きみに会うための440円

青い向日葵

きみに会いに行こう

「きみに会うための440円」。ぼくは、今度書くことになったコラムのタイトルを確認すると、ノートパソコンの電源を落とし、ぐいっと肩を回してから、出掛ける前に、歯を磨いた。


 440円か。例えば、何だろう。

 きみとの待ち合わせ場所まで行く電車賃だとか、駅前の喫茶店に入ってゆっくり話をする為のお茶代だとか。或いは、普段よりちょっぴりお洒落して出掛けたいぼくの一等お気に入りの柄シャツのクリーニング代であるかもしれない。ぼくが普段利用するクリーニング店ならば、カジュアルシャツの料金はぴったり税込440円であるのを不図ふと思い出した。


 440円では煙草も買えなくなってしまった現代において、侮れない八枚の硬貨。

 何となく、使い込んだ財布の小銭入れを覗けば、ちょうど百円玉と十円玉が四枚ずつ、そこに控えているじゃないか。ほかに五百円玉が一枚と、五十円玉は二枚ある。五円玉と一円玉は入ってなかった。

 今日は何だかやたらと良い天気だし、のんびり歩いて行って、あの駅前の喫茶店のよく冷えたアイスコーヒーを飲むのもいいな。そろそろ暑さを感じるようになってきた頃だ。


 そんなことを考えていると、きみから、ぼくの携帯端末スマートフォンにメッセージが届いた。



 ──出掛ける用意は出来たんだけど、家の鍵が見つからなくて。探してから行くから、もしかしたら少し遅れるかも。ごめんね。



 やれやれ。慌て者のきみは、いつだってアクシデントの連続だ。そんな賑やかさも個性だと思って、もう今では驚きもしないくらいに慣れてしまったが、一人暮らしの家の鍵を失くしたとは随分と物騒なことだな。


 ぼくは予定を変更して、きみの家までぼくが訪ねて行くことを提案した。鍵を探すのを手伝う為に。尤も、ぼくが辿り着くまでに見つかっていれば、それはそれで寧ろ、そのほうが良いのだが。

 そのような趣旨の返信を送ると、きみは、ごめんねと汗の絵文字を挟みながら盛んに繰り返して、ありがとうと大きな文字の入った猫の絵のスタンプを続けて送ってきた。


 よし、決まりだ。

 きみの家は、待ち合わせの予定だった駅前から、少し歩いた所にある。だから、どの道ここからの電車賃は440円だ。


 きみに会いに行こう。

 きみの家まで行こう。


 晴れ渡る青空を見上げながら、ぼくは、きみの保護者になったような少しばかり誇らしい気持ちで、切符を買い、快速の電車に乗った。


 喫茶店の香り高いコーヒーも好きだけど、きみの家のインスタントコーヒーだって、きみが心を込めて淹れてくれれば世界一美味いことを、ぼくは誰よりも知っている。きみが、いつかぼくの為に、お揃いのデザインのカップを新調してくれたことも気づいていた。


 小銭の減った薄くて軽い財布をポケットに仕舞って、ぼくは、すっかり白紙になった今日の予定をもう一度あれこれと練り直しながら、大好きなきみの家に向かって、乗客の少ない休日の朝の電車に揺られて行った。


 ありがとう440円。

 きっと今日は良い一日になる。

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