鍵屋のトマス・レインボー
亨珈
第1話
トマス・レインボーは、鍵屋である。
鍵屋というと、鍵をなくしたときに開けたり錠前を作ったりするイメージがあるだろう。しかし、トマス・レインボーは違う。
街角で、あるいは公園で、はたまた各家を訪問しては、青い作業ズボンに包まれた四角い尻を向け、赤い帽子の鍔に手をやり、にっと笑うのだ。
「どうぞ、開けてみてください」
出会い頭に尻を向けられて不愉快に思わない人の方が珍しいだろう。たいていの人は顔をしかめて無視をする。気が短い人なら、ふざけるなと怒りの声を挙げるところだ。
トマス・レインボーがいかに無害な笑顔を向けたとしても、この行為が受け入れられることは少ない。ときには興味本位で試そうとする人がいる。しかし、四角い尻についた鍵穴に合う鍵を持っていなくて、そんな場合にもがっかりを通り越して怒りを抱く人が多い。
トマス・レインボーは、常に身体に青あざをこしらえている。
ある日、広い庭の前で、学校にあがるかあがらないかという年齢の男の子が泣いていた。
トマス・レインボーは、そのこの前に腰を落として、いつものように笑いながらお尻を向けた。
初めて見る四角い尻に、男の子の涙は止まり、トマス・レインボーのことばに目をぱちくりと瞬いた。
「開けるって言っても、ぼくは鍵を持っていないよ」
トマス・レインボーは、背中越しに首を傾げた。
「そうかな? ポケットを確かめてみてごらんよ」
そういわれると、もしかしたらと両手を半ズボンのポケットに入れて探らずにはいられない。
いつも何個か入れてあるあめ玉の包みが指に当たり、その下になにやら硬いものがある。男の子はおそるおそるそれをつまんで引っ張りだした。
金色の鍵だ。
男の子はまだ小さいからと、家の鍵を持たせてもらっていない。憧れの鍵を手にして、男の子はそれだけで笑顔になった。
「さ、どうぞ」
トマス・レインボーが声を掛けると、男の子の視線は鍵と鍵穴をいったりきたりしはじめた。
「不思議だな。いつの間にかポケットに入っているし、お尻に鍵なんて聞いたこともないや。でもぼく、そんな場合じゃないんだった」
しょんぼりと曇っていく顔にトマス・レインボーも寂しそうに身体の向きを変える。
「よかったら話してくれるかい。その鍵はきみに必要だからあるんだよ。でも、心から願わないと鍵が開かないかもしれない」
「そうなの。いまはそんな気分じゃないんだ」
男の子はトマス・レインボーに話し始めた。自分はこの家に住んでいて、上に三人の兄姉がいること。自分も弟か妹が欲しいけどそれは無理だから、頼み込んで子犬を飼うことを許してもらったこと。ところが、昨日散歩に行こうとしたときに大きな音を立てて自動二輪が通りかかり、引き綱を付ける前に驚いて飛び出していってしまったこと。
子犬は隣町からもらわれてきて、まだこの町になじみがない。だからきっと帰り道がわからなくて困っているだろう。
男の子は昨日今日と町中駆け回って探したけれど、まだ見つかっていないのだ。
「なるほど、それは心配だね」
トマス・レインボーは、太い眉を下げて悲しそうな顔をした。
「じゃあきっと、その鍵は手がかりだよ。子犬のことを強く思い浮かべながら、鍵を回してごらん。悪いことにはならないから」
「手がかり」
男の子は半信半疑ながらも、藁にもすがりたい思いで鍵を握りしめた。トマス・レインボーは大きく頷いて、神妙な顔つきで尻を向ける。男の子はそうっと鍵を差し込むと、目をつぶって鍵を回した。
かちり。確かに手応えがあり、青い作業着に横長の扉が浮かび上がる。その扉は、外に向かってゆっくりと開いていった。
くうん、と子犬特有の甘い声がして、茶色い物体が扉から飛び出した。男の子がそれを胸で抱き止めて、ぬくもりを確かめる。
「本物だ! 本当にぼくの犬だ!」
ちぎれんばかりにしっぽを振る子犬と男の子はしばらくの間はしゃぎ回り、トマス・レインボーはそれを笑顔で見守った。
ひとしきり騒いだ後に男の子がお礼を言うと、トマス・レインボーは大きく頷いて去っていった。
その日から、男の子は会う人会う人に、鍵屋の素晴らしさを称えて回った。町の人たちは半信半疑で聞きながらも、鍵屋に出会ったら鍵を開けてみたいと考えた。
そうして、トマス・レインボーの元には客が殺到したのだけれど、これまた誰一人として鍵を開けることができない。
男の子のように純粋に願わないと鍵自体が現れない。そして鍵がないと開かないのだから、興味だけの冷やかし客には無理なことなのだが、それは通じない。
たちまち鍵屋はペテン師扱いされ、男の子の子犬を浚った犯人に仕立てあげられて、トマス・レインボーは町にいられなくなった。
トマス・レインボーは、なけなしの荷物をまとめて、歩いて町を出た。どんどん寒さが増す気候になり、人々は外出を控え、ますます鍵屋の仕事はなくなった。
食べ物も手に入らなくなり、もう歩けないとトマス・レインボーが諦めかけたころ、森の中の一軒家に辿り付いた。
煙突から煙は出ていない。人の気配もないから、もしかしたら空き屋かもしれない。
とにかくここで休ませてもらおうと、トマス・レインボーはドアを叩いた。応じる声はなく、何度か叩いていると、なにかの物音が聞こえた。
おそるおそるトマス・レインボーがドアを押してみると、ぎしりと音を立ててドアが開く。鍵がかかっていなかったらしい。
昼間なのに外は曇っていて、建物の中は更に薄暗い。けれど、ドアを閉めると寒さがやわらぎ、トマス・レインボーは肩の力を抜いた。
物音の正体を突き止めるにしても暗すぎる。自分の荷物の中からカンテラを取り出すと、トマス・レインボーは明かりを灯した。
外から見たまま、丸太作りの小屋である。小さなテーブルと椅子が二脚に水屋、暖炉に火種はなく、一番奥にあるベッドがこんもりと盛り上がっていた。
「勝手にお邪魔して申し訳ありません」
鍵が開いていたとはいえ、ひとの家に無断で侵入している後ろめたさは拭えず、トマス・レインボーは頭を下げた。
さすがに今度は何か反応があると思ったのだが、しばらく待っても布団が動く気配はない。疲れきっていてすぐにでも腰を下ろしたかったけれど、トマス・レインボーはカンテラを掲げてベッドに近付いた。
枕の上に銀髪の小さな頭が覗いており、トマス・レインボーはそっと少しだけ布団をめくってみた。
両目を閉じた皺深い顔はぴくりとも動かないが、わずかに呼吸の音がする。布団を戻すと、あらためて部屋の中を見回し、食料らしきものが見あたらないと知る。水場は入り口の近くにあったので、手押しポンプで水を汲み上げ、水屋からカップを拝借してベッド脇へと戻った。
「おくさん、おくさん」
呼びかけながらトマス・レインボーが手の甲で老婆の頬に触れると、ようやく彼女が瞼を上げた。
トマス・レインボーが背中を支えて起こし、枕の位置を変えてヘッドボードに凭れられるようにすると、老婆は彼の手から水を飲み干した。
弱々しい光を灯した目が向けられ、
「あんたは?」
と問われる。
「鍵屋のトマス・レインボーです」
と答え、上がり込んだ無礼を詫びると、老婆はゆっくりと首を振った。
「いいや、ありがたいことだよ。もう誰にも会わないまま、この世からおさらばすると思っていたからねえ」
夫が亡くなってからもう長いこと誰とも話をしていないと言い、誰かに看取られるのも悪くないと老婆は笑った。
「あなたはそれで満足なんですか」
トマス・レインボーの問いに、老婆は頷いた。
「子供たちは成人して家庭を持ち、町で楽しく暮らしている。今更ここを離れて新しい場所へ行きたくはないよ。それに、そろそろあの人にも会いたいしねえ」
儚く笑う老婆が、トマス・レインボーには輝いて見えた。
ああ、このひとは人生に満足している。自分はまだ納得のいく仕事ができていないのに。
それさえできれば、自分もこの老婆のような笑顔が浮かべられるかもしれないと、ぐっと拳を握る。
「おくさん、鍵を開けませんか」
訝しげにする老婆に尻を向けると、老婆はしきりと感嘆の声を上げた。
「へええ、長く生きたと思ったけれど、四角い尻なんて初めてお目にかかったよ。ましてや鍵穴が空いてるなんて」
でも鍵は持っていないねえと残念そうに言うので、トマス・レインボーはもう一度老婆と向き合った。
「無くしたものや、大事なもので、今ここにないものはありませんか」
すると老婆は考え込み、ぱちりと目を瞬いた。
「失せものといえば、あのひとと結婚してここに家を建てたときに手紙をどこにやったのかわからなくなってねえ」
初めてのデートの誘いだったのだと懐かしそうに言う。諦めていたけれど、それを持ってあのひとと会えたらどんなにか幸せだろうと言って、老婆は枕に沈み込んだ。
「おくさん、諦めないで、その手紙をもっと思い出しながら、手をぎゅっと握ってみておくれよ」
「でももう何十年も昔なんだよ」
「それでもいいから。おくさんの願いが強ければ、奇跡は起こるよ」
これが自分への最後の頼みかと思えば、老婆はトマス・レインボーの言葉に反対する気持ちもなく、言われた通りに念じた。
心はみるみる少女時代に遡り、若々しい恋人と頬を染めて見つめ合う自分を俯瞰する。微笑ましくふたりを眺めていると、手の中がじんわり温かくなった気がした。
「まさか」
老婆は皺だらけで枯れ木のような手を布団から出し、ゆっくりと開いた。もうすっかり暗くなった部屋で、カンテラの炎に照らされて金色に輝くものが手の中にある。
トマス・レインボーは大きく頷くと、また彼女に尻を向けた。ぼうっと浮かび上がる鍵穴に、震えながら彼女は鍵を差し込んだ。
鍵が回ると同時に扉が開き、内側から風に乗って何かが舞い、彼女の目の前にふわんと着地した。
「ああ、ああ、まさにこの封筒だよ」
さっき飲んだ水の分ほどにも老婆は涙を流し、取り出した便せんに何度も目を通してから胸に押し抱いた。
「ありがとうね、鍵屋さん」
何度も礼を言う老婆の姿が、光に包まれて少女になっていく。
それを見て安堵したのか、疲れを我慢できなくなったトマス・レインボーは、ベッドの脇に座り込み顔をベッドにうつ伏せた。
数日後、老婆の息子夫婦が訪れたとき、室内にはかちこちに固まったふたりの姿があった。
ふたりとも、とても幸せそうに微笑んでいたという。
了
鍵屋のトマス・レインボー 亨珈 @kouka_
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