きみに会うための440円
SaJho.
本降りの雨のなか
五月。
俺にとってこの暦は、なんというか、非常に掴みどころのない月であった。
春ではないし、梅雨でもない。春か梅雨かと聞かれれば正直俺としても「どっちかといえば春かなぁ」とは応えるが、しかし「五月って春だよね!」と意気揚々息まき聞かれれば、きっと俺は首を傾げる。無論、「五月って梅雨じゃん!」という質問に対しても同様だ。
俺は、春が好きで、梅雨が苦手であった。
春の終わるこの暦に、或いは、雨の時期の始まるその頃に、俺はどうしようもなく倦怠感を覚える。
俺は、毎年、
この時期になると決まって、いつか降る雨に怯えるのだ。
五月の某日。俺は雨の降る街を歩いていた。
雨音や、雨の雫が靴を濡らすのが鬱陶しく思えて、それに対する反骨精神(?)で以って、耳に嵌めたイヤフォンからは、親の仇の如くドラムを乱打する系統のパンクロックを流している。……それが、この灰色の街の景色と妙にマッチするので、今日の散歩は少しばかり長引きそうな予感がした。
「……、……」
灰色の雲を雨越しに見るのでは、日差しの色で時刻を捉えるのは困難であった。
右手に傘を、左手はポケットに突っ込んで、俺は歩いていて、ゆえに、右手傘側のポケットに放り込んでいたスマホを取り出すのには、やや難儀をする。
そうして果たして取り出したころには、俺の胸から背中にかけてが、まんべんなく湿気ってしまっていた。
――時刻は、13時を少し回ったところ。
日和の悪い大型連休の、とある中日。辺りを見渡せば平素平日とも変わらぬほどに、歩く往来には活気がない。
またそれはコンクリートの内側であっても事情が変わらぬと見えて、いくつかガラス越しに見る飲食店の様子は、どれも一様に閑古鳥が鳴いている。
一方、俺の腹の調子であるが、
「……、」
こちらにも、何やら閑古鳥の兆しがある。
本格的に腹の空くのは、もう少し先になりそうではあるが、
……なにせこの悪天候である。俺は早々に濡れたコンクリートから視線を切って、手ごろな軒先を探し始めた。
――その軒先の心当たりは、実のところ、既に一つ心に決めている。
「いらっしゃいませー」
「……、……」
とある牛丼チェーンにて。
女性スタッフの歓待に、俺は目礼をして答える。歳は、およそ俺の半分ほどの、二十代半ばほどに見えるだろうか。いつ来ても彼女が俺を迎えるものだから、俺はすっかり彼女の顔を覚えてしまっていた。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
「注文を」
はい、と先ほどの彼女が応える。
「牛丼と、生卵」
「かしこまりました」
それだけ言って、俺は彼女の背中を見送った。
それから、背もたれの無い椅子の上で、倒れ込まぬ程度に腰の力を抜く。屋内に入るとイヤフォンの音が少し喧しく思えて、俺はひとまずそれを外し、スマホに巻き付けポケットに仕舞った。
「……、……」
店に人気は無い。
外の曇天をそのまま落とし込んだような、緩慢な空気感である。この街はそれなりに人を内包しているはずで、更に言えばこの店などはそれなりに駅に近い場所にある。幾度となくこの店に訪れた俺としても、これだけ静かなのは殆ど見たことがなかった。
「……、」
少し手持無沙汰に思えて、目前の、メニュー表を手に取る。
見れば、なにやら以前来た時には見なかったメニューが、シートで挟まれて宣伝されていた。……これを頼むことは無かろうが、目の暇を癒すつもりで俺はそれを暫し眺める。
そうしているとすぐに、店の奥から先ほどのスタッフが、俺の注文を持って現れた。
「お待たせしました。牛丼と、生卵になります」
「どうも」
……実のところを言えば、俺はチェーンの牛丼がそれほど得意ではない。
俺は殆ど味わうつもりもなく、生卵を落としたどんぶりを一気にかき込んだ。
そして、
「どうも、ごちそうさま」
「お支払いですね、ええと――」
「ああ、カードでお願いします」
値段は聞かずに、カードを渡す。
そのまま俺は、満腹感に追い付かれて胃もたれを覚える前に店を出、軒先に置かれた灰皿に寄り付いた。
「……、……」
目前には変わらず、すっかり泣きに入った雨空がある。
俺は、この街に来てから買ったセブンスターの14㎜、今日でようやく半分まで減ったそれを取り出し、口に咥え、そして火をつけた。
この街に来たのは、もう一週間も前のことになる。
妻が死んだのが、およそ一年も前のことだ。一年も気を倦ませて、そして俺はようやくこの街、この、妻と初めて会った街に訪れることが出来た。
彼女と初めて会ったのは、もうずいぶんとしばらく前のことである。
その頃は俺も阿保のように強い煙草を飲むが如く吸っていたのだが、その喫煙習慣は、彼女と結婚した翌年にはもうすっかりと消滅していたように思う。今では、煙草など吸ってもむせるのみであった。
過日、俺と彼女はいわゆるビジネスライバルであった。同業他社の競争相手。そのエース双頭と来れば摩擦も甚だしい。日夜どうにか向こうが死なぬものかと呪詛を投げ合っていた俺と彼女は、しかし妙に、この店でよく鉢合わせになった。
彼女は、いつもこの店で牛丼を頼み、それに生卵をつけていた。俺からすればこの店に来る用事など完全に腹を膨らませるのみのためであって、彼女の、うまそうに牛丼生卵割りを食う姿には戦慄を禁じ得ないモノがあった。
そんなにうまいか、と。たかが牛丼だぞ、と。生卵一個で、そうも表情が変わるものか、と。……そう彼女を内心嘲笑っていた俺が、果たして、牛丼生卵割りがなぜだかやたらとおいしそうに見えてしまうまでに、それほど時間はかからなかったように覚えている。癪なので真似だけはしてやらなかったけれど。
「……、……」
紫煙を吐き出す。
ゆっくり吸って、ゆっくりと吐けば、この煙草だってそこまで乱暴ではない。煙が灰を汚す感覚を俺は、昔を思い出すような調子で楽しむ。
目前では未だ雨が滴って、ひときわ大きな粒は、軒先を飛び越えて靴のつま先を濡らす。妙に雨音が大きいことに気付いて、俺は、自分が今イヤフォンを外していることを、遅れて思い出した。
俺は、梅雨が苦手であった。
そこに劇的な理由は無い。子どもがピーマンを苦手なように、論理性抜きで雨が苦手なのだ。しかしこの四季の国日本において、梅雨前線というのは妙に厄介である。
アレは、北上をするわけである。ゆえに俺のような北国からの上京出身は、幼年培った季節感覚を関東での生活で一度破綻させる。
俺の街は、ちょうど今日のようなゴールデンウィークに桜が咲く。学生服を着ていた頃の俺は、ゆえに、ゴールデンウィークと言えば祭りの時期であった。
翻って、ここに来てより、
俺のゴールデンウィークは、ひとしきり雨模様である。大型連休を潰され、そのまま七月までのっぺりと付いて回る雨を、果たして嫌わずにどうしようか。
だけれど、
――だけれど、
「……、……」
彼女は、雨が好きであった。
雨が好きで、牛丼が好きで、俺の好きだった煙草が嫌いで、全く、どうして彼女との結婚生活があんなにもうまくいったのか、俺には今でも分からない。
分からないまま、彼女は逝ってしまった。だから試しに、彼女の後でも追うつもりで、この街に訪れてより俺は彼女の真似をして「あの牛丼」を毎日食べてみた。果たして、隣の芝が青く見えるとは言い得て妙だったらしく、大した味ではなかったけれど。
……結局、彼女に追いつけた気もせずに、ただすらワンコイン未満のどんぶりをかき込むゴールデンウィークだったけれど、
「……、はあ」
煙草が根まで灰に変わり、俺は、それを灰皿に放り込む。
すぐに「じゅっ」と音が立って、紫煙が、途切れるようにして消えた。
俺はそれを確認して、傘を立て、それを広げて雨中に進む。
それから俺は、イヤフォンを耳に嵌めて、
珍しく彼女と好みのあった、とある一曲を選び、それを流した。
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