青いまだら模様。ブルーチーズ。


 慌てて、バーコードを読み取り値段を告げる。改元セールのお買い得品だ。


「440円になります……あれ?」


 客は若い女性だった。背筋が伸びて、皺のないスーツを着こなし、髪は艶のあるロングヘアー。しかし、彼女は。磁器のように白い肌。涼しげな瞳に、からかうような微笑を浮かべた彼女は。


「更科、さん?」

「はい、やっと気づいてくださいましたか」


 そう言って、懐かしい笑顔を浮かべている。だが、僕はあまりの唐突さに、手を止めて呆けたようにその顔を見るだけだった。


「どうして」

「旅行代理店に就職して、帰り道のそばなんです。秋本さんの職場の近くだなって思ったら。ブルーチーズのこと思い出して。すごく熱心に語ってたから。トライしてみようと」


 屈託なく笑うその姿に、じんわりと心が温かくなる。あんなに前のことを覚えていてくれたなんて。本当に、人のことをしっかりと見てくれている女性だ。なんて素晴らしい人なんだろう。


 小銭を受け取り、紙袋にチーズを入れてレシートを渡す。かつてと逆の立場になっているのは、なんとも不思議だ。


「ありがとうございました」


 丁寧にお辞儀をして送り出す。彼女が歩き出しお店から出ていく。また、こうして会えるなんて奇跡みたいな贅沢な出来事だ。神様がもしいるとしたら、何度でも感謝の言葉をささげたい。


 自動ドアが開き、彼女が出ていく。ガラスの反射で一瞬その姿が見えなくなったとき、奇妙な感覚に襲われた。世界がわずかに揺らぐような。今あるこの瞬間が、突然霧のごとく当たり前に消える、そんな感覚だ。一月ひとつき前、彼女がいなくなったと知った時に感じた感覚。


 これでいいのか。僕自身の声が聞こえた。このまま前と変わらない関係で、唐突に彼女がいなくなっても良いのか。


 ふらりとカウンターから抜け出ると、彼女を追っていた。


「あの」

「はい?」

「もし良かったら、今度はワインとの組み合わせはいかがです? おススメがいっぱいあるんです。好みを教えてもらえたら、最適なのを考えるので一緒に試してみませんか」


 、というのが僕の込めた想い。それに気づいたのか、更科さんは唖然としていたが、ゆっくり手を口元にあてて考え込んでいた。これは、ダメなのかな。そう思って緊張していた。彼女の声が、そっと指から漏れ聞こえてくる。


「そうですね。 ……お願いします。社会人になって、ちょっと大人っぽいことしてみたかったんで」


 おどけた仕草で、また来ます、と言って彼女は帰っていった。僕は安堵のため息とともに、もう一度頭を下げた。さて、チーズとワインは何が良いだろう?

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きみに会うための440円 黒中光 @lightinblack

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