アスター、君はもういない。

霜月こまつ

終わっていく、やさしい音


 私は、静かに目を閉じて溜め込んだ息を大きく吐き出した。手に持っていた小さなキャンパスノートを閉じ、温もりすらも感じない助手席へと放り投げる。あとは、私の座る運転席のヘッドレストに引っ掛けたロープに首を通して、力を込めるだけ。それで、全てが終わっていく。


 幸せだった時間、幸せだった気持ち、幸せだった温もり。当たり前に感じていたその全てを自ら手放し、二度と手に入れられない現実に終わりを告げる。


 あの日にこうしていればとか、あの時にこう言えていたらとか。素直になれたら、わがままになれたら、強がりを捨てられたら、甘えを受け入れられていたら。そんなことを後悔していてもキリがなくて、罪悪感と空虚感で胸がいっぱいになる。


 私は、私が、涙を流すことすら許せない。

 苦しむこと、悲しむこと、喜ぶことも許せない。



 思い返してみる。私が、彼に出会った頃を。


 自分の好きなことに夢中で、飾らない、優しい性格が大好きだった。少し伸びた前髪から覗く細い目が、しっかりと私を見つめていた。そして、優しく微笑んだ。パーカーのポケットに入れていた両手はきっと少し震えていたのかな、なんて考えると、すごく愛おしい気持ちになっていたあの日。


 気付けば毎日のように枕元に携帯を置いて待っていた着信。声を聞けば嬉しくて、私の名前を呼ぶたびにそんな彼の顔が浮かんで、すごく幸せな気持ちでいたあの頃。出会ったばかりの頃は電話越しにしりとりなんかして、「る」が回ってくるたびに笑って、「ルービックキューブ」と言った彼に、本当に天才なんじゃないかって言って笑ったあの日。


 旅先でどこか様子のおかしい彼。普段は持っていない青い巾着袋を大切そうに握り締めて、私に触れさせることも許さなかった。慣れていないサプライズを仕掛けようとする彼に少し緩んでしまう口許を隠して、気付いてないふりをして。それでも種を明かされたら、泣いてしまうほど嬉しかったあの日。


 こんなにも綺麗な思い出をくれた彼を、どうして一度、二度、三度も、手放してしまったのだろう。



 怖かった。誰にも愛されたことなどなかった私を、これ以上無いほどの暖かい愛で包んでくれたことが。誰も愛したことがない私が、こんなにも愛してしまっている事実が。


 逃げた。自分の欠点を見つけられて嫌われるのが嫌で、大好きな彼の欠点を愛せない自分が嫌で、これ以上近づいてはいけないと、逃げていた。


 勘違いしていた。どれだけ私が離れても、気持ちはここにあると。都合よく求める私を、彼はいつも出迎えてくれると。優しすぎる彼の愛に、頼りすぎていた。


 愛されたかった。もっと、もっと、求められる自分になりたかった。


 すごくわがままだったと分かる。今以上、これ以上を、求めすぎていた。愛や優しさには限りがない。今あるもので満足できないほど、私は彼を求めてしまっていたと思う。お互いに同じ場所から出発をした気持ちはいつの間にか迷子になって、ゴールを目指しながら私を探す彼と反対に、私は非常口から逃げては先回りして、来ない彼を見捨てていた。


 後悔。そんな言葉では、片付けられない。


 彼と離れ、違う人生に手を伸ばす彼を見て、嬉しいなんて感情はひとつも芽生えなかった。私が行けと、進めと促した道に行こうとする彼に、物分りが良すぎると思った。でも、三度目の正直だ。私が二度と戻らないと、彼は私を諦めた。捨てることができない彼は、私を傷つけないようにと言葉を選び、行動を選び、愛はなくともいつだって私の気持ちを優先してくれていた。


 思い出すのは、笑っている彼ばかり。



 あれほど認められず許せなかった欠点すらも愛おしく、その全てを愛していた事に気付くには遅すぎた。嫌なところと認識していた性格さえも、今となっては長所にすら思える。どうして、なんて。彼が一番聞きたいことを、私が思ってしまえば罪だ。


 もう一度、今でもそう思う。また愛してもらえるのであれば、もう同じことは二度と繰り返さないと約束できる。今までひとつも約束を守れなかった私の言葉を彼が信じるとは思わないけど、もう一度があるならば、必ずその約束を果たすことが出来るのに。


 でも、叶わない現実を、知っている。だから私は、今日を迎えた。

 私が存在する限り、私は彼を愛してしまう。いつまでも彼の進む道を応援できず、戻っておいでと肩を叩いてしまう。突き飛ばして突き放した背中を、もう二度と、嘘でも、優しく押すことなど出来ない。



 君は嫌がるだろうね。自分のせいで死んでいく私を、恨むよね。自責の念に一生苛まれてしまうかもしれない。でも、違うんだよ。私は、私を、許したくない。

 小説やドラマに出てくるような台詞は実際に口にするとうそ臭いけれど、一生に一度の大恋愛だったと、言いたい。出会って、恋をして、深く愛して、喧嘩を繰り返し別れを繰り返し、でも、やっぱり、君がすごく好きだった。誰よりも何よりも、君には幸せであってほしい。相手が自分でないことが悲しいけれど、これは、きっと運命だよ。私が消えていくことも、君が彼女と幸せになることも、最初から決まっていたと思えば、救われる。




 怖くないよ、ひとつも怖くない。

 私は君といない未来を生きるほうが、よっぽど怖いんだ。



 だから、今、なのだ。


 ゆっくりとロープを手に取り、頚動脈に当たるように取り付けた硬いスポンジをそこへ宛がう。そして閉じていた目を開け、零れた涙はもう拭わない。



 ごめんね、さようなら。

 これが私の、最後のわがままです。


約束を守れない私を、どうか許してほしい。





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