忘却領域
犬を探している。
朝起きると、犬を探す。朝食の時も、椅子の下を覗いたり、皿の下を覗いたりして、犬のことが頭から離れない。服を着替えながら、洋服箪笥の中を端から端まで見遣り、歯を磨きながら、風呂場に犬を探す。ようやく出かける段になっても、靴の中や鞄の中に犬を探す。
ただ、どんな犬だったのか、全く思い出せない。
屋外に出ると、犬の捜索のことをすっかり忘れる。ただ、帰宅したら犬を探さなければならない、という義務感だけは残っている。そう決まっている。誰が決めた?いつの間にか、私は犬を探さざるを得なくなっている。本当に犬を探す必要があるのか?しかし焦燥感が、私を犬探しへと駆り立てる。ここでゆっくりと、靄の向こうから、疑問が頭をもたげる。
本当に犬を飼っていたのだろうか。
そんな疑問は犬を探さなければならないという衝動に掻き消される。
「私、帰ったら犬を探さないといけないんです」
「それはどうして?犬、飼ってたっけ?アパートだよね?」
「飼ってたかどうかはともかく、私は犬を探さないといけないのです」
そう言うと、先輩Aは異質なものを見るような目で笑った。
「実は私もそうなんです」
「え、そうなんですか?あの、犬は?」
飼われてるんですか?を省略した。
「飼っていたかどうか覚えていないけど、探さなきゃいけない気がして」
「居るんですか?」
「それが、どこにも居ないんですよ」
「私の所もそうです」
お互いに苦笑した後、私はハッとしてこう言った。
「もしかして最初っから居なかったのでは?」
先輩Aは肩をすくめた。
「それが簡単に証明できたら苦労しないよ」
会社の先輩も、同僚も、後輩も、みんな疲弊していた。家で散々犬探しをしていたからだ。犬が居たかどうかも、覚えていないのに。
「最近家で犬を探してて寝不足ー」
「分かる。あたしも犬探してるー」
昼休み、弁当をつつきながら同僚Bは口を尖らせそう言った。
「でも見つかんないよねー」
「なんでかなぁ?早く見つけないと!って焦っては居るんだけど」
そう言えばさ、と同僚Bはフォークをこちらに向けたまま喋る。
「仕事遅れそうになりかけて慌てて遅刻の連絡したら、上司も犬で遅れるって」
友人Bはそう言ってげらげら笑った。
「あ、犬実際に飼ってる子も、やっぱり居もしないはずの犬を探したくなるらしいよ」
あれ、でもやっぱり居るんだっけ?居ないんだっけ?と友人Bは独り言を言いながら悩んでいた。
✿✿✿
「犬を探さないといけない衝動に駆られる…なるほど」
休みの日、頭のいい友人Cに話を持ちかけた。
「犬を飼っている事実は?」
「…わからない。購入した記録がどこにもない…餌代も何も支払ってないし」
「じゃあいないんだよ」
友人Cはバッサリと言い切る。Cはいつだって自分に自信がある。だが私の不安がそれで消えることはない。
「でも本当は全部切らしてて、買いに行く途中で私が記憶を失っててこういうことに、っていうことはないの」
「そう言われると…」
友人Cは首を傾げる。
「私、やっぱり家の中に犬がいてそれを探さないといけない気がする」
「それって飼ってたの?頭に侵入されたの?」
「…どっちなんだろう…?」
「全部妄想なんだよ」
いい加減分かりなよ、とでも言いたげに友人Cは私を睨む。
「でも職場の人も、高校の友達もみんな家で犬探してるって言ってたよ!」
「何?私が知らない所でやってる何かのキャンペーン?」
「いや…ただそうせざるを得ない気持ちにさせられてるだけで」
友人はあんぐりと口を開けた。
「分かった」
「あんたの認識領域に、犬が侵入したんだ」
「は?」
友人Cの仮説はこうだった。
犬という実体を持たない存在を皆が必死に探している理由、それは実体無き犬が、人間のワーキングメモリに侵入し、必要のない仕事をさせている。実体無き犬は感染し、人は犬の存在を確認するよりも前に、存在しているという前提で捜索を行なってしまう。
「犬は、精神に感染してどんどん伝染していくんだ」
「Cは犬、探さないの?」
「あたしはそういうの、無い」
「ええ?なんでだろう…」
「あたし昔、犬飼ってて、既に亡くなってるけどまた新しく飼い始めたから」
「ということはつまり?」
「喪失感が人よりも小さいんだと思う。みんな何か喪失感を感じてるんだ。そこに目をつけた実体無き犬が、ここぞとばかりにその本来喪失感を抱く対象の部分にすり変り、みんな犬を探さざるを得なくなった」
息巻いて語る友人Cの仮説を、私は黙って受け入れた。そういうものなのだろうと。自分で思考できないなら、それ以上反論する必要もないのだった。何だか頭がいいんだろうな、とだけ思った。
第一、犬を探さなくてもいい人がいることが不思議だった。喪失感さえ埋まってしまえば犬に侵入されなくて済んだ……いや、喪失感のない人なんて居るのかな。現在に少しは満足しているけれど、漠然とした未来、未練がないと言われれば嘘になる過去の選択。どこかで失われていく選択肢。そういう意味で、喪失感が埋まる自信なんてなかった。いつだって迷わないCのようには、なれそうにない。
私はCの元を離れ、家路についた。そう言えば、Cの犬ってどんななんだろう。今度見せてもらおうかな。
ああまた、犬を探さないといけないなぁ。頭は犬のことでいっぱいだった。犬が精神世界から溢れかえろうとしていた。
犬を。犬を。
犬を。犬を。犬を。
犬を、探さなければ。
❀❀❀
Cと犬は二人っきりになった。
「ごめんねジョン、嘘ついて」
Cは傍らに居た犬に語りかけた。
「本当は、いっぱいいっぱいなのに」
Cは先ほどまでの自信ありげな態度を完全に失っていた。
「ねぇ、ジョンはすごい力を持ってるのかな?他の人も同じ目に合ってるはずなのに本当に犬に会えた人はあたし以外いないみたい」
そう言うと、Cは傍らの犬に抱きつき、頭を撫でて、可愛がった。
「生き返るって、本当なんだね…」
犬は微動だにせず、Cに抱きつかれるままでいた。いや、Cでない人間にとっては、犬とは呼ばない方がいいのかもしれない。見るからに『それ』と呼ぶにふさわしい。『それ』は時折震えて、呼吸をせず歌いはしないが、聞き慣れない不思議な音を出した。犬と呼ぶには、大きすぎるような、小さすぎるような。おそらく、Cでない人間が『それ』を見た時に、人は語る言葉を持たない。『それ』が何だとも、人間の知識からは導き出せない。
『それ』は犬の形をしていなかった。
『領域』シリーズ 伊嵜 寝眼 @isakisleepyeye
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