きみに会うための440円

黒中光

前編 出会いと日替わり弁当

 僕はカウンターの中でぼんやりと店内を眺めていた。正面にある列にはワインやコーヒーの袋が並び、隣には世界各地のチーズが揃えてある。


 今の僕はカッターシャツに黒いエプロン姿。ここは輸入食品店で、入社三年目だ。仕事にもとっくに慣れているせいで、ピークが過ぎてしまった時間帯は手持ち無沙汰になってしまう。


 そんな時にぼんやり昔のことを思い出してしまうことは、誰しもよくあることだ。僕の場合は二月ふたつきほど前のことだった。たぶん理由は、今日食べたお弁当のせいだろう。焼き鮭とカニクリームコロッケ。


 あの売り場に立っていた彼女は、もう僕の人生に交わることがない。そう感じると、やるせなさと後悔が胸の奥で混じり合う。どうして、もっと自分から動かなかったのか、と。


 **********


 三月上旬。桜も固いつぼみをつけているその時期に、季節外れの暑さがやってきた。屋外の短い列に並んでいた僕にも強い日差しが照り付けて、額にじんわりと汗が浮かんでいた。


 この列は職場近くにある弁当屋が出しているお弁当を求めての行列だ。小さなお店なので、ヴァリエーションが多いわけではないが、安くてボリュームがあって、旨い。さして、給料の高い身分ではない僕にとってはありがたい存在だった。一番人気は日替わり弁当。


 自分の番が来て、今日の品目を確かめる。弁当の中身は……唐揚げと出汁巻き卵か。ここの出汁巻はちょっと塩気が合って好きなんだよな。うん、上出来だ。一つ手に取って、店員に渡す。


「440円です」


 更科と書いたネームプレートをエプロンにつけた店員がハキハキした声で告げた。ポニーテールの、目元が涼しげな美人だ。この日差しなのに、肌は磁器ように白い。彼女は釣銭のないように渡した小銭を受け取ると、手早くビニール袋にお弁当と割り箸を入れた。見事な手さばき。優秀、優秀。


「ありがとうございました」


 彼女が袋を渡したとき、やわらかい指がかすかに僕の手のひらに触れた。ドキッとする。25歳にもなって、たったこれだけで動揺するとは。ちょっと情けない。でも、あの長くて細い指に触れられただけで嬉しくなる。僕は単純かもしれないが、純粋なのだ。


 僕は列から離れると、ビニール袋片手に来た道を戻る。先ほど彼女が触れた手を見つめてため息をつきながら。


「今日も、ダメか」


 僕が毎日ここに通うのは、もちろんお弁当の味が良いのもあるが、最大の理由は更科さんだ。


 普段お昼ご飯は、コンビニで買ってきたり駅前のパスタのお店で済ませていた僕が小さなお弁当屋に足を向けたのは、二月に入ったころだった。


 コンビニによりそこね、パスタが定休日だったために場所だけ知っていた弁当屋に向かったわけだ。そして、そこに売り子として立っていたのがバイトの更科さん。


 背筋がしっかり伸びて、うっすらと茶色に染めた髪色と相まって、元気いっぱいな彼女に、一目ぼれした。今までそんなこと実際にあるのかと勘ぐっていたのに、一瞬だった。


 それ以来、これまでの習慣を変えて雨の日も風の日も毎日通っているのだが、どうやって距離を詰めればいいのか分からない。会話がなければどうしようもないが、普通、客に個人的なことを聞かれたら引きそうだ。地元のおばちゃんとかならともかく、二十歳そこそこの女性相手にはなあ。引かれたら本気で立ち直れない気がする……。


 そんな僕らの距離がほんの少し、十分の一歩ほど進んだのは三月の半ばくらいのことだった。


 その日は昼前に急な品出しがあって、お昼休憩が遅れてしまったのだ。慌てて弁当屋に駆け込んだが、いつもお弁当が積まれている台は空っぽになっていた。更科さんは台の上に敷いてあったテーブルクロスをたたんでいるところだった。


「はあぁ、やっちゃった」


 唐突に全力疾走して乱れた息を整えながら店のほうに視線をやる。僕が来ると同時に更科さんは奥に引っ込んでしまった。仕事も一段落して彼女も休憩なのだろう。せっかく走ったのに報われない気持ちに落胆しながら店内に入った。日替わり弁当以外もほとんど売れてしまっていた。残っているのは、山菜ごはんとミートソースのパスタくらい。美味しそうではあるが、小さめで量が足りなさそうだ。


「あの……」


 どちらがマシだろうと考え込んでいると急に後ろから声をかけられた。いつの間に戻ったのか、カウンターに更科さんが立っていた。


「日替わり弁当、取り置いておきましたけど」

「えっ、わざわざ?」

「はい。あ、その。他のがよろしければそちらから選んでいただいても――」

「いえ、日替わり弁当、いただきます」

「ありがとうございます。440円です」


 小銭を出す手がなかなかうまく動かなかった。手がしびれたように感じる。思ってもいないことだった。彼女からすれば、僕は何人も来る客のうちの一人。特別なことなんか何もないはずなのに。わざわざここまでしてくれるなんて。


「ありがとうございました。とっておいてくださって」


 お弁当を受け取りながらお礼を言うと、彼女は小さく笑った。その前のちょっと驚いた仕草が愛らしい。普段は美しいという感じの彼女には珍しい。嬉しい発見だ。


「お客さん、毎日、雨の日もいらっしゃってたから。ここまでしてくださる方、珍しいですし、覚えちゃいます。だから、今日も買いに来られるだろうな、と思って」


 ここはお昼時になると店の前に特設の弁当売り場を出す。小さな店内で売るよりも客の動きがスムーズになるからだろうが、反面屋根がないせいで雨の日は客足が遠のきがちになる。まあ、僕の場合動機が動機だったので多少不便でも気にしなかったが、確かに言われてみればちょっと目立っていたかもしれない。


「これからも、よろしくお願いします」

「はい、また来ます」


 朗らかな彼女の声に押されて店を後にする。職場に戻ってから食べたお弁当は、普段よりも冷めていたが、普段の倍以上に美味しく感じられた。

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