第一章5話 『通学路は妹と共に』
「………」
背筋をぴんと張ったまま、
それから、たっぷり数十秒間、心を無にして遺影に手を合わせ続けていた。
やがて目を開け、俯いていた顔を上げると、最後に蝋燭の火を静かに消し、そっと音を立てずに立ち上がった。
そして、改めて目の前の遺影を見やる。
写真の中の男性ーーーー彼の父親は、人当たりの良さそうな柔和な笑みを浮かべている。
生前、困っている人や悩んでいる人に優しく寄り添う日々を送っていた彼に相応しいと、家族で選んだ彼らしい表情。
ーーーそこからは、いつまで経っても何の『感情』も見えてはこない。
瞬きをせずに凝視しても、至近距離で見つめても、彼の視界には、ただの遺影が映るだけだ。
父親の笑顔以外には、何もない。
その周囲には、何も視えないーーー何処にも異常は見受けられない。
ーーーだが、異常がないことこそが、彼にとっては異常なのだ。
「……父さんは何を思っているんだろう」
自分の力で視ることも、ましてや本人に訊くことも出来ないから、写真に映る父親の心は誰にもわからない。
しかし、毎朝この表情を見る度に、鷹志は、父は自分たちが今日を元気に、そして健やかに過ごすことを心から願っているのだろうと感じるのだ。
それに何より、彼ら家族を、この優しい笑顔で、何処からでも見守ってくれているのだろうと思うと、今日を生きる勇気が湧いてくる。
それは勝手な思い込みなのかもしれない。
けれど、そんな気がしてくるのだ。
それは多分、彼以外の家族ーーー母親と妹も同じだろう。
「行ってきます」
改めて父親に挨拶をし、鷹志は和室から隣のリビングへと戻った。
時計を確認する。二本の針は、七時半より少し前を指していた。
そろそろ家を出なければならない時間だ。
「行ってくる」
リビングにいた母親に告げると、鷹志は玄関で靴を履き始めた。
解けていた靴紐を結んでいると、背後から声をかけられる。
「鷹志、お弁当忘れてる」
声に振り向くと、慌てた様子で、母親が弁当の包みを差し出してきた。
「あ、ごめん。ありがと」
礼を言って受け取ると、そのまま鞄の中に丁寧に入れる。
ペラペラで重さなんて皆無だった鞄が、入れた弁当の分だけ少し重さを増した。
ズレた鞄を肩にかけ直すと、
「じゃあ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
母親は、小さく手を振りながら、柔らかい笑みで送り出してくれた。
*****
玄関を出た彼がまず向かったのは、家の物置の隣に設置された小さい駐輪場だった。
駐輪場と言っても大して立派なものではなく、ただ自転車が数台とめられるくらいのスペースがあるだけだ。
そこには、二台のママチャリがとめられている。
左が彼のもの、そして右が妹のものだ。
鷹志が通う高校は、この家からは結構離れた場所に位置している。
調べたことがないので定かではないけれど、距離としては約七キロメートルくらいだろうか。
徒歩で通うなら一時間半、下手したら二時間弱はかかる距離。
それが、自転車通学ならば大幅に短縮、約四十分で着くことが出来る。
バスと電車を利用するなんて手もあるけれど、鷹志は個人的な理由で、それらの類ーーー公共交通機関が苦手なのだ。
苦手というか、それはもはや嫌いの域である。
「……人混みなんて、冗談じゃない」
独り呟きながら、左の自転車の鍵を開ける。
それから何の気なしに振り返り、頭上に広がる空を見上げた。
視界に収まるのは、雲は一つも見当たらず、澄み渡った青い空。
暖かに空気を包み込む、清々しい春の日差し。
ゴールデンウィークを過ぎ、五月も半ばに差し掛かった今日この頃。
あと一ヶ月も経たずに六月だ。
六月には、皆が嫌う梅雨が待っている。
そう思うと、今日のこの陽気が、殊更に特別なもののように感じた。
まさに、絶好のツーリング日和。
……まあ、ツーリングというか、実際にはただの通学なのだが。
もっと言えば、愛車はママチャリである。
格好がつかないことこの上ない。
「……ふっ、これが本当の通リングか」
「くだらないこと言ってないで、早く行こうよ」
しょうもない戯言でニヒルを気取っていると、横合いから声をかけられた。
つられてそちらに目を向ける。
そこには、腕を組んで仁王立ちをした彼の妹ーーー
全身から『不機嫌』が漂っている。
「何だよ。人がせっかく春の陽気に感動してたのに」
負けじと鷹志も不機嫌な表情で応じる。
「春の陽気に感動している人は、ニヤニヤしながら寒い洒落なんて言わないよ。春の陽気を汚さないで」
それに大して上手くもなかったし、と鶫は付け足した。
大分辛辣な評価である。
それに何やら、いつも以上に口調が鋭く感じる。
朝食の時のやり取りを根に持っているのかもしれない。
というか、絶対にそうだ。
「よし、じゃあ行くか」
ここでさらに反論をするのは得策ではないと考え、鷹志は要求に応えて自転車を取り出した。
肩にかけていた鞄を、弁当が崩れないようにカゴに入れると、そのまま押していく。
その隣に、鶫が歩いて並んだ。
そのまま彼女は横目を向けて、
「もし遅刻したら、先生にはお兄ちゃんのせいって言うからね」
と、強い口調で言ってきた。
「僕がお前に何をしたって言うんだ」
「お兄ちゃんの寒いギャグに付き合っていたせいで遅れましたって言うから」
「僕は別に構わないが、『やーい、お前の兄ちゃん、一発屋芸人ー』って学校で馬鹿にされても知らないからな」
「それ、馬鹿にされてるのお兄ちゃんじゃん」
「残念だったな。兄の評判は妹の評判だ」
「残念なのはお兄ちゃんじゃん」
軽蔑的な眼差しを送ってくるが、直截的な悪口は放っておくことにする。
家を出た二人は、一戸建てが並ぶ住宅街を抜け、目の前を横切る大通りに出た。
そのまま自然な足取りで、通りを左に曲がる。
鷹志は自転車を押しながら。鶫は歩きながら。
二人並んで、歩を進める。
「………」
「………」
二人とも言葉を発することはない。
ただ黙々と通学路を進む。
少し幅の違う足でゆっくり歩いていると、鶫の歩調が普段よりも若干早くなっていることに気づいた。
横目で確認する。
彼女からは、『怒り』に変わる寸前の『不機嫌』が、今も色濃く残っている。
「なあ、鶫」
それに気づいていないふりをして、気軽な感じで声を掛ける。
「何? 一発屋芸人」
「この状況のことなんだけどさ」
「この状況がどうかしたの? 月収五千円」
「おい、その呼び方は是非ともやめてくれ」
「今朝のこと謝ってくれたらやめてあげる」
「わかった。今度からはもうちょっと面白いこと言ってやるから」
鷹志がすっとぼけると、鶫は横目でじろりと睨んできた。
「違う。そっちじゃない」
その瞬間、鷹志の脳内に鈴木雅之がログインしたが、奥歯を噛むことで必死に笑いを堪えた。
案の定というか何というか、やはり鶫は今朝の夜更かしの一件をまだ根に持っていた。
この感じだと、夜更かしする方が悪いという理屈も、どうやら通じそうにない。
鶫が気に食わないのは、多分そこではないのだろうから。
だが、ここで素直にごめんなさいを言うのも、何だか妹に手綱を握られた感じがして、どうにも癪だ。
「わかった。帰ったら、最高峰の土下座をしてやるから」
言うと、鶫は胡乱げな眼差しで、
「最高峰の土下座って、どんな?」
「仰向けの土下座」
「……ぷっ」
鷹志の返答を聞いた鶫は、軽く吹き出した。
さっきの洒落はいまいちお気に召さなかったようだけれど、今度はそれなりにハマってくれたらしい。
ぷるぷると小刻みに肩を震わせている。
やがてそれも収まると、目尻に浮かんだ涙を拭いながら、
「想像したら面白そうだったから、許してあげる」
と、何やら上から目線で言ってくる。
「そりゃどうも」
自業自得としか言いようがないけれど、どうやらこれで、帰ったら妹の前で面白い格好をしなければならなくなったようだ。
そう思うと、頭上の良い天気に反して憂鬱な気分になる鷹志だったが、対照的に鶫の方は、さっきまで全身を包み込んでいた『不機嫌』が綺麗さっぱり消え、代わりに多大なる『期待』が溢れ出していた。
この様子じゃあ、鶫が忘れるまでなるべく帰りを遅くしようという目論見も、大して意味はなさそうである。
「はぁ……」
知らず、深いため息が漏れていた。
全く、余計なことはするもんじゃない。
触らぬ神に祟りなし、チクらぬ妹に怒りなし、だ。
「あ、そういえばお兄ちゃん」
己が運命を呪っていると、鶫が話しかけてきた。
ちゃんと『お兄ちゃん』呼びが戻っている。
「何だよ?」
「結局さっきは何が言いたかったの?」
言われて、「ああそういえば」と遅れて気づいた。
そうだ、『月収五千円』呼ばわりで横道に逸れたけれど、元を正せば、鷹志の方から話しかけたのだ。
鷹志は虚空を見つめ、先に頭にあった言葉を思い出すと、
「そろそろこうして、毎日一緒に行くのも卒業しようかと思って」
と告げた。
今歩いている道ーーーーここをあと数十メートル進み、突き当たりの十字路を左に曲がれば、およそ百メートル先が、鶫が通う中学校である。
そしてその中学校は、鷹志が通う高校までの道のりーーー要は通学路の途中に位置しているため、必然的に鷹志が高校に行く時には、中学校の正門前を通ることになる。
なので、徒歩通学である鶫に合わせ、鷹志も自転車を押して歩きながら、中学校で別れるまでは、二人揃って登校するというのが、水無ヶ谷兄妹の毎朝の日課となっている。
何故そうなったのかは、今でははっきりと思い出せない。気づいたらそうなっていたとしか言えない。
小学生の頃は班編成というシステムがあったので仕方がなかったが、鷹志が中学校に入学した後も、二人は並んで通学路を歩いていた。
鶫が中学校に入学した後も、一年後、鷹志が高校生になってからも、それは同じ。
だがしかし、今は五月。
四月の新学期を迎えて鶫も中学三年生になり、鷹志も高校二年生になった。
流石にこの歳になってまで、兄妹二人で登校ーーーまあ、途中解散という形ではあるがーーーをするのは如何なものかと思っていたのだけれど、進級して一ヶ月以上が経過した今日この瞬間も、二人は並んで歩いている。
言葉にすると妙に気恥ずかしく、若干声を小さくした鷹志だったが、それを聞いた鶫の反応は、あっけらかんとしたものだった。
「え? 何で?」
純粋な『疑問』がそこにはあった。
「何でって……いや、ほら、僕らももう大人だし」
まさか素の疑問を返されるとは思っておらず、鷹志の口はしどろもどろになってしまう。
「大人だし?」
末尾を反芻する鶫。
その顔は、未だに理解出来ていない様子だ。
「だから、ちょっと兄妹で登校するのはどうなのかなと……」
「えー、そうかなー?」
鶫は眉根を寄せて、うんうん唸っていた。
「逆に聞くけど、お前は嫌じゃないの?」
「んー、別にー」
明らかに返事の言葉が足りない気がするけれど、その様子を見るに、どうやら『別に嫌いじゃない』の意味らしかった。
「だって、今までずっとこうしてきたわけだし。それを今更変えるのもなんか変っていうか」
「まあ、確かに変えるのは変だけれど」
「そういう意味じゃない」
今度は乗ってくれなかった。案外鶫の採点は厳しい。
「それとも何? お兄ちゃんは嫌なの?」
そう言うと、鶫はこちらをじろりと睨んできた。
「………や、嫌っていうか、まあ」
「嫌なの?」
「………イヤジャナイデス」
迫力ある眼光に気圧され、そう言わざるを得ない鷹志だった。
だがまあ、鶫の方にはこの日常をこれからも続けていく意思があることはわかった。
意思と言うよりは、あるいはそれは単純に日々の習慣の一部なのかもしれないが。
朝起きたら「おはよう」を言うように、ご飯を食べるように、顔を洗うように、歯を磨くように、鶫は兄と学校に行く。
そういうものなのか。
そう考えると、変に意識してしまっている自分の方が恥ずかしくなってくる。
現に、横を歩く鶫には、『恥』は全く見受けられなかった。
「………」
「………」
それからは特に会話らしい会話もなく、二人は黙々と通学路を歩いていく。
等間隔で並ぶ街路樹の葉が、朝の心地よい風で揺れていた。
その音に混じって聞こえてくるのは、班列を乱して駆ける小学生たちの笑い声と、其処彼処で少人数のグループを作りながら歩く中学生たちの話し声だけ。
毎朝繰り返される、ありふれた日常の光景だ。
そこには、何の違和感も、嫌な予感もありはしない。
「……なのに、何であんな夢を見るんだろう」
会話に割くリソースを考え事に費やしていた鷹志は、自然とそう呟いた。
昔、夢は人の心を紐解く手掛かりになると、父親に教えられたことがある。
まだ幼い頃の話なので記憶はおぼろげだけれど、確か、現実世界での心理的なストレスが、夢に影響を及ぼすとかなんとか、そんな話だった気がする。
となると、近頃彼が毎日見るあの悪夢は、彼が現実で抱えている何らかのストレスが原因なのだろうか。
それが解消されていないから、毎日同じ夢を見続けているのだろうか。
燃え盛る炎に囲まれた、あの地獄の夢を。
見続けているのだろうか。
「でも、ストレスって言ってもな……」
実際問題として、そもそもストレスを抱えていない人間などいないのだ。
彼にはそう断言出来る、明確な根拠がある。
そして、得てしてそういう人々は、自身を蝕んでいるストレスになかなか自分では気づけないものである。
無自覚のうちにそれらを誤魔化し誤魔化し、上手く折り合いをつけて生きているのだから。
それなのに、そんな意地の悪いストレスが原因となれば、一体どうすれば良いのだろうか。
「……いや」
と、そこまで思考が及んだところで、鷹志は思い出した。
そうだ。夢には、別の解釈もあった。
そう、それは所謂『正夢』や『予知夢』ーーーーーストレスだとか、そういった今現在の話ではなく、何かが起こる前兆という解釈。
つまりは、未来の話。
彼が見た夢は、今後、彼が生きる現実世界で起こる『何か』の前兆なのだろうか。
ーーーそしてそれは、幸運の前兆なのか、それとも不運の前兆なのか。
悪夢の場合、どっちだったっけーーーーと、思考の海に沈んでいた鷹志を引っ張り上げたのは、隣の鶫の声だった。
「着いたよ、お兄ちゃん」
呼びかけに、知らず俯いていた顔を上げると、目の前には中学校の正門があった。
三年間、毎日通った母校の正門。
卒業して一年が経った今でも、毎日目にする正門。
その前では、数人の先生たちが並び、門を通る生徒たちに向けて、元気に朝の挨拶を投げかけていた。
生徒たちの中には、きちんと返事を返す奴もいれば、素通りしていく奴もいる。
「おはよう、水無ヶ谷さん」
年配の女性の先生が、優しく微笑みながら言ってきた。ここには水無ヶ谷は二人いるが、その視線は鶫の方を向いている。
なので、今のは鶫に言ったのだろう。
「おはようございます!」
鶫は前者の生徒だ。
いつも通りに元気な挨拶を返している。
鶫の挨拶を満足そうに受けて、続けて先生は鷹志の方に視線を移した。
「お兄さんも、おはよう」
「……おはようございます」
毎朝繰り返されるやり取りだが、卒業した学校の先生に話しかけられる気恥ずかしさには慣れることがない。
むしろ、年月を重ねるごとに恥ずかしさは増しているように思う。
おかげで、返事も少々ぶっきらぼうになってしまった。
だがしかし、先生はそれにも満足そうに微笑むと、
「それにしても、相変わらず二人はとっても仲良しねえ〜」
と、いつものように言ってきた。
目は生温かいものを見る目だが、全身から、溢れんばかりの『からかい』が出ているのがわかる。
「……じゃあ、僕は行くから」
「あ、うん。行ってらっしゃい」
鶫の返事も待たずに、鷹志は急いで自転車に跨り、逃げるようにその場を去って行った。
ーーーそう。
『二人はとっても仲良しねえ〜』
先生に言われた、あの言葉。
鷹志が兄妹登校を渋る理由には、毎朝言われるあのこそばゆい言葉も、多分に含まれているのだった。
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