さようなら、マティアス
トーヤ
1945年2月13日
「マティアス,また遠い目をしてるね……」
底のほうを
通りの向こうは銀の
遠くに
濡れた石畳の上を忙しなく親子が駆けてゆく。
子供の足が白くて目に柔らかい。
走るのが楽しくて暗い雲など目に入らないのか、
気難しそうに口を結んだ人達の真ん中で笑った。
喉を震わすその声はわたしが見下ろす窓辺の枠も震わせた。重ねて置いたわたしの指もまた震わせた。
するともう一度声がする。
子供の声と重なり合い、景色を震わせる雨音へとしだいに変容していった。
「傘を忘れてしまったのに。」
エチカは困ったような笑ったような声で言った。
「こんなタイミングで降るなんて
わたしは彼女のほうを見ないように視線を外へと伸ばしたまま隣の窓へと移った。
すぐ後ろまで来ていた彼女の気配はわたしを追うことなくとどまっている。
「エチカさん、雨宿りしていったらいいですよ。こんな天気なんですし……」
押し固めたみたいにぎこちなく話す自分が惨めだった。目を
目蓋の描く精巧な二重アーチ、
小さな耳たぶ、
鼻先のわずかに上がった形のいい鼻、
すると足元を柔らかいものがなぞって、何かが床を打つ重い音が散らばった。目を開くと尻尾がゆらりとドアの隙間に揺れ、すぐに見えなくなった。
わたしはすっかり驚いた。
ひっくり返ったカゴが部屋の真ん中に取り残されていた。
散らばった林檎を拾う手が白い。エチカと同じものを拾わないように選びながら林檎を取った。
彼女はほっそりとした眉を困ったようにねじって,うつむいている。
「なんでほっておいてくれなかったの、なんでわたしを引き留めたりしたの?」
怒りは何の予兆もなく、突然に、その表情を彩った。
「関心なんかじゃない、そんなのいらない」
冷たくとがった声でエチカは怒鳴った。
わたしは口ごもり、しばらく唇を震わしていたが、なんの言葉も見つけられなかった。
長い溜息の音がした。形のない呼気が宙を漂い、窓の光に呑まれて輝いた。
「みんな愁傷を顔に浮かべてぞろぞろやってきては、ぽっかり空いた心の中にお悔やみの言葉だのなんだの
あまりに早くしゃべりすぎて、エチカは大きくえずいた。
「お母さんのことは……
わたしの声は、
水気を失った樹皮のようにささくれて乾いていた。
「わからないんだ……本当に、
荒れはてた光を湛えた瞳がわたしを
わたしは
肌の外へと放り出されるのを感じた。
エチカはさっきとは打って変わった弱弱しい声で言った。
「死んだら塵になるだけなのよ……わかる?あの人はもうただの物でしかない。」
どうやってもとめどなく流れ落ちる涙を抑えることは出来なかった。
そんなわたしをエチカは茫然と眺めていた。
それから顔をそむけて彼女はぽつりと言った。
「信じられない……
わたしはエチカが握りしめたままの林檎に手を伸ばした。すると彼女はそれを力いっぱい投げつけた。
肋骨に重たい衝撃が走り、低い音が壁を打った。
わたしはエチカの肩に手を伸ばし、力いっぱいつかんだ。彼女はあらん限りの力で腕を振り回し、わたしのことを蹴った。
「マティアスっ、この意気地なし!意気地なし!!意気地なし!!!」
意識は雷鳴をとどろかせていた。
わたしは彼女を床の上に突き飛ばし、自分は立ち上がったところで吐きそうになった。
体中の臓器が鳴っていた。たぶんそれらが、皮膚の内側で何かが裏返るような、あの背筋のぞっとする音をたてているのだ。
エチカは色を失ってへたり込んだ。
「エチカさん……」
とても言葉が続かなかった。
「あなたがこんな風にするなんて初めてね。」
エチカはとても冷静な声で言った。でも、その言葉の末尾はわずかに震えていた。
わたしは目尻の涙をぬぐうと、エチカの指先に触れた。エチカは顔を伏せ、唇を震わせていた。
温かな涙が幾粒もわたしの手に落ちた。
「わたしを許してね、マティアス。あなたは優しい人、わたしはそれを知っているわ。」
わたしはエチカを家の外に連れていった。
雨上がりの石畳はひんやりと冷たく、土の匂いがしていた。
空には一面、葡萄色の雲が垂れ込めていて、時折、その皮を破いたみたいに陽の光が滴り落ちた。
エチカの解けた髪は光の切片にきらきらと輝き、亜麻色の波のように揺らめいた。
突然、彼女は路地にしゃがみこむと、小さな子猫を撫でた。
「リルケ、ああ、リルケ、こんなところにいたのね。」
猫は喉を鳴らした。彼女は立ち上がると髪を払いながらわたしを見た。
「マティアス、今日はありがとう。」
エチカはわたしに近づくと、首筋に唇を触れた。
「わたしのことを忘れないでね。」
残照が空気を一瞬にして
擦り切れた煉瓦色の影がわたしたちを取り巻いていた。
わたしは彼女と向かい合い、その
それは笑っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「さようなら、マティアス。」
エチカが角を曲がり、その姿が見えなくなった後も、
わたしはしばらく公園の細い道に立ち尽くしていた。
林檎が当たった胸が疼いた。それから、
わたしは身をかがめて公園の反対の角を折れ、家へと向かって歩いた。
その日の夜、わたしは恐ろしい空襲警報で目を覚ました。炸裂するえい光弾もあまり見えなかった。
ノイシュタット駅へ向かったが、すでにあたりは火の手でいっぱいだった。それでわたしたちはすぐに市外へと向かう道を走り始めた。
紅蓮に輝く葉巻型の筒が、何本も唸りながら炎をかすめ、銀の
「くそ、なんて数のランカスターだぁっ!」
鉄兜のひさしをあげて防火隊の男が虚空を睨んでいた。
わたしたちがエルベ川の河岸にたどり着いたとき、騒々しい騒ぎ声もなく、辺りは一面、蒼暗い闇に沈んでいた。
ただドレスデンの方角だけは煌々と照る松明のような焔が、ぼんやりとした煤雲の中に浮き上がっていた。
煤と血にまみれた夜の帳がわたしたちの上に覆い被さり息さえもを奪った。
わたしは母の腕に手をかけたまま、燃えおちてゆく街を眺め続けた。
エチカは無事ハレに向かう列車に乗れたのだろうか?
聞き伝えの情報はあまり役には立たなかった。
見たものだけが真実なのだ。
わたしは川岸に群なる溺死体のように、生気のない瞳で対岸をみつめるのだった。
空襲は休止を挟みながら未明まで続いた。
真っ赤に輝く
さようなら、マティアス トーヤ @toya-ryuji
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