ふわふわの箱

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ふわふわの箱

 熱されたアスファルトに横たわる青みがかったマイナスドライバーを見つけ、意味もなく拾ったのは小学五年生の夏、学校帰りの通学路、焼けつくような暑さの日だった。

 以来、マイナスドライバーに心奪われた僕はマイナスドライバーを毎日一時間、欠かすことなく眺め続けた。マイナスドライバーはいかなる神社の護符よりも遥かに強固な安心を与えた。いつか必ず役に立つ、そんな啓示にも似た確信。いつしか僕はどんな時でも肌身離さずマイナスドライバーを持ち歩くようになった。

 今日もまた、その日と同じように暑い日だった。違いがあるとすれば今は下校ではなく、学校へと登校している最中、ということぐらいだろうか。太陽が肌にじりじりと照り付ける。蝉が鳴く。空を見上げるとふわふわとした大きな白い入道雲が見える。そう、雲はこれ以上なくふわふわとしていて、まさにふわふわという言葉の権化、ふわふわという言葉は雲を見て生み出されたに違いない。

 ふわふわ。一般にそれは柔らかく、白い色をした暖かく密度の低い軽いものとして捉えられることが多く、ときには不安定な形状で宙に浮いているような、概念。今この瞬間にも、僕の傍にはそんなイメージ通りの〈ふわふわ〉がぼんやりと、何を行うでもなくただ浮かんでいる。

〈それ〉に初めて気が付いたのは一週間ほど前。僕が眠りに就こうとした時の出来事だった。布団に入った僕は目を瞑り、いつも通りにどうしようもない未来のことなんかを考えたりする。その最中、布団の外に奇妙な気配を感じ、直感的に、目を開けて布団の向こうをじっと見る。そこには白い〈ふわふわ〉が浮かんでいた。それを見て、感じたのは不安。未知のものに対する曖昧模糊としていて訳も分からない恐れ。体には一切の力が入らず、否応もなく僕は〈それ〉と正面から向き合った。ふわふわと漂う、漠然とした輪郭で描かれた白い不安の塊は宙に浮かんだまま僕を見つめて不気味な笑みを浮かべる、気がして、それが錯覚か現実かすらも分からないまま、僕は布団の上にただ縛り付けられた。

 その時から、僕は〈ふわふわ〉に付きまとわれるようになる。初め、それは家の中でのみ現れていたものの、次第に現れる範囲は広がり、通学途中や授業中でさえ姿を見せるようになった。しかも、それは僕以外の他の人間には一切見えていないようだった。

 最初、僕はそれを不気味に感じ、怯えながら暮らした。けれどふわふわはただそこにあるだけに過ぎず、害を及ぼすことも恵みをもたらすこともなかった。僕は次第に〈それ〉に慣れていった。

 ある種の共生、僕は今日も〈ふわふわ〉を引き連れながら学校へと辿り着く。


 僕が思いを寄せる人、柳沢理恵はよく「ふわふわしている」と評される人間だった。ゆっくりとした話し方で、突飛な発想を口に出すことの多い少女。控えめな性格ではあるがどこまでもマイペースで、それでも人には好かれるような、ふわふわした人間。

 そして彼女はふわふわした人間であるのだから、柔らかく、白い色をした暖かく密度の低い軽いものなのだと考えるのは当然であり、そんな彼女のことが好きだった。一目惚れにも近かった、このクラスで初めて柳沢さんに出会った時から、彼女に惹かれていた。

 遠く、吹奏楽部が響かせる管楽器の無秩序な音色や、運動部が発する威勢のいい掛け声が混ざり合って聞こえる放課後の教室、僕は柳沢さんと話していた。

 「柳沢さんって、ふわふわしてるよね」

 何気なく放った一言。彼女はその真っ黒な虹彩を僕ではなく、僕の右斜め後ろへと向けて、答える。

 「そう? 私なんかより、あなたの傍のそれの方がずっと、ふわふわしてるわよ」

 「これが見えてるの?」

 「ええ、見えるわ」

 「なら、このふわふわが何か、分かる?」

 「分からないわ」

 ここ最近、僕にとっての最大の疑問は〈ふわふわ〉の正体だった。毎日のように自問しても答えは出ず、人に相談することに意味があるとも思えなかった。幻覚だと考えるのが最も妥当だと結論づけることはできても、こうして二人が見えている以上は、本当にそこに存在しているのかもしれない。僕は悩み、彼女は言う。

 「なら、私のお腹の中を探してみる? もしかするとそこに、この難問の答えが隠されているかもしれないわ」

 なるほど、と思った。たしかに、いくら考えても分からないこの難問に対し、答えがあるとすればそれは彼女のお腹の中以外にはあり得ない。しかしそれでも、人のお腹の中を探すという行為に対する一抹の抵抗と高揚と不安とが僕の喉元に絡まり合いながら引っ掛かっていて、言葉を発することはできそうになかった。すると、彼女はさらに続ける。

 「あなたは自分のお腹の中を覗いてみたことはある?」

 むろん、ない。と、心の中で呟き終わるのと同時、彼女は堰を切ったように話し始める。

 「そう、ないでしょう? ならそこは密室で、中に何があるのかを知ることはできないの。密閉された箱、中には何が詰まっているの? 求め続けてきた答え、生まれた意味、金銀財宝、広大なサバンナか、もしかすると海が広がっているのかもしれないわ」

 凛然として話す彼女はいつもと異なり、ふわふわとはほど遠い、はっきりとした口調だった。今までに見たことのない柳沢さんの様子に混乱する僕と、窓から差し込む茜色の光。

 僕は気づく。そうか、答えを求めるのならお腹を開いてみればいい。

 ――彼女のお腹には九つのネジが、胸の中央の一つを起点として、緩いカーブの楕円を描くようにして取り付けられていた。九つのネジはすべて今では珍しいマイナスネジ、偶然ではなく、必然的な形状をした螺旋。肌に擬態した色とはいえ、僕はすぐに気づいた。

 探そう、そう決意して持ち歩いていた鞄からマイナスドライバーを取り出し、その先端をお腹のネジへとあてがう。中に何が入っているかは想像もつかない。人の体は密閉された箱。開けてみるまで、中身は分からない。

 そこには〈ふわふわ〉に関する問いへの、そしてあらゆる問いへの答えが詰まっている。だから僕は彼女の体を開く。左へ左へ、回転するネジと解ける体。回れ回れと、ゆるむネジ。一つ、二つ、三つ、四つ、……九つ。

 全てのネジを外されたそのお腹は持ち上げると、ぱかりと音を立てて呆気なく開いた。僕は恐る恐る、けれど大きな期待を込めて中を覗く。露わになった中身、驚きと納得、これ以上なく相応しい結末。

 柳沢さんの白っぽいお腹の中。そこにもまた、溢れんばかりのふわふわとしたもの、柔らかく温かい純白の綿が詰まっていた。

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ふわふわの箱 🦴 @plantae-nelumbo

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