夕凪に想ふ

水月

第1話

-夕子が亡くなって、1年も経ったか。


夜がすっかり更けた玄関先で黒いネクタイを緩めると、今までピンと張り詰めていた緊張が解け、意識していなかった疲労がずしりと両肩にのしかかる様に感じられた。朝から親戚の相手だけでもずっと気を張っていたのだ。疲れていない方がおかしいくらいだ。葬式のように身内以外の人間は一周忌にはほとんど来ないのだから、多少はマシだろうと思っていたのだが。親戚縁者とはそれなりに上手くやっている気でいたが、やはり自分の親父を相手にするのとは訳が違う。迷惑のないようにとあれこれ気を揉んでしまうものだ。人前に立ったり、仕切ったり、そういったことが昔から苦手だったのだから、いくら老いようと苦手意識は変わらない。それでもなんとか一周忌を迎えられて、自分では納得のいくように終えることができたと思っている。それだけでも、ここ1年でいえば大きな進歩だといえるだろう。


*******************


1年ほど前、妻が亡くなった。


自宅で倒れ、帰省中だった娘が程なくして見つけ病院へ搬送されたものの、長くは保たなかった。脳卒中だった。帰省していた娘たちと計画していた旅行の前日であった。

突然の出来事に親子共々混乱し、白く無機質な病院の廊下で、床を見つめて押し黙るしかなかった。それまでの妻に病魔というものは無縁だったのだ。楽しげに、旅行鞄を広げて支度をしていた後姿が目蓋の裏にちらついた。なぜ、このタイミングで。娘たちもそう思っていただろう。

「道後温泉なんて何年ぶりかしら、学生だった頃に行ったっきりなのよ」

それが、最後に聞いた妻の言葉だった。


それから、妻の意識が戻ることはなかった。まるで眠っているように目を閉じたまま、数日後にひっそりと息を引き取ったのだった。


妻が亡くなった直後の私は、目も当てられないくらい酷い有様だったらしい。飯はちっとも喉を通らず、何かをする気力もなく、日がな一日横たわって抜け殻のような日々を送っていた。カウンセリングも幾度となく受けたが、これといって芳しい成果は得られなかった。娘たちは何とか立ち直らせようと、あれこれ家から連れ出そうとしてくれたが、綺麗な景色も、美味い飯も、大好きだった酒ですら、私の心を揺り動かすことはなかった。娘たちは、虚ろな目を宙に向ける、人形のような父の姿に大層ショックを受けただろう。しかし、娘たちが巣立ち、定年退職を迎えた私にとって、妻はそれだけ大きな存在だったのだ。

性格も育ちもまるで違ったが、数十年という長い年月を過ごす中で、幾度となくその気丈さと優しさに支えられてきた。情けない話だが、二児の父という立場にあっても、私はいつまでも年端も行かぬ少年のようにまごつくことが多く、特に育児に関しては散々であった。あやしているはずが大泣きさせて、挙句自分まで涙目になるなど、喜劇役者のように滑稽な失敗ばかりしていた。妻というのは大抵こういう場合、情けない夫を叱り飛ばすか、呆れ返るかのどちらかだと思うが、そんな時妻は苦笑しながら、

「何もかもやろうと無茶はしなくていい、貴方の得意なことで助けて欲しい」

と告げるのであった。

「あやすのは苦手でも、ご飯を食べさせるのは上手いでしょう。お互い足りない部分を補うのが夫婦なのだから、たとえ出来ないことがあっても怒ったりしないわ。私が貴方に我儘言って甘えるように、貴方だって頼っていいのよ」

私としては、毎日育児に追われる妻の負担を極力減らそうと、何とか努力しているつもりであったが、力みすぎて空回りしているのも事実であった。妻はそれを見抜いていたのだ。柔らかな物腰ながら、その実他人のことをよく見ている女性だった。だからこそ、この女性を妻にしたいと思うほどに惚れ込んでしまったといえる。


********************


ナァ、と甘えるような声に我に返ると、一対の蜂蜜色の瞳がこちらを見上げていた。

「凪、すまなかったな。大分待たせてしまった」

艶のある黒い毛並に、蜂蜜色の瞳を持つこの猫は、"凪"という。妻の忘れ形見で、今となっては唯一の同居人だ。帰りを待ちくたびれて居間のソファでうたた寝していたのか、顔の左側の毛が寝癖でペシャンコで、端正な顔つきがおかしなことになっている。それでいて澄ました顔をしているのが可笑しくなって、思わずクツクツと笑みが溢れた。美人が台無しだ、と身を屈めて手櫛で整えてやると、手の感触に目を細めてゴロゴロと満足そうに喉を鳴らした。


凪を飼おうと言ったのは妻だった。次女が就職を機に上京し、妻と私だけになったこの家で、私は随分寂しそうな顔をしていたらしい。ある日、ちょっと買い物、と言って出掛けた妻は、両腕で抱えられるくらいのプラスチックのケースを手に帰ってきた。

「なんだい、これは。言ってくれれば車を出したのに…」

と、訝しげにケースの中身を覗こうとする私に妻はいたずらっ子のようにニカッと笑った。

「あら、サプライズなのに言っちゃったら意味ないでしょう。ほら、出てきなさいな。今日からはここがお家よ」

そう言って妻がケースに手を掛け、パチンと留め金を外す。やがて、おずおずと中から姿を現したのは、小さな黒猫だった。闇夜のような黒い毛に、満月のように煌めく瞳。生まれて間もないだろう、どこもかも華奢で未成熟な身体ではあったが、綺麗な子猫であった。

「驚いた?とても綺麗な子でしょう」

拍子抜けして呆けたように猫に釘付けになっている私に、妻は満足げだ。なるほどサプライズとはこのことか。どうりでコソコソ出掛けたはずだが、今まで猫を飼いたいなんて、妻の口からは聞いた事もなかった。

「しかしなんでまた猫なんて」

足元でミュウミュウか細げに鳴く生き物に、困惑しながら呟くと、

「だって貴方、鈴香が家を出てってから、すごく寂しそうだったんだもの。だからこの子はもう一人の娘に、と思って」

妻はそう言って、黒い子猫を抱き上げて、まるで少女のように笑ってみせたのだった。


ねだられるままに、小皿に煮干をいくつか盛って凪の目の前に置いてやる。餌はもう既に食べているが、この時間までひとりぼっちで留守番させてしまったのだから、これくらいは許されるだろう。凪は嬉しそうに一声鳴くと、夢中で小皿にかぶりついた。カリカリと小気味良い音が響く。

-まさか今では、娘以上に愛しい存在になるなんて思わなかったな。

あの日、妻は寂しさを埋めるためだと言って凪を我が家に連れてきたが、実のところ、自分にもしものことがあった時でも私が生きていけるように、凪を飼うことにしたのではないだろうか。娘の巣立ちだけで気落ちしていた私のことだ、もしものことがあれば生きる気力すら失くしてしまうかもしれないことは容易に想像できるだろう。実際、凪の存在は悲しみを和らげてくれた。大切な者を亡くした悲しみに、凪はそっと寄り添って側に居てくれた。それがありし日の妻の姿に重なって、私は凪を抱き締めて何度も泣いて、腕の中の温もりに安堵した。


「凪、夕子に会いたいかい」

煮干を平らげた凪にそう問いかけると、首を傾げてこちらを見やった。今まで法事や墓参りに凪を連れて行くことはなかった。しかし、妻が亡くなって1年のこの節目に、同じく妻を慕っていた凪にだって、妻を偲ぶ権利はあると思ったのだ。凪だって、ある日突然妻がこの家を去ったまま帰らないことを疑問に思っていない筈がない。妻が亡くなった頃、扉や窓の前で座り込んだまま動かない背中を思い出す。言葉が紡げなくても、涙を流せなくても、きっと凪だって悲しかったのだろう。

凪はやがて、ナゥ、と短く鳴いて私の足元に擦り寄った。連れて行って、とそう聞こえた気がした。

「分かった。今日は遅いから、明日になったら綺麗な花を持って、会いに行こうな」

抱き上げた身体は変わらず温かで愛しくて、私はしばし凪を抱えたまま立ち尽くして、窓辺に浮かぶ月を眺めていた。


********************


次の日、私は凪を後部座席に乗せて、郊外の寺社へと車を走らせた。元々あまりヤンチャをしない、手のかからない子ではあったが、この日は特に神妙に座席に座っていた。花屋に寄るために抱き上げた時に、短く鳴いたくらいだった。

華やかな街並みを抜けてずっと走っていくと、やがて新緑の眩しい川沿いの道に抜ける。五月晴れの青空が川面に映っていた。生前、夕子はこの川沿いの道を散歩するのが好きだった。特に春先は薄紅の花をつけたソメイヨシノが頭上に枝を伸ばし、まるで別世界のような景色に様変わりする。この辺りは花見客もあまり来ないから、我が家の定番の花見スポットであった。

古めかしい門を潜り、急な坂道をグングン登っていくと、小綺麗に整備された寺に辿り着いた。車を止め、載せていた線香やら花束やらを入れた紙袋と共に、凪を抱き上げてやる。川辺から吹き上がってくる爽やかな風に、凪は目を細めて心地良さげに鳴いた。

寺の正面から横手に伸びる道の先、墓地の奥手に妻の墓がある。墓地の中には清冽な小川が流れており、生前墓を建てるならこの川沿いがいいと言っていた、妻の希望たってであった。

昨日の法事の際に、娘たちと共に墓掃除をしていたので、挿してある榊と共に、買ってきた花を生けてやる。妻の好きだった薄紫のフリージア。仏花ではないが、花屋で選んで持ってくるようにしていた。菊や榊ばかりでは、墓周りが寂しく思えて、たまには綺麗な色も見せてやりたかった。

「夕子、今日は凪を連れてきたぞ」

そう墓石に語りかけると、傍らで邪魔にならないように座っていた凪を抱き上げて、墓の前に立たせてやった。凪はじっと、目の前の墓石を、生けられた花を、煙の立つ線香を見つめている。サア、と爽やかな一陣の風が吹き抜けた。

次の瞬間、私は目を疑った。

凪は1回、2回、瞬きをした後、ナァ、と鳴き、花の生けられた墓石に寄り添った。猫には5歳児程度の知能が備わっていると聞いたことはあるが、まるで妻を悼むような行為であった。私が手を合わせ、墓石に語りかけていたのを真似たのかもしれないが、その光景は私の心を強く打った。

「凪…お前もやっぱり、悲しかったのか」

そう呟く私の前で、凪は随分長いこと墓に寄り添っていた。


寺を出て、かつて妻と歩いた道を凪を抱いて歩いた。木々の合間から降り注ぐ木漏れ日が眩しい。

「凪、今まで夕子の代わりに俺を支えてくれてありがとう」

そう語りかけると、凪は腕の中で身を捩って、私を見上げた。木漏れ日を反射して、瞳がキラキラと輝いている。

「凪、これから時間の許す限り、一緒にいろんな場所に出掛けよう。夕子の分まで、俺はきちんと自分の時間を生きようと思うんだ。お前も、一緒に来てくれるだろうか」

私の言葉に、凪は返事するように短く鳴いて、頬を擦り寄せた。


夕子。

凪を俺の側に遺してくれてありがとう。こんな不器用な男と連れ添ってくれてありがとう。こんなものではとても礼を尽くせぬほど、沢山の愛しいものをくれて、ありがとう。

お前といたこれまでも、凪と過ごして行くこれからも、俺はきっとこの上なく幸福だ。


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