第一章6話 『唯一人』
『五月病』という言葉がある。
その名の通り、五月、もっと言えば五月の中でもゴールデンウィーク明けに発症するケースが多いと知られている、あの有名な病だ。
何でも、春という、新生活がスタートする晴れやかな季節において、新天地に上手く馴染めずにいるストレスが原因で、抑うつや無気力に陥ってしまうのが主な症状だと言う。
そして今は五月。それも半ば。
ゴールデンウィークの余熱冷めやらぬこの頃、だから学校や職場に行くのが億劫になってしまっても致し方ないけれど、そんな無気力もどこかに吹っ飛んでしまうくらい、今朝の空気は清々しい。
一歩一歩、一こぎ一こぎ、ゆっくりと自転車のペダルを回していると、そよ吹く薫風が額を撫ぜていく。
どこかから漂ってくる春の香りが、風に乗って鼻先を掠める。
それだけで気怠さや怒りは綺麗に流され、心は浄化しーーーーー、
「……あの先生……あからさまに意味ありげな目をしやがって……」
ーーー真っ黒い心のまま、眉間に深い皺を刻み、
その胸中には猛烈な恥ずかしさがひしめいており、知らずペダルをこぐ足に力が入る。
妹ーーー
一人で自転車を走らせる鷹志は、住まう地区を飛び出し、そのまま駅の方へと向かう。
その道中、先程の先生のニタニタしたいやらしい表情が、脳裏をよぎっては鷹志の心を羞恥に染めていくのだ。
「……それにしても、鶫の奴は恥ずかしくないのか……?」
中学校へと向かう道すがら、慣れ親しんだ慣習をいきなり変えるのは変、なんてもっともらしいことを言っていた彼女だけれど、第三者からあんなあからさまな色物を見る目線を向けられれば、流石に何か思うところはあるはずなのだがーーー意識するしないの問題ではなく。
自分たちで吹聴するならばともかく、部外者から「兄妹仲が良い」と言われるのは何というか……。
単純に言えば、恥ずかしさで死にたくなる。
しかも、それが毎日続いているのだからたまったものではない。
「でもそんなことを言えば、あいつ、また機嫌悪くなるんだろうなあ」
十数年間の付き合いでも、未だ彼女の機嫌を左右するセンサーがどこにあるのかわからない。
ほんの些細なことで言い合いになるし、かと思えば、先程の馬鹿な会話よろしく、どうでも良いことで好転したりする。
「機嫌の良し悪しは簡単にわかるんだけどな……」
そう、良し悪しは簡単にわかる。
手に取るようにーーーー目に視えるように。
はっきりと、わかるーーー例えば。
「……あの人、すごい苛立ってるな」
駅がすぐ近くに見える踏み切りに、タイミング良く、あるいは悪く捕まった鷹志は、自転車のハンドルに体重を預けた姿勢で、隣ーーー同じく踏み切り前で止まった車に視線を移した。
正確に言えば、見たのは、車の中ーーー運転席に座る男性だ。
「………」
かっちりとしたスーツに身を包んだ、サラリーマン風の男性。
眼鏡越しの視線は険しく、目の前、カンカンとけたたましい音を響かせる踏み切りに向けられている。
その視線、眉間に寄った皺、ハンドルの上で喧しく動く指、頭頂部の寝癖。
そんなものに興味はない。
彼が興味を持つのはーーー目を引くのは、男性の周囲を覆い尽くす『色』だけだ。
赤々とした『怒り』、そしてそれと同等以上の『焦り』。
たったそれだけで、彼の機嫌がすこぶる悪く、そして彼が今遅刻寸前なのだという事実が浮かび上がる。
頭についた盛大な寝癖など関係なく。
容易に予想がつく。
「にしたって、あんなにわかりやすい人は珍しいな」
ここの踏み切りは、一度閉まったらなかなか開かないことで有名な開かずの踏み切りだ。
正直、この待ち時間で渡れるだろ、と頭の中で突っ込んだことも数え切れないほどある。
だからこうして、手持ち無沙汰な時間を潰すため、恒常的に周囲の人間に目を走らせているのだが。
この開かずの踏み切りに足止めをくらった人たちは、総じて赤い『怒り』や『苛立ち』を示すものだけれど、今日の男性は一段と色濃かった。
「ーーーお、またやってんのか、覗き魔」
と、その時。
ついでに他の人も視てみようかと、後ろの車に視線を巡らせたタイミングで、背後から声がかけられた。
反射的に振り返る。
そこにいたのは、イケメンだった。
清潔感ある金色がかった茶髪に端整なルックスをしたその男は、まさにイケメンと呼ぶに相応しく、むしろそれ以外に彼を形容する言葉は不要だろう。
そんな彼は、並びの良い白い歯を見せながら、ニカッとこちらに微笑みかけていた。
高身長ながらも少年っぽさを感じさせるその快活な笑顔は、見る者に人懐っこい印象を与える。
実際、人懐っこい奴なのだーーー良い意味でも、悪い意味でも。
そして今現在、鷹志が抱いたイメージに含まれているのは、言わずもがな悪い意味である。
「……第一声から人を覗き魔呼ばわりするなよ、睦原」
目の前の少年とは打って変わって、腐ったジト目を向けながら、そう鷹志は苦言を呈したーーーーー
それがこのイケメンの名前である。
鷹志と同じ高校に通う同級生にして、小学校からの幼馴染。
隼人は、爽やかな笑みを崩さぬまま、ゆっくりと自転車をこいで隣に並んだ。
隼人が乗っているというだけで、自転車すら格好よく見えてくるーーーママチャリだけれど。
「他人のことをあんなに熱心に見つめてたんだ、覗き魔以外の何者でもないだろ」
そう言う隼人は、さっきまで鷹志が見つめていた男性へと目を向ける。
「それとも、お前の好みはああいう男だったっけ?」
「まずは僕が好む対象が男だと思ってるところから訂正しようか」
鷹志の鋭い突っ込みを受けた隼人は、朗らかに笑った。
その彼からは、はっきりと『からかい』が視て取れる。
その色は、車内の男性の『苛立ち』にも引けを取らないくらいの濃度だ………本気で言っているわけではないとわかっていても、何だか癪に触る。
「でも、お前女の子に興味ねえじゃん」
「確かにそうだが、だからって同性に走るかよ」
隼人はひとしきり笑った後、
「で、本当のところは何してたんだ?」
「別に………暇潰しに、ちょっと視てただけだよ」
『暇潰し』の部分を強調しつつ鷹志がぼやく。
「やっぱ覗いてたんじゃん」
苦笑しながら、隼人は再び件の男性へと視線を移した。
「ふーん……見るからに苛立ってそうだけど、あの人」
「正解。真っ赤っかだ」
「お、当たった」
よっしゃ、と露骨に口に出しながらガッツポーズを決める隼人。
その子供っぽい仕草も、人懐っこさに起因するものなのだろう。
「……だからと言って、それを僕が好意的に受け止めるかどうかは別問題だけどな」
「ん? 何か言ったか?」
「何でもない。相変わらず睦原はムカつくなって言っただけだ」
「何でもあるじゃねえか」
何でもあると言うか、お前の性格に難がある、と隼人は付け加えた。
と、そのタイミングで。
二人の前を電車が通り過ぎ、数秒後、ようやっと踏み切りの喧しい音が止んだ。
遮断機が上がると同時、止まっていた時間が動き出す。
「あの人、会社に間に合うと良いな」
「そうだな」
すぐにスピードを上げて走り去っていった車を見送り、鷹志と隼人も朝のサイクリングを再開する。
左腕につけた時計を確認すると、時刻は八時数分前を示していた。
家を出たのが、確か七時半くらいだったはず。
どうやら、妹とのいざこざや開かずの踏み切りで、結構な時間拘束されていたらしい。
ここから高校への所要時間は、大体三十分くらい。
始業時刻が八時半なので、これは遅刻ギリギリだろう。
「どうする? 飛ばすか?」
どこか挑発的に提案してくる隼人。
高校でサッカー部に所属する彼は、ちょっと自転車を飛ばすくらいわけないだろう。
日頃から体力作りのため、放課後練習の前に数キロ走らされる、と以前ぼやいていた記憶がある。
反面、鷹志は生粋の帰宅部だーーー日常的にしている運動と言えば、毎朝の自転車通学くらいである。
なので鷹志は、
「まさか」
と、むしろ速度を落とすようにゆっくりとペダルを回していた。
隼人は、まるでその返答をあらかじめ予期していたかのように、同じように速度を落とし始める。
「流石、省エネ人間」
「それに付き合ってるお前も大概だろ」
残念ながら、わざわざ疲れるような思いをしてまで律儀に登校時間を守ろうという気概はない。
そもそもの話、鷹志はあまり学校という空間が好きではないのだ。
学校だけにあらず。
人間が集まる場所は大概苦手だーーー公共交通機関。
「それでもサボりはしないところが、何というか、鷹志らしいよな。変なところで真面目というか、いまいちワルになりきれないというか」
「わかったようなことを言うな、気持ち悪い」
見透かしたことを言う隼人に、鷹志は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「………」
「………」
それからしばらく、二人はお互いに口を開くことなく、一定のペースで自転車を走らせた。
柔らかな向かい風が、サイクリングでほのかに温まった肌に心地良い。
駅横を通過した二人は、そのまま国道に沿って真っ直ぐに進んでいく。
高校に入学してから一年以上、毎日通った通学路。
一年前は新鮮に感じ、通る度にキョロキョロと視線を彷徨わせたその景色も、今となっては見慣れた日常の風景の一部と化してしまった。
ただぼぉーと、前だけを見てペダルを回す。
「……見慣れた、か」
呟く鷹志、その心中に思うのは、先の鶫とのやり取りだ。
鶫も同じようなことを言っていたーーー習慣。
そこにあるのが当たり前で、変えられないもの。
あの時のやるせなさや面映ゆさは、今でも心に深く根付いている。
いい加減気にし過ぎな感は否めないけれど、こうやって同じことで堂々巡り、いつまでも理屈っぽく考え込んでしまうのは、鷹志の悪癖だ。
高校二年生になって早一ヶ月半。
自身の思春期的な感情の波に、上手く折り合いがつけられない。
「……はあ」
左右が畑に挟まれた道を抜けて十字路に差し掛かり、折悪しく赤になった信号に捕まった。
兄妹関係、仲直りの土下座、そして間の悪さーーー色々なものが綯交ぜになったため息が、重苦しく吐き出される。
と、隣に並んだ隼人が、気軽な調子で話しかけてきた。
「どうした? ため息なんか吐いて」
「別に、何でもないよ」
「ため息を一回吐くと、幸せが百個逃げるって言うぞ」
「釣り合い取れてなくないか?」
「お前の場合はな」
「ため息嫌い過ぎるだろ、僕の幸せ」
もしその謂が本当なのだとすれば、鷹志は今まで一体どれだけの幸せを逃してきたのだろうか。
もしかしたら、もう幸せなんて残っていないのかもしれない。
「そんな悲観的なこと言うなよ。俺で良かったら話、聞くぜ?」
「そう言われてもな……」
「おら、さっさとゲロって楽になっちまえよ」
「お前は刑事か。しかも結構ベテラン風の」
「それにしても、何で取り調べの時に食べるのってカツ丼なんだろうな」
「話題の切り替ええげついな。カツ丼の方も、急に持ち出されてびっくりしてるわ」
確かに、二重の意味でそそられる疑問ではあるが、それは後で便利な便利なインターネットで調べることとして。
「で、何に悩んでんだ?」
話題の方向性があっちこっち右往左往した後、最終的に隼人は、真面目くさった表情ーーーいや、特に深く考えてなさそうな表情で、再度問いかけた。
正直、このいけ好かない爽やかイケメンに話したところで腑に落ちる結果になるとは思えないけれど、誰かに話すことで見えてくる光明もある。
上手くいけばめっけもの、くらいの軽い気持ちで、打ち明けても良いのかもしれない。
「俺がお前の悩み、解決してやるよ」
隼人も胸を張ってこう言っていることだ。
しかし、避けては通れない問題が一つある。
「睦原って確か一人っ子だよな?」
質問に質問で返す、それも何の整合性もない愚問で返すのは忍びないが、鷹志は確認の意味を込めて言った。
すると隼人は、別段気にした様子もなく、
「ああ。ついこの間からな」
「複雑な家庭環境を演出するな」
伊達に小学校からの付き合いではない。
お互いの家族構成は把握している。
それと照らし合わせてみれば、隼人に元よりきょうだいはいないーーーだからぶっちゃけ、隼人に兄妹関係の話をしてもどうしようもないのだ。
「その質問をしてくるってことは、もしかしてお前の悩みって鶫ちゃん関連か?」
勉学はからっきしなくせに、変なところで頭の回転が早い隼人は、鷹志の態度から類推する。
小学校から一緒にいることが多かった二人は、お互いの家に遊びに行くことも多く、当然隼人と鶫も面識はあるのだ。
「……まあ、そうだよ」
「喧嘩でもしたのか?」
「いや、それは解決した」
「喧嘩はしたのかよ」
大分不本意な形ではあるが、喧嘩とも言えない小さな小競り合いは、一応の解決を見ている。
問題はその後だ。
「じゃあ、何だよ」
「実はなーーー」
それから、鷹志は今朝の、と言うより毎朝の日課に関して、思うところを隼人に語って聞かせた。
「ーーーというわけなんだ」
信号が青に変わり、再び高校に向けて走り出す。
「で、お前はどう思う?」
あらましを語り終わり、隼人に意見を求める。
果たして『悩みを解決してやる』と大見得を切ったイケメンは、どんなアドバイスを送ってくれるのだろうか。
「それにしても、相変わらず二人はとっても仲良しねえ〜」
「チェーン焼き切るぞ」
意地の悪い笑顔で茶々を入れてくる隼人に、鷹志は盛大に顔を歪ませた。
やはりこいつに相談なんてするべきじゃなかった、と数分前の自分を恥じたくなる。
だが、隼人はそれをさらりと受け流し、
「いやだって、思いのほかしょうもない悩みだったからさ。掻い摘むと、それって要は妹と一緒に登校するのが恥ずかしいってことだろ」
と、クスクス笑いながら言ってくる。
「笑うなよ……だって、おかしいと思わないか?」
「お前が?」
「僕じゃねえよ。そうじゃなくて、もうあいつも中三だぞ?」
「多感な時期なのに、兄妹仲が良好なのはおかしいって? 仲良きことは美しきかなって言葉を知らないのか?」
「だからそれやめろって」
先生に言われた時もそうだが、他人から明確に断言されるとむず痒い。
「別にどこもおかしくないし、考え過ぎだろ。俺が言うのも何だけど、世の中、色々なきょうだいの形があるんだから」
「きょうだいの形、ねえ……」
「まあ鷹志んとこの場合、ちょっと事情が事情ってところもあるんだろうけれど」
「………」
何も言わない鷹志に構わず、隼人は続けて、
「それに、別にお前だって本気で嫌ってわけでもないんだろ? 理解出来ないってだけで」
「……まあ、それはそうだが……」
「なら良いじゃん。それよりも、朝から親友の惚気話を聞かされた俺の心情も慮って欲しいね」
得意分野だろ、と前を走る隼人は肩越しに片目を瞑った。
そんなことを言われても、相変わらず彼の周囲からは『からかい』しか出ていないのだがーーーー、
「………いや」
あった。
多量の『からかい』に混じってーーー微量、けれど濃厚に存在を主張する『呆れ』が。
「………」
呆れられている。
あるいは、憐れまれているのかもしれない。
「こんなことをお前に対して言うのは野暮だと思うけど」
隼人はそう前置きしてから、
「人の心って、お前が思ってるほど単純じゃないんだよ。女心は特に、な」
「妹の女心なんて考えたくもないが」
鷹志の突っ込みをスルーして、隼人は真面目な顔で、
「何でもかんでも鋳型にはめられるわけじゃない」
「………それは、まあ、そうだろうけど」
「鶫ちゃんのことをちゃんと真剣に考えてるのはわかるけどさ」
隼人は前を向いたままで続ける。
正面から吹きつけてくる向かい風の中でも、その声はやけにはっきりと聞こえた。
「お前はもうちょっと、他人を信用しても良いと思うぜ」
信頼とまでは言わないけどさ。
そう隼人は言ったーーー見透かしたように。
その言葉は、鷹志の心底を深く、だけども優しく抉る至言だった。
「……僕は人を信用してるよ。多分、誰よりも」
「そうじゃなくってさ」
そうは言ったものの、鈍感な鷹志に嫌気がさしたのか、それともわかっててとぼけたことがバレたのか、隼人は苦笑を漏らすだけで、それ以上深く口を出すことはなかった。
そしてそのタイミングで、ちょうど二人が通う高校が見えてきた。
腕時計を確認する。
予定通り、時刻は始業時間ギリギリだ。
「何か他に言っておきたいことはあるか?」
正門から駐輪場に回り、自転車の鍵をかけながら、隼人は言った。
「……そうだな」
正直、未だモヤモヤした心情に、綺麗に折り合いがつけられたわけではない。
周囲の人間に向けられた好奇な目も、それに伴う羞恥心も、そしてーーーそれ以外の得体の知れない感情も、心に深く残っている。
だけれど、それはそれとして、それでは最後に一つだけ。
「睦原ーーーー仰向けの土下座って、面白いと思う?」
無垢なる雛鳥に青春を捧ぐ 水巷 @katari-ya08
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