後編


 彼女に親身に接している途中で気付いたことだった。

 そして判断を間違えたかもしれないと後悔した瞬間でもある。

 彼女に耐えさせるのではなく、もっと他の方法があったのではないか、と。

 けれど何度考え直しても、これ以上に良い方法を思い付くことが出来なかった。

 綱渡りの綱をわざわざ切るような真似をすることは無理だ。

 一方でフィルクはイオレットの言葉が理解出来ないとばかりに、


「イ、イオレット。何を馬鹿なことを――」


「――殿下。立場が上の人間に囲まれて逃げられない上、許可なく触れてくる。わたくしでさえ恐怖を覚える光景で、男性不信になっても仕方ないと思いませんか?」


 触れることを許可していないのに触れられる。

 逃げたいと思っているのに、立場故に逃げられない。


「そこの魔法士長の子息などは、無理矢理に抱きついていますので余計に最悪だと申しましょう」


 何の懸想もしていない男性に抱きつかれるのは、気持ち悪い以外の感情は思い浮かばない。

 だというのに魔法士長子息はあり得ないとばかりに否定した。


「そ、そんなことない! だってマリアンナは笑顔を浮かべて喜んでくれたんだ!」


「引き攣った笑いをかろうじて浮かべただけなのに、喜んでいたと勘違いするとは随分おめでたい頭をしておりますわ」


 褒めるべきはマリアンナだ。

 彼の気分を害さないように、無理矢理に笑みを浮かべる。

 普段の彼女の笑顔と比べればどうしようもなく不自然だが、彼らはその笑顔しか知らないのだから、気付かないのかもしれない。

 とはいえ彼女の表情が強張っているので、普通は気付くのだが。


「マ、マリアンナ! 違うよね!? 彼女が言っていることこそ間違ってるんだよね!?」


 認められないのか、それとも周囲のあまりの言われように無意識で気付いてしまったのかは分からないが、魔法士長の子息はマリアンナに縋るような言葉を発した。

 だがマリアンナが怯えたように震えた瞬間、ミレイとミュースが強く抱きしめる。

 さらにはイルが安心させるように少し近付いた。

 イオレットの末弟が近付いたことに気付いたマリアンナは、ほっとしたような表情を浮かべる。


「……イル様」


「大丈夫ですよ、マリアンナ嬢。姉上は私に『いつも通りにしろ』と、そう言いましたから。だから私達はいつも通りに言葉を交わしましょう」


「……はい。ありがとうございます」


 安心させるような声音にマリアンナは頷きを返す。

 だがフィルクや壇上にいる人間にとって、二人のやり取りは想定外のようだった。


「ど、どうしてマリアンナとイルが知り合いなんだ?」


「わたくしの末弟を使って、男性が怖くないことを教えていたからですわ」


 男性恐怖症に近いものを発症したマリアンナを、まず医者に診せた。

 すると医者からは区別することが大切だと言われたのだ。

 彼らと他の男性は違う、ということを。

 だからイオレットは末弟を使って男性とは全て怖いものではない、と細心の注意を払いながら教えていった。


「だが君の言い分ではイルはマリアンナに恐怖を与えるはずだ! やっぱり君はマリアンナのことを――」


「殿下や皆様と同じなど思わないでくれますか。末弟がマリアンナの許可なく指一本、髪一筋でも触れるわけがないでしょう」


 イオレットはイルに対して、紳士的に接しろと伝えた。

 触れることなど論外で、もし触れることがあるとしたら危機が迫った時か、彼女が望んだ時だけ。

 そしてイルは姉から言われた通り、マリアンナに触れることはしなかった。

 お茶会をしながら、庭園を散策しながら、言葉だけを交わして彼女を安心させた。


「おかげでマリアンナは男性が怖いのではなく、皆様が怖いのだと理解出来ました」


 イルはよくやってくれた。

 マリアンナも段々と回復していった。

 彼女からイルと普通に話せるようになったと嬉しそうに言われて、安堵したことをイオレットはよく覚えている。


「そもそも矛盾に気付かないなど愚の骨頂。マリアンナのことを見ていない、と声高に叫ぶ行為は哀れみさえ覚えますわ」


 彼らの言い分にはそもそも、間違いが存在している。

 どうしたって語っている人物像と実際のマリアンナにずれが生じている。


「わたくし達のように汚れておらず純真にして清純。それが皆様のマリアンナに対する評価でしょう?」


「そ、その通りだ! 君と違って彼女ほど清純な女性を私は他に知らない!」


 フィルクが大きな声で肯定するが、イオレットは馬鹿馬鹿しいと一笑する。


「だとしたらマリアンナが婚約者のいる殿方と、不純な関係を望むはずがありませんわ」


 当たり前だ。

 しかもフィルクに至っては王家の人間。

 不敬と言われてしまえば、それだけで家がもろとも没落してしまう。


「しかし私は彼女に真実の愛を見つけたのだ!」


「だから都合良く解釈しないでいただけますか? 真実の愛に不貞はございません。故に清純なマリアンナが望むわけもありません」


 真実の愛を見つけたのはいいが、手段がおかしい。

 どうしてこのようなことをするのだろうか。


「正しい手段は婚約解消することではありますが、それだとマリアンナが選ばれることはないでしょう。一番良い手段は廃嫡となり、市井に下ることです」


 でなければマリアンナと婚約することも、真実の愛を語り合うことも出来ない。

 普通に考えれば立場を捨てなければ彼女と愛を語らう場所に到達できないのに、どうして未だに彼らは立場を捨てずに持っているのだろうか。


「とはいえ前提としてマリアンナが皆様のことを好いていないので、無意味な話ではありますが」


 やることなすこと理に適っていない。

 夢を見ているだけで、現実を見ていない。

 だからマリアンナから好かれることもなく、マリアンナとの将来のために動くこともしていない。


「それでは話をまとめるとしましょう」


 とりあえず、語るべきことは語った。

 これほどやれば、壇上にいる人間がどれほどの立場を持っていたとしても、周囲の人間が一緒にマリアンナのことを守ってくれるだろう。

 マリアンナが最後の最後に学生らしい生活を送る、というイオレットの考えに沿うことが出来る。

 なのでようやく、イオレットは結論を伝え始めた。


「わたくしに婚約破棄を申し出たことは受け入れましょう。このようなことをなさっては、家同士の約束であっても醜聞には違いありませんので。問題なく破棄できると思いますわ」


 というか、こんなことをしでかして継続するわけがない。


「そしてマリアンナと婚約したいのであれば、フェイタル家を通してお願いします。当然こちらは拒否しますので、ご承知のほどを」


 と、ここで誰もが想定しない発言をイオレットがした。

 当然、フィルクも理解が追いつかない。


「どうして君の家がマリアンナの婚約を決められるんだ!?」


「最初に守る準備が出来たと言ったでしょう。領地支援等、色々と口出しする提携をしただけですわ」


 イオレットは公爵である父にマリアンナの実家であるモント男爵領について、関係を持たせたことによるメリットを語った。

 さらに彼女の窮地と、それを見逃しては公爵家の名折れとも伝えれば、正道こそ貴族と考えている父もマリアンナに対して同情的になった。

 さらにはフィルクの醜態を聞くと、婚約解消するために着々と準備を進めていた。

 元々はフェイタル公爵家が後ろ盾となり、フィルクを王太子とするために結ばれた婚約。

 別にこちらから望んだことではない。

 この展開になれば嬉々として解消を陛下に進言するだろう。


「我々がした提携にはマリアンナの婚約者はフェイタル家が認めた者でなければならない、と。そのような誓約も入っております」


 提携の話を持って行った時、モント男爵はイオレットからマリアンナの窮地を聞くと、顔が大層青ざめていた。

 だからこそフェイタル家の助け船に、藁にも縋るように頷いた。

 しかしフィルクが彼女達の事情を知るわけがない。


「ど、どうしてそんなことを!?」


「男爵家が権力を笠に着た子息達に迫られたら、どうにもならないからですわ」


「マリアンナを縛り付けるつもりか!?」


「勘違いなさらないで下さい。フェイタル家が認める相手とは、マリアンナが望んだ者。王族であれ貴族であれ平民であれ、彼女が望んだのならばフェイタル家は認めましょう」


 爵位で選ぶことはなく、立場で弾くことはない。

 これはマリアンナを守るために誓約したことだ。

 イオレットの言い分に対して、ほのかに嬉しそうな気配を醸し出す壇上の四人。


「だからといって皆様のことは認められませんわ。わざわざマリアンナを不幸にする愚かな選択をわたくしはしません」


 先ほどから思うことだが、彼らはイオレットの言葉を都合良く受け取っている。

 彼女の反論で耳が痛いことは流し、僅かでも利益があることは耳に入れる。

 未だマリアンナが彼らを嫌っていないと思っているのだから、本当におめでたい。

 と、その時だ。

 彼らの甘い考えを強制的に終わらせる出来事が起こる。

 パーティー会場の扉が開いて、とある人物が入ってきたからだ。


「随分と面白い出来事になっているみたいだね、イオレット」


「……フィンド殿下? どうしてこちらへ?」


 そう、現れたのはこの国の第一王子。

 愚かな第二王子とは違い、優秀だと賞賛されている。

 入ってきたフィンドはイオレットを一瞥すると、壇上にいる四人に視線を向けた。


「一つはそこの馬鹿が君を怪我をさせたことについて、裏付けが取れたこと。要するに暴行罪で捕まえに来たんだよ」


 彼の背後には近衛騎士がいるのは、護衛と同時に捕まえに来たのだろう。

 だが、ぎょっとした様子で声を荒げたのは当事者である騎士団長子息だ。


「何故ですか!? イオレット・フェイタルはマリアンナを――っ!!」


「突き落としていないんだよ。証人もいれば、突き落とす理由もない。加えてマリアンナ自身が証言しているんだから、彼女を犯人とするには無理がある」


 笑えるほど簡単に事情が分かった。

 むしろ分からないのは、遠巻きに噂話を耳にする程度の他人ぐらいだ。


「そもそも本人達も、互いの親も、大抵の人間は二人の仲は良いと認識しているんだよ。君達の周囲以外でイオレットがマリアンナを敵視している話は聞かない。それだけでどちらを信用するか分からないのかい?」


 そう言ってフィンドは騎士団長子息を捕まえる指示を出した。

 近衛騎士は問答無用で近付いて彼を掴むと、そのままパーティー会場の外まで連れ出そうとする。

 捕まった当人も壇上にいた他の三人も騒ぎ立てたりはするものの、他に誰も協力する者がいないのだから無駄なこと。

 騎士団長子息は引き摺られながら、会場から連れ出されてしまう。


「兄上、どうして!?」


 フィルクが声を荒げながら問い掛けると、フィンドは肩を竦めた。


「言った通りだよ、フィルク。彼は罪人だから捕まった」


「だけどそれは――」


「――せめてお前達の言い分が正しければ、違う対応を考えたかもしれない。けれど間違いだと伝えた以上、情状酌量の余地なく彼は罪人だよ」


 フィルクの言葉を遮ってフィンドは伝える。

 彼らの言葉は事実ではない、と判断された。

 いくら王太子の言葉とはいえ、どうにもならないことだ。


「もう一つ。お前がイオレットに対して婚約破棄を申し出た、ということを聞いた。それは本当かい?」


「その通りです。私は真実の愛を見つけました」


「真実の愛がこの際、何かは問わないよ。けれどお前が今、王太子となっているのはフェイタル家の後ろ盾があってのこと。つまり王となる権利を放棄したことになるけれど、それでもいいのかい?」


 問い掛けに対して、フィルクは驚いたように目を見開いた。

 フィンドは弟の様子に嘆息してしまう。


「どうやら、そこまで考えていたわけではなかったようだね」


 王となるにはやはり、考えが足りていない。

 もちろん周囲が支えれば凡才なる王であっても問題はない。

 だが側近の候補となる人物達が揃いも揃って愚かなのだから救いようがない。


「イオレット。愚弟が申し出た婚約破棄を受け入れたのは本当かい?」


「本当ですわ。わたくしは婚約破棄を申し渡され、受け入れました。家同士の話であれ、これほどの醜聞であれば問題なく婚約破棄は成立するでしょう」


 単純に事実を答えるイオレット。

 するとフィンドは僅かに頬を緩めて、


「であれば、私の婚約者になってくれないかな?」


 優秀と称される第一王子のプロポーズ。

 今まで婚約者がいなかったのも、そういうことかと周囲は色めき立つように声を漏らしたが、イオレットは驚いた表情を一つも浮かべなかった。


「フィルク殿下がこのような事態を引き起こした以上、フェイタル公爵家が後ろ盾にならずとも王太子は貴方様になりますわ」


「そういうことでないんだよ。ただ単純に君が欲しいんだ」


 紛うことなき第一王子の求愛。

 けれどイオレットは間髪入れずに頭を下げた。


「申し訳ございませんが、お断りさせていただきます」


 考える素振りすら見せなかった公爵令嬢に、むしろ周囲が驚いてしまう。

 フィンドに愛の言葉を告げられるなら、ほとんどの女性は頷きを返すだろう。

 だというのにイオレットは、最初から決まっているかのように返答した。


「どうして、と理由を伺っても?」


「王家はわたくしが伸ばした手を取ってくださらなかった。理由はそれで十分かと」


「それだけかい?」


 一番の理由は今言ったことだろう。

 だが他にもありそうな気がして、フィンドはさらに尋ねる。

 するとイオレットは僅かに目を伏せて、少々恥ずかしそうに答えた。


「恋をしてみたい。それもありますわ」


 ある意味、誰もが耳を疑う言葉だ。

 イオレット・フェイタル公爵令嬢が恋をしたい、と言った。

 あまりにも不似合いで、けれどあまりに可愛い言い分。


「わ、わたくしとて乙女です。夢見る権利はあるでしょう?」


 周囲の雰囲気を察したイオレットが慌てて言葉を付け足す。

 けれどそれさえ今の彼女の可愛さを増す結果にしかならない。


「私が相手では駄目なのかい?」


「もしわたくしを守ってくれたのなら、可能性は大いにあったと思いますわ」


 夢見る乙女は単純だ。

 彼のような男性がヒーローのように守ってくれたのなら、婚約者ではなくなった以上、前向きに考えただろう。


「しかし貴方様はわたくしが伸ばした手を取ってくださらなかった」


 イオレットは貴族だけではなく王家にも話を通していた。

 だというのに、王家も動かなかった。

 目の前にいるフィンドも事情は当然、知っていたのに。


「君なら強いから大丈夫だと思っていたんだよ」


「ええ、そうでしょう。だからわたくしは戦うことが出来て、守ることが出来て、頑張ることが出来る」


 自身が強いという自負がイオレットにはある。

 戦うことが出来るように。

 守ることが出来るように。

 何が起ころうと、どうにか出来るように育てられた。

 未来の国母となるために。


「ですが強いからといって、強くいたいわけではないのです」


 誰に頼らずとも問題ない自分だけれど。

 だからといって誰にも頼りたくないわけじゃない。


「本音を言えば、わたくしとて守られたかった」


 大丈夫だから何もしなくていい、と思われたくなかった。

 本当は誰かに助けて欲しかったし、守って欲しかった。

 だからあの日、クラスメートが助けてくれた時は嬉しかった。

 マリアンナを探して欲しい時、彼がイオレットの強さを気にせず伸ばした手を取ってくれたことが嬉しかった。

 そこでようやく、フィンドが自身の考え違いを察する。


「イオレット、君は……」


「王家はわたくしが伸ばした手を取らず、貴族の義務であるからと張っていた意思の糸さえ断ち切った」


 イオレットならば大丈夫だが、それは果たして正しかったのか。

 公爵令嬢が求めた助けに応じないことが、本当に正しいことなのか。

 答えは否だ。

 王太子の婚約者であるからには、助けることこそ正しいこと。

 さらには王太子が別の女性に目を向けて、イオレットをぞんざいに扱った。

 貴族の義務として役目を果たそうとした彼女に対して、王家がした仕打ちは一つとして正しさがない。


「だからもう、王家と関わるのはこりごりなのですわ」


 貴族の令嬢として扱われず、王太子の婚約者としても扱われない。

 その全てが王家の仕業であるのだから、これ以上は望まれても関わりたくない。


「未来の国母たらんとする意思を断ち切ったのは王家。わたくしが持つ貴族の義務も放り投げたのは王家。だというのにわたくしを婚約者に望むのは理解が出来ません」


 救わなければならなかった。

 彼女の状況に対して、手を差し伸べなければならなかった。


「それでも……君を手に入れたいと言ったら?」


「不可能ですわ。貴方様の望みが叶うことはありません」


 第一王子であれば強制的に婚約者にすることは可能だ。

 彼女の意思を排して望み、手に入れることは出来る。

 けれどイオレットは否定した。

 そこに含まれている意味に気付かないほど、フィンドは愚かではなかった。


「……ああ、そうか。そこまで王家は君を追い詰めていたわけだね」


 望まなければ手に入らない。

 けれど望んでしまえば、彼女は命を絶ってまで逃げることを暗に示した。

 王家が何もしなかったのは、それほどまで重いと教えるかのように。


「分かったよ。君を望むことは諦めよう」


「感謝いたしますわ、フィンド殿下」


 イオレットは優雅に頭を下げると、フィンドは苦笑いを浮かべた。

 彼女を手に入れたいと思っておきながら、彼女の心を大切にしなかった。

 であれば好意を持ってくれるわけがない。

 とはいえ傷心の身であっても、やるべきことはやらないといけない。

 これ以上、彼女に嫌われたくはないから。


「さて、皆の衆。私も含めて余計な寸劇はあったけれど、終いとしようじゃないか。ここからは君達の晴れの舞台、卒業パーティーを始めるとしよう」


 フィンドの合図によって、会場内に音楽が流れ始める。

 当然、最初は戸惑う様子を見て取れた。

 フィルクの断罪劇から始まり、最後はフィンドの求愛が断られた。

 情報量の多さと展開が凄すぎて、戸惑ってしまうのも仕方がないこと。

 けれどフィンドが言ったこと――晴れの舞台である卒業パーティーであることを思い出した面々から順に、パーティーを楽しみ始める。

 それが周囲に伝わっていき、五分もすれば最初の騒動がなかったかのように皆、パーティーを楽しみ始めていた。

 フィンドは皆が楽しんでいる様子を眺めながら、壇上にいる三人に声を掛ける。


「フィルク、パーティーの参加は許すよ。けれどイオレットやマリアンナに近付けば、強制的に排除する。心して参加するように」


 納得がいかなくても、否定したくても、フィンドが言ったことを守れなければパーティーには参加出来ない。

 それぐらいはフィルクでも理解出来た。

 仕方ないので、他三人を連れて壇上を降りようとした……その時だ。

 周囲の注目が一点に集まっていることに気付いた。

 フィルクが皆の視線の先に目をやれば、そこにいるのはイオレットの末弟と彼の最愛の女性だった。


「マリアンナ嬢」


「……イル様?」


「私と一曲、踊りませんか?」


 自然に手を差し出すイル。

 未だミレイとミュースが守るように側にいたのだが、マリアンナどころか周囲の人間も含めてイルの申し出に驚いた様子を示した。

 その理由は今日、この場にいた者は誰であれ分かっている。

 マリアンナはフィルク達以外は少しばかり改善したとしても、未だ触れるには至らない。

 もちろんイルは当事者なので、誰よりもそのことを分かっている。

 だけど、それでも申し出た理由が彼にはあった。


「マリアンナ嬢。怖いのであれば、無理をすればと思ってしまうのであれば、僕の手を取る必要はありません。この場は卒業パーティーです。他のご令嬢達とゆっくり、会話を楽しめばよいと思います」


「で、ですが、それではイル様が――」


 彼の醜態になってしまう。

 ダンスの申し出を断られたと、周りから馬鹿にされてしまう。

 けれどイルはゆっくりと否定の言葉を述べた。


「僕は貴女のことを知っています。周囲の方々も理解しておられるでしょう。ですから貴女が手を取れなかったからといって、僕の醜聞になりません」


「で、では、どうしてダンスのお誘いをしてくださったのですか?」


「姉上が仰ったでしょう。最後くらいは普通の生徒として過ごさせてあげたい、と」


 イルが申し出た理由はこれだ。

 普通の学生として過ごせなかった彼女に対して、イルがやってあげられること。


「貴女のような素晴らしき令嬢であれば、紳士からダンスのお誘いがあるものです」


 姉であるイオレットが淑女として認めた。

 ならばダンスを誘われることこそ普通。


「僕は貴女に普通を経験して欲しいから、このような申し出をしたのです。僕ならば断られても問題ありませんし、むしろ申し出なかったら姉上に何を言われるやら」


 事実、イルの背後ではイオレットが誘うことこそ当然とばかりに頷いていた。

 マリアンナはイルを見て、次いでイオレットを見る。

 彼女を育て上げた公爵令嬢は力強い視線を送り返した。

 思ったことを素直に答えていい、と言うかのように。


「私はまだ……望んでいるとしても、実際にダンスするのは怖いです」


 だからマリアンナは素直に思いの丈を述べる。

 喜ばしい気持ちと、怖い気持ちがない交ぜになっていることを。


「分かりました。それでは――」


「――そ、それでも」


 令嬢達と話したいのだろうと考えたイルが離れようとしたが、マリアンナは慌てて言葉を付け加えて遮る。


「それでも側にいていただけると、嬉しいです」


 偽らざる本音を口にする。

 イルは彼女の言葉に目を丸くすると、すぐに笑みを浮かべた。


「マリアンナ嬢の望みとあらば、僕が断るはずありません」


 そう言って彼女に決して触れぬように気を付けて、されど隣に歩み寄る。

 隣に立ってくれたことに、心から嬉しそうな表情を浮かべるマリアンナ。

 会場にいるほとんどの人間が見たことのない美しさに、思わず目を奪われる。

 何度も見たことがあるイルでさえ、思わず呆けてしまうほどに。

 けれど目の前にある現実を受け入れられない人物達もいた。


「……マリアンナっ!!」


 ほとんど反射的にフィルク達はマリアンナに近付こうとするが、彼らの動向に意識を向けていたイルが庇うように立った。


「僕の幼い背では頼りないでしょうが、それでも貴女の瞳から見たくないものを見えなくさせるぐらいは出来るのですよ」


 歳は十四歳。

 マリアンナからしてみれば、四つも歳下だ。

 幼いといえば幼いのかもしれない。

 けれど、


「イル様のことを幼いと思ったことはありません」


 彼の背を見ながらマリアンナは首を振った。


「頼りないと思ったこともありません」


 彼は歳下だけれども、自分より背が少し高い。

 物腰も柔らかで、幼くは見えなくて、ずっとずっと頼ってしまった。


「イオレット様が仰ったことだとしても、イル様は煩わしい表情一つさせず私に付き合ってくれました」


 男性が怖いのではなく、フィルク達が怖いだけなのだと教える。

 そんなことのためにイルは付き合ってくれた。


「私はとても嬉しかったんです」


「……マリアンナ嬢」


 今だって自分が恐怖に怯える前に、彼らの姿を視界から隠してくれた。

 これほど素晴らしい男性を幼いなんて、どうして言えようか。

 触れるのは怖いけれど、それでもマリアンナはイルの服の裾を握る。


「イル様、よろしいですか?」


「何か問題でも? 嬉しくは思っても、嫌悪することはありませんよ」


 問い掛けに対する答え。

 彼女の行動を受け入れたと断言する言葉。

 マリアンナはそのことを嬉しく思う。


「伸ばした手を認めてもらえるのは、とても素敵な気持ちなんですね」


 彼らのように自己中心的な行動ではなくて。

 自分が望んだことを相手も受け入れてくれる。

 それが互いに嬉しい、と。

 皆に思わせるやり取りだった。

 イルはほんの少し引っ張られる感触に頬を緩めたあと、鋭い視線を三人に向ける。

 案の定、マリアンナに近付こうとしたことで近衛騎士達に取り押さえられていた。

 けれどイルはそのまま、三人に苦言を呈する。


「貴方達のせいで、マリアンナ嬢がどれだけ苦労したか分かっているのですか?」


 初めて出会った時、男というだけで恐れていた。

 視線を合わせることも出来ず、会話も差し障りない返答をするだけ。

 無理をすれば固い笑みを浮かべることも出来るが、それはイオレットが禁止した。

 だからイルが最初に抱いた印象は、可哀想な女性だった。

 しかし距離を取って対話を重ねていけば、次第に視線が合う回数は増えた。

 笑顔を浮かべることが出来るようになって、少しずつ距離を縮めることが出来た。

 自然体の彼女が浮かべる笑みは、本当に美しかった。

 とびぬけて綺麗な女性が浮かべる笑みは姉で見慣れているイルでさえ、見惚れてしまうほどに。


「……イオレットの命令で会っていたイルに、マリアンナの何が分かるんだ?」


 取り押さえられたフィルクが睨み返してくる。


「少なくとも貴方達よりは何もかも。マリアンナ嬢が好きなことも、将来の夢も知っています」


 彼女は自分を受け入れてくれた両親のために、領地を繁栄させる夢を持っていた。

 特に義母は突然現れたマリアンナのことを大切に扱ってくれた。

 本当に感謝しかないと彼女は言って、授業も淑女としても必死に勉強していた。

 だというのに全てを無駄にしかねない彼らの行動は、許されないものだ。


「マリアンナの……夢?」


「疑問に思われる時点で、貴方達は何が分かっていたのかと問いたいところです」


 大きく溜め息を吐いたイル。

 どうせ分かっていないだろうと思っていたが、本当に分かっていないと知ると脱力感が凄い。


「それと僕は姉上の命令だけで、マリアンナ嬢と会っていたわけでもありません」


 マリアンナも勘違いしていたが、姉が言ったから会ったのは最初の数回だけ。


「僕も合う回数を重ねるうちに、自分の意思で会いたくなりました」


 彼の言葉はどちらかといえば、フィルク達ではなく背後で裾を握っている女性に向けたもの。

 一瞬、驚いたように強く裾を掴まれたことで、彼女がしっかり聞いてくれたことを確認出来る。


「だから問題ありません。僕は僕の意思で彼女と日々を過ごしていたのですから」


「……問題ない? そうやってマリアンナを籠絡するのが目的だろう」


 もはや理解する、しないではない。

 理解する気がないとしか思えないフィルクの言葉。

 宰相子息はこの後、自身に降りかかる未来を容易に描けるのか下を向いているし、魔法士長子息もマリアンナの様子を見て、意気消沈している。

 あとはフィルクだけなのだが、彼だけが論点をずらし、意味を取り違えて未だ理想のマリアンナに盲目している。

 その言い分にイオレットやイル、周囲の人間は嘆息した。

 けれどマリアンナだけは初めて怯えるのではなく、怒りで身体を震わせる。

 本当は声すら聞きたくないだろう。

 しかし彼女が慕っているイオレットやイルがこれほどまで暴言を吐かれて、初めて怯えよりも怒りが勝った。


「マリアンナ。連れ去る前に言いたいことがあるのなら、何を言っても不問にすると約束するよ」


 フィンドは彼女の雰囲気を察すると機会を与えた。

 この後、三人は会場から連れて行かれる。

 近付くなと言ったのに、近付いたのだから当然だ。

 けれど最後に言うべきことがあるのなら、言ったほうがいい。

 今生の別れになるのだから。


「……フィンド殿下。ご配慮、感謝致します」


 マリアンナは感謝の意を示すと、イルの背後から顔を出した。

 恐怖を押し殺し、掴んでいる袖から勇気を貰って、真っ直ぐに前を見る。


「ああっ、マリアン――」


「イル様を皆様と一緒にしないで下さい」


 フィルクが嬉しそうな表情を浮かべて声を掛けようとしたが、マリアンナはそれを遮った。

 同時、俯いていた宰相子息や意気消沈していた魔法士長子息も顔を上げる。

 強い言葉を、意志を初めて示したマリアンナは、彼らが知っている彼女ではない。


「私がお慕いしている殿方は、とても女性に優しい御方です」


 そして彼らに残酷な言葉を投げつける。

 マリアンナのことを好いていたフィルク達に、別の男性が好きだと伝える。


「籠絡するも何も、立場故に発言できなかった私を思うように扱ったのは皆様です。私の意思を無視し、好き勝手に籠絡しようとした皆様とイル様はまるで違います」


 常にマリアンナのことを考えて行動したイルと、自分達のことしか考えなかったフィルク達。

 どちらを好いてしまうか問われれば、答えは必然として前者。


「ですからイル様のことを不必要に罵るのなら、私とて怒りを覚えます」


 勝手に彼のことを罵倒して、勝手に彼を貶めようとした。

 その身勝手さに怒りを覚えないと思ったのなら心外だ。


「さらにイオレット様は私にとって師であり、大切な友人です」


 立場が違うのに、彼女は自分が友であることを許してくれた。

 助けてくれて、救ってくれて、守ってくれた。

 どれだけの恩があるか分からないほどに、イオレットはマリアンナにとって大切な人だ。


「皆様は大切な友が貶されて許すことが出来ますか?」


 平民として生きてきた自分が、貴族の中で生きる術を覚えることが出来た。

 マリアンナが男爵令嬢として、淑女として振る舞えた全てがイオレットから与えられた。

 その恩人に対して彼らがやったことは、一つとして理解も納得も同意もしない。


「だから私は皆様のことを許しません」


 そう言い放ったマリアンナは、彼らの反応を見ることなくフィンドに目をやる。

 今言ったことを三人が理解したのか、それとも理解を拒んだのか。

 マリアンナには興味がないからだ。


「私としては、愚弟がこれで目が覚めてくれることを祈るばかりだね」


「フィンド殿下。あとはよろしくお願い致します」


「もちろんだとも。連れて行け」


 反応を見る前に、三人は騎士に連れて行かれる。

 そして姿が見えなくなったところで、マリアンナとイルは他の学生達との会話に加わった。

 イオレットは弟と友人のやり取りに微笑んでから息を吐く。

 学生生活最後の日ではあるが、やっと肩の荷が下りた。

 フィルクは今日の一件で王太子ではなくなる。

 フィンドが王太子となり、いずれは国王となるだろう。

 というわけでイオレットの今後の予定としては早めに婚約者を見つけ出し、王家の余計な介入をさせないことだ。

 フィンドには拒否をしたが、それでも国王の鶴の一声、というものがあるかもしれない。

 だから……と考えていたところで、ふと目の前に男性が立っていることにイオレットは気付く。


「貴方は……」


 立っているのはクラスメートの男子。

 マリアンナが階段から落ちた後、連れ去られた彼女を探してくれた人だ。

 つまりは――イオレットが伸ばした手を取ってくれた人。

 彼は右手を胸元に当て、そして左手をゆっくりとイオレットに差し出す。


「どうか私とダンスを踊ってくれませんか?」


 当たり前のように。

 さも自然に彼は公爵令嬢をダンスに誘った。

 思いもよらない出来事に、イオレットは呆けるように彼を見てしまう。

 クラスメートの男子は、マリアンナと同じく男爵家の長子。

 立場としては決して、軽々しくイオレットのことを誘えるものではない。

 けれど、


「貴女様も今日くらいは、普通の生徒として過ごされてはいかがでしょうか?」


 告げられたことにイオレットは息を呑んだ。

 彼女がマリアンナに伝えたことを、そのまま言葉として届けられるとは思っていなかったから。


「マリアンナ様をダンスに誘うのが紳士として当然ならば、イオレット様をダンスに誘うことも紳士としては当然です」


 違いますか? と問うような視線にイオレットは苦笑してしまう。

 そして思い返してしまった。

 助けて欲しくて伸ばした手を――彼が取ってくれたことを。

 彼はマリアンナを守るために、一緒に頑張ったクラスメートだ。

 対するのがフィルク達であっても、臆することなくイオレットを助けてくれた。

 マリアンナを守るために手伝いを求めた時も、彼女が保健室にいなくて慌てた時も。


「貴方という殿方は、本当に……」


 口唇が少し、震える。

 けれど咄嗟に隠して、伸ばしてくれた手を取った。

 二人で会場の中央に行って、鳴り響く音楽に合わせて踊り始める。

 イオレットにとって、親族やフィルク以外と踊る初めてのダンスだ。

 慣れていないのか、おっかなびっくりリードする彼にイオレットは自然と笑みを零す。


「ダンスを踊るのは苦手なのかしら?」


「じ、授業で習うぐらいで、あとは学内行事でしかやったことはありません」


「わたくしの相手をするのなら、今後はもう少し頑張らないといけませんわ」


「……精進します」


 必死にリードしようとする彼の表情に、イオレットは再びころころと笑う。

 ああ、なんだ、と。

 腑に落ちたことがあって、イオレットは踊りながら彼との会話を楽しむ。


「実はわたくし、マリアンナ達と――皆と一緒に買い食いというものをしようと考えているのです」


 もう王子の婚約者という立場ではなくなる。

 ただの公爵令嬢で、一人の夢見る淑女だ。


「マリアンナは末弟と一緒に行くでしょうし、他の方々も似たようなものです。ですから――」


 伸ばした手を取られたことが嬉しかった。

 どうしようもなく嬉しかったから。

 イオレットは自然と綻んだ表情で彼にお願いする。


「今度、わたくしと一緒に行ってくれますか?」


 だからもう一度、手を伸ばしてみよう。

 唯一、何度も手を取ってくれた人に。

 今度は誰かを助けるためではない、自分自身のための手を。



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悪役令嬢に非ず 結城ヒロ @aono_ao

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