違和感

「お先に失礼します」十八時、なるべく部署の人達に聞こえるように少し声を張って幸恵(ゆきえ)は挨拶する。仕事も同じ事の繰り返しであれば質や効率が上がるのは必然だった。定時の帰宅も浸透され始め、幸恵の帰宅に嫌な顔をする者はいない。後ろに座る同僚も帰るタイミングを図りながらゆっくりとキーボードを打っていた。幸恵が事務所のドアに向かっていると高崎(たかさき)が入って来た。

「あ、吾妻(あづま)もう帰り?」いつもの笑顔で高崎が声を掛ける。

「はい。お先に失礼します」幸恵も笑顔で返し軽く会釈した。すかさず高崎が話し出す。

「そういえば、さっきミランド社の伊東さんとミーティングしてたんだけど、吾妻のLPの仮案見せたら褒めてたよ」自分の事のように嬉しそうに話す高崎を見つめながら、幸恵は上司に恵まれたことに感謝した。

「吾妻がアレンジしてくれた二つ目の案が好評でさ、あれで通るかも。今回スピードも速いし良かったよ。ありがとね」

「いえ、そんな。気に入ってもらえたようで良かったです」ご機嫌な様子の高崎に対して、少し笑顔をひきつらせながら幸恵は静かに言った。

「では、失礼します」特に急いでもいなかったが逃げるように幸恵は事務所を後にした。

十八時四十分、善雄(よしお)との待ち合わせ場所であるフランス料理のお店に着くと、慣れたように店員に話しかける。

「十九時から予約している吾妻です。まだ予約時間じゃないんですが座って待っていても良いでしょうか」店員は快く承諾し幸恵を席に案内した。幸恵は椅子に座ると背もたれに寄りかかって大きくため息をつき、頭を抑えながら「あと少し」と自分に言い聞かせた。善雄は時間通り四十分後にやって来た。

「ごめん幸恵、遅れた」申し訳なさそうに言ったが幸恵は全く気にせず笑顔で許した。善雄のご機嫌な仕事の話も、相変わらず美味しい店の料理も飽き飽きしていたが何とか笑顔を保つ。同じ日を繰り返しているとはいえ、自分の言動で彼の態度が変わる事は分かっていた。大切な人の笑顔のために幸恵は目の前の肉を頬張った。

「失礼します。当店の期間限定メニューでジャンボシュークリームがあるんですが、よければどうですか?」いつもの店員がいつもの調子で声をかけてくる。幸恵は注文しようと店員の方を向いたが言い出す前に優しく善雄が言った。

「いや、結構です。ありがとうございます」聞いた瞬間に幸恵の体が熱くなり、手も足も全てが動き方を忘れたように硬直した。驚いた表情のまま善雄の顔を凝視する。色々な言葉が頭を駆け巡るが声が出てこない。今まで繰り返してきた中で善雄がシュークリームを断った事は一度もなかった。

「え、何?食べたかった?」目を見開いてじっとこちらを見つめる幸恵に善雄は笑顔できく。

「コースのデザート美味しそうだし、これで良いんじゃない?」更に軽い調子で言った。五分後にはデザートがサーブされたが、ケーキを含んだ幸恵の口はぎこちなく動き、自分が何を食べているのかも分からなかった。一体自分のどの言動が彼の行動を変えたのか、思い返しても検討がつかない。食後のコーヒーには口をつけず善雄と一緒に店を出た。「こっちの道から行こう」善雄は幸恵の手を力強く握りライトアップされた公園沿いの道へと促す。会話のないまま遊歩道を歩いていくが幸恵にとっては沈黙が有り難かった。頭の中はまだ混乱したままだ。足だけが引っ張られた方向へと勝手に動いていく。少しうねった道を行き階段の手前まで歩いてくると突然背中に衝撃を受けた。

ドン。

幸恵は前によろけたが瞬時に善雄が支えた。後ろを見るとぶつかって来た女性が少しバランスを崩している。

「すみません」女性は小さな声で謝ると体制を戻しそのまま走り去って行った。幸恵はしばらく女性の後ろ姿を見つめながらただ呆然と立っていた。これまでと何かが違う。突然襲って来た大きな違和感に思考が付いて行かず、ぐちゃぐちゃと渦巻いていた頭の中は逆に冷ややかな程静まり返っていた。

「大丈夫?行こう」善雄が幸恵の肩を引き寄せて予約したホテルへと向かう。幸恵は無表情のままどこを見るともなく見つめながら歩いていたが次第に思考が働き出し、同時に期待感が体中に湧いてくるのを感じた。初めて抱いたこの違和感こそ、気持ち悪く歪み混沌とした世界を抜け出すキッカケになるのではないか。幸恵はそう考えると必死に今日一日を反芻した。パズルを完成させるかのように、あらゆる事象から小さな違和感を拾い集めていった。

「今日何かあった?」延々と黙り続ける幸恵を心配して善雄が聞いてきた。「体調悪い?」幸恵の肩を掴む善雄の手に力が入る。

「悪くないよ、大丈夫」幸恵は心からの笑顔で答えた。ホテルの部屋に着くとアニバーサリー仕様のベッドメイキングが目に入り、幸恵は自分が祝福されている事に胸を高鳴らせた。ベッドの端に座ってしばらくデコレーションを眺めていると、善雄が後ろから近付いて肩に手を添えた。善雄は幸恵の後ろ髪を少しかき分けて首に口をあてる。手を肩からカーディガンに移して脱がせながら幸恵の上半身を倒した。

「ふふ、するの?」幸恵が善雄の方を向いて言う。

「大丈夫。きっと可愛い赤ちゃん産まれるよ」善雄は幸恵の目を見つめながら優しく呟きしっかりとキスをした。幸恵は善雄の体に触れると久し振りに幸福感に包まれた。善雄と抱き合う事で確実に鍵をつかんだような気持ちになった。善雄が果てては体を清め、二人は何度も抱き合った。幸恵はこのまま十五日を迎える事を望んだ。



携帯電話のアラームで幸恵が目を覚ます。いつもの動作でアラームを消すと違和感を感じてすぐさま上半身を起こした。今いる場所は自宅のベッド。状況を理解するのに、もはや時間など必要なかった。横で眠る善雄を眺め、一ミリも動かず幸恵は静かに涙を流した。

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