七回目

「洗濯しなきゃ」涙が乾いて少し痒くなった顎を手の甲で擦っていると、自分の声が微かに耳に届いた。ベッドから降りようとしたが、脳は手足を動かす指令をうまく出せず、立つ事なく足はグニャリと曲がった。床に手をついて俯いているとカチカチと秒針が進む音が頭に響く。ジンジンと痛む頭に神経を集中させて(一、二、三、四、五、六……)と、しばらくカウントしてから、少し冷静になったタイミングで手足に力を入れて立ち上がる。うまく動かない体を洗面所まで運ぶと、もう何度も洗い直した洗濯物を洗濯機に入れて回した。ひどく無表情な自分の顔を鏡に映しながら化粧をしていると善雄(よしお)が入ってきた。

「……おはよう。今日は遅いね」低いテンションのまま鏡越しに幸恵(ゆきえ)の方を見て言うと、自分の番がまだ来ない事を知って洗面所を出て行った。善雄が起きてきた事で、もう朝食を準備する時間がほとんどない事に幸恵は気付いていたが、急がなきゃという思いは頭に浮かぶだけで体まで伝達されず、化粧を終えてキッチンに向かう頃には既に家を出る三十分前になっていた。

「善雄さん、ごめん。今日は朝ご飯間に合わないから何か買って食べて下さい」幸恵はそう言うと申し訳ないといった表情で善雄を見つめた。

「大丈夫。そういう日もあるよ。適当に済ますから」善雄は、さも大した事ないといった様子で幸恵に優しく言うと洗面所に向かって行ったが、思い付いたように立ち止まり、振り返って不安そうに尋ねた。

「もしかして調子悪い? 仕事休む? 」ゆっくりと幸恵に近付き、右手を掴んで体温を確かめながら顔を満遍なく見渡し、異常がないかを確認していく。

「大丈夫、ありがとう。仕事は行くよ」幸恵は掴まれていない左手を善雄の背中に回して軽く抱きしめると、ポンポンと背中を叩いてからすぐに離れ、ちょうど洗濯完了のアラートが鳴った洗濯機へと向かって行った。洗い終わった洗濯物をカゴに移し替えていると、善雄が隣に立って髭を剃り始めた。

「そういえば今日、もしかしたらミーティングで遅れるかも。お店で待ち合わせでもいい? 」もう何度も聞いた善雄の言葉に、幸恵は条件反射のように「いいよ」と間髪入れる事なく感情のない声で答えた。手は相変わらず重く、ズルズルと絡まり合った洗濯物を引っ張っている。

「せっかくの結婚記念日だから有給とっても良かったかもね 」善雄は少しだけ提案の雰囲気を含めて呟いたが幸恵が反応する事はなく、声は虚しく霧散した。洗濯物を干し終えて出勤用のバッグを肩にかける。時計に目を移すと、針はちょうど家を出る時間を指していた。

駅まで歩いていると景色はいつもよりゆっくりと過ぎて行くのに、学生やサラリーマンは早送りで駅へと流れていき、幸恵は自分だけが違う次元で過ごしているような感覚になった。駅が遙か遠くにあるような錯覚さえしたが、気がついた時には既に職場のビルのエレベーター前に立っていた。目の前の扉が開くと、周りのサラリーマンと同じ動きで狭いスペースへと突き進んでいく。階数を表示するモニターを呆然と見つめていると「ポーン」という音と共に数字の十五が現れ、後ろの女性がぐいっと体を押し出してきた。幸恵は流れに乗って少し勢いをつけてエレベーターの外へ飛び出す。事務所の扉を開けて中に入るとカチャカチャとキーボードを叩く音があちこちから響いてきた。

「……おはようございます」幸恵はボソボソと呟きながら通路を歩き、コートをラックにかけると静かに席に着いた。パソコンにログインして業務メールをチェックしようと画面を眺めていると、電話機の着信を知らせるランプが光っているのが目に入った。電話機のモニターを見ると高崎の内線番号が表示されている。すぐさま掛け直すとワンコールで高崎が出た。

「はい、高崎です」

「おはようございます。吾妻です。内線頂きましたでしょうか」幸恵はミランド社のテスト画面とコーディング画面を開きながら電話を続ける。

「ああ、折り返しありがとう。ミランド社のLPにデザイン変更があって、詳細メール来てるからすぐに確認をお願い。締めは変わらないから出来たら一旦共有して」

「承知しました」幸恵は電話が切れるとコーディング画面をしばらく見つめてキーボードを叩き始めた。二、三行打ったところで手が止まる。その後いつまでたっても指は動き出さず、結局そのまま手を離した。仕方なくミランド社の担当者から送られてきたメールを開いて一文字ずつ目で追ってみたが、内容の概要は分かっているはずなのに、いくら読み返しても文章が頭の中に入ってこない。幸恵は椅子の背にもたれて小さくため息を着くと、目をつぶって六回目の今日を思い返した。


ーー 今までとは違う変化があったのに、また今日を繰り返してる。このまま永遠に同じ日を繰り返すなら何をしても意味がないのかも。

幸恵は二月十四日をやり過ごす気力を自分の中で探してみたが、既に尽き果てている事に気が付いていた。目の周りがジワジワと熱くなるのを感じて更に強く瞼を閉じる。少ししてからそっと目を開き、わずかな希望に縋るように思い出されるプログラムコードを画面に打ち始めた。

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今日の行方 〜繰り返す私の時間〜 亜矢 @ayaya_iiiii

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