雨の上がる日

 五月。

「……。」

 雨が好きなオレにとって、この時期は、一年の春夏秋冬に用意された一つの休憩地点であった。

 春に和み、夏に遊んで、秋に休んで冬に遊ぶ。この生態はオレに限らず、大学生という身分であれば広く一般的なリズムであるはずだ。オレもまた右に倣い、一年はそのように過ごす。

 だけれど当然、そこには一抹の不安もある。

 ……遊んでいていいのか、と。もっとすべきことがあるのではなかろうか、と。

 そういった不安が、オレの背後を、影のように一年の四六時中を付きまとっている。それでもオレが何もできずにこうしているのは、畢竟、「すべきこと」とかいう何かがいまだ不明であるためであった。

 春に和み、夏に遊んで、秋に休んで冬に遊ぶ。

 すべきことも分からずに足掻くくらいなら、春夏秋冬をそれぞれ楽しむ。そっちの方がずっと正しいし、ずっとクレバーで、そしてずっと上手な生き方であることは語るにも及ばない。

 だけれど、それでも、日々を楽しんで生きるオレの耳元には呪詛が響く。いつも響いている。

 オレはこの時期、この、夏を待つ時期になると、

 決まって必ず、来たるべき楽しむべき夏を恐れ、五月の雨音に安寧を覚えているのだ。




 予報曰く、ゴールデンウィークを長く覆っていた雨雲は、今日途切れるらしい。

 ……しかしながらその雨雲の足元で傘を差すオレからすれば、晴れの兆しのようなものは一つも見当たらない。街には、今朝の天気予報を真に受けた連中が勇み足で飛び出してきたようで、雨空の下、大型連休らしい活気や喧騒がそれなりに見て取れた。

 雨音が好きなオレは、翻って、人の喧騒が苦手だった。

 自然音以外の音は、出来る限りない方がいい。そのため今日は、両耳にイヤホンで蓋をして、音楽の代わりに外の、くぐもった自動車の走行音をBGMとして街を歩いていた。

 散策ではなく、この道程には明確な目的がある。

 ゆえに、道すがらをのんびりと楽しむつもりはない。俺は見慣れた道を、ガラス玉となった瞳で以って、つまりは瞠目するのと変わらない感情で、ただ歩く。

 ただし、

 この先に一つ、寄る場所がある。

 この目が、何も映さず照らし返すようなやる気のない有様であっても、そこに行くのだけは忘れてはいけなかった。

「……、……」

 この街の主要駅の最寄り。そこには、この辺りではぐっと数の減って来た「喫煙所」がある。何某チェーンの牛丼屋に併設されたもので、オレはよく、牛丼も食わずにここの喫煙所だけを借りている。

 今日も、そのつもりである。

 時刻で言えば、昼食時は少し過ぎている辺りか。店内にはまだそれなりの人気が見受けられる。これならば、店のスタッフに見つかって嫌な顔をされることもあるまい。

 広くはない軒先に這入り、そこでまずは、壁を借りて傘を立てる。

 両手が空いて、手荷物から煙草を探り始めた頃、……食事を終えたらしい男性が、灰皿の方へと歩み寄って来た。


「……、……」

「……、……」


 歳は、およそオレの二倍くらいであろうか。五十代程度に見える、働き盛りらしい男性だ。妙にすっきりとした雰囲気を持っていて、すっと伸びた背中には柔らかな存在感がある。この男性とは、妙な縁で、オレがここの灰皿を拝借するときにはそれなりに見る顔であった。

 しかし、話しかけるほどの縁では、無論ながら無い。

 手荷物から探り取った煙草を加えて、口元に片手をかざし、軽くなってきたライターを二、三擦る。

 ……、二、三擦る。

 …………、二、三擦る。

「(かしゅ、かしゅ)」

「もし、よければ」

 ……隣人が見かねたらしい。例の男性が、オレの方にライターを出してきた。オレはそれで、半ば無意識に男性の方を見た。

 老犬のような、それは相貌であった。口端のしわに沿うように上がる紫煙が、その疲れた表情によく似合って見えた。

「あ、どうも」

「いえ」

 イヤフォンを付けたままでは礼を失していると思い、俺は耳の栓を外してライターを受け取る。どうやら買ったばかりのモノらしいそれが、驚くほど鮮やかな火を吐き出し、俺のキャスターに火種を移した。

「……よく、見る顔ですよね?」

「え? あ、はい」

 男性の問いに、俺は答えた。そしてそれからすぐに、取り繕えずに苦渋の顔を作ってしまう。……いやなにせ、こちらはただでさえ灰皿を「拝借」しているだけの人間である。コンビニ店員に顔を覚えられるのでさえ面倒な昨今の若者筆頭たる俺としては、この男性と会うのを厭うて、ここの喫煙所に来辛くなること請け合いであった。

 のだが――、

「ああ、いえ。お気持ちは分かります。安心して下さい。私は今日で、この街を離れますので」

「は、はあ」

 俺の苦悩を察したらしい彼が、そう言って申し訳なさそうに目尻を下げた。

「あ、ライターどうもです」

「……良ければ、差し上げます。煙草はこれっきりにするつもりでして」

 男性が言って、セブンスターのソフト箱をくしゃりと潰す。

「ああ、でしたらいただきます。どうも」

「ええ。……しかしお兄さん、いつも昼時に顔を見ますよね?」

「ですね。ゴールデンウィーク中は特に、毎日ここの灰皿を借りてます」

「成程。しかし、食事はなさらない。なぜなんです?」

「あー、ははは」

 その真正面からの物言いに、オレは思わず苦笑を作る。

「ああ失礼。単なる好奇心でした。お気を悪くされたなら、そのライターで手打ちにしてください」

「参ったな。タダより高い物はないって言うけど……」

 オレがそう茶かすと、男性が、表情をふっと緩めた。

「……単に、カネがないんですよ。自分学生なんで、若さに任せて食費を切り詰めてるんです」

「そうでしたか。私も若い頃はよく言われましたね。カネが無いならまずその煙草をやめろって」

「はは、心当たりあるなぁ」

 くたびれた顔から出る予想外のユーモアに、オレは素直に笑ってしまう。それが、俺の語りを軽やかにしていく。

「毎日決まって、会いに行っている人がいるんです。片道四百いくらでね。これはまあ、煙草と同じくらい大切な人なんで、煙草と同じくらいやめられない。だけど、どうにもお金はね」

「毎日なら、定期でも使ったらいかがです、……というのはおせっかいかな?」

「いいえ、気にしません。……定期を買えばいいのは分かってるんですけど、どうにもあと一歩の踏切りがつかなくて」

「?」

「……会っても、うまくいかないんです」

 そこで俺は、一つ紫煙を吐く。

 軒先の奥の雨の中へ、それが紛れて消えていく。

「大切な人だけど、うまくいかないんです。そいつと会ってる時間より、会ってない間の方が、そいつのことを大切に思えるってくらいにね、うまくいかないんです」

「……、……」

「……妙なことを言いました。すみません」

 もう一つ、吸って、吐く。

 一条の紫煙が、同じように消える。

 そこに、――もう一筋の煙が紛れた。

「いいえ。私にも心当たりがあります。そう言ったことであれば」

「……、」

「良ければ一つ、先輩からのありがたいアドバイスでもいかがです?」

「はは、なんですかソレ」

「説教とは言いません。ひとつだけ」

 彼の、その柔らかな口調には棘というものがない。

 ゆえにだろうか。オレは大した気負いもなく、その言葉に首肯を返した。

「聞かせてください」

「ありがとう。では、一つだけ」

 彼が、煙草を吸って、

 ……それからこほんと、咳ばらいを一つ。

「大切な人と会うときに、空腹ではいけない。どれだけ幸せなことがあっても、或いは自分がどれだけ幸福でも、空腹じゃそれには気付けません。ですから、――これをあなたに」

 言って彼が、コートの内ポケットを探る。

 そうして取り出したのは、

「……いや、これは流石に」

 くすんだ色の、五百円硬貨であった。

「お金はいただけません。やめてください」

「……正直なところ、これは私が次の煙草を買うつもりで用意していたお金なんです。これを持っていると、せっかくの禁煙の覚悟が駄目になってしまう気がして。それに――」

「……、……」

「それに、私もあなたに一つ、教えていただきました。私がどうして、この店に来ていたのか」

「?」

「私ね、実は、あまり牛丼というものが得意ではなくて」

 その言葉にオレは、表情にこそ出さずとも少しばかり驚いてしまう。なにせ、この男性はここのところ毎日この店で、背中を丸めて牛丼をかき込んでいたはずだ。

「それは、どういう……?」

「空腹をね、きっと、私は満たしていた」

 満足げに、どこか、力強さの感じられる表情で、彼は言う。

「私の連れ合いが、それはもうおいしそうに牛丼を食べる人だったんです。それで、私もその顔が気になって、最近ずっと牛丼を、……それと生卵も付けて、試していました。しかし、どうにも私はそのおいしさがよく分からない。……昔は、それなりにおいしく食べていた気もしたんですけれどね」

「……、……」

「大切な人と会うときに、おなかがいっぱいであること。これが大切だったんです。自分が幸せであることにも気付けるし、相手を幸せにしようっていう余裕も生まれる。相手といがみ合うのは、今はよしておこうっていう優しさもね。……私は、あの人と会うためにこの店で食事をしていたんです。それに、今気付きました」

 ですから、よければ。

 そう、彼は言う。

 だけれど、

「でも、それはいただけません」

「……、」

「お金は大切にしないと。その五百円は、あなたが空腹を感じたときのためにとっておいてください。それに」

「それに?」

「この店だと、牛丼に卵をつけても五百円じゃあおつりがくる。やっぱりいただけません」

「……そうですか。いえ、思い返せば私は、少し失礼なことをしたかもしれません。どうか、じじいが若者に何かしたくなったんだと、優しく許してください」

 気を悪くしたつもりなどは無い。むしろ彼のその奇妙な自虐に、オレは思わず笑みを作った。

「アドバイスの方だけ頂いておきます。それに、せっかくだから今日は生卵もつけてみようと思います」

「そうですか、出すぎた真似でなければ幸いでした」

「いいえ、どうも」

 そこで、煙草の灰が指根に落ちた。

 気付けば、煙草の火種はもう殆どフィルターの元まで差し掛かるところであった。

「じゃあ、そろそろ失礼します。どうも」

「いえ、こちらこそお邪魔してしまって申し訳ない」

 ばたんっ、と威勢のいい音。見れば男性もちょうど煙草を吸い終えたところのようで、彼が雨中に、傘を広げていた。

「……はあ」

「?」

 それは、……どうやら独り言であるらしい。

 こちらではなく、雨に向けて、男性は何やら呟いている。


「――昔食べた牛丼は、もっと安かった気がするけどなあ」

「(ははは、なんだそりゃ)」


 彼は雨中へ、俺は店の中へ向かって、

 俺たちはそれぞれ、振り返ることもなくその先へ進む。……つもりだったけど、本当に何の気なしで俺は、あの男性の背中を探し、一度だけ振りむいた。


 当然、雨の奥にその背中が見えた。それから、その奥、

 ――灰色の雲は、見れば、その彼方に青空の兆しを映していた。


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