第3話 妻は…

 その日、紗奈が帰ってきたのはあれから8時間後の、夕方の4時。

 日が傾き始めて来た頃だった。


「たっだいまー!」


 耳触りのいい声が響く。

 今朝の様子など、まるで感じられないような笑顔で、


「かーずき、たっだいまー!」


 と、ドアから顔を出した。

 にししーと笑う。

 ほのかに上気した頬、薄いアルコール臭。

 俺はため息を洩らし、「紗奈…どこに行ってたの?」と口を開いた。


「お酒飲んでたー」


 フラフラとこちらに近寄る。


「危ないよ、紗奈」


「えへへー…大じょう」


 そこまで言いかけた瞬間、グラッと紗奈が前へ体制を崩す。

 俺は抱き締めるように紗奈を受け止めた。


「ほら、言ったそばから」


 えへへー…。

 彼女は胸の中で笑う。


「和樹、暖かい…ガッチリしてる…」


 ふにゃふにゃになりながら、俺の胸に顔を押し付け、顔をぐりぐりと押し付けた。


「紗奈、とりあえず水飲もうか」


「かず…き…」


 小さく俺を呼ぶ。

 するとその途端に彼女の身体からガクッとチカラが抜けた。


「紗奈?」


 ズッシリと…とは女性に対して失礼だが、脱力した人間は関節がある分、体重関係なしに重くなる。

 勢いよく倒れないように、ギュッと腕に力を入れて、自分ごと座り込んだ。


「紗奈、大丈夫?」


 背中をポンポンと優しく叩く。

 俺の問いに対しての答えはすぐに帰って来た。

 スー…スー…。

 という、華奢な寝息で。


「寝てるだけか…」


 安堵によく似たため息が洩れる。

 とりあえず、紗奈は無事らしい。お酒をガブ飲みした以外は。

 はぁー、ともう一度ため息をつき、紗奈へ目を落とす。

 綺麗な寝顔をしたまま、気持ちよさそうに呼吸を繰り返していた。

 思わず口元が緩む。


「本当に可愛いな、紗奈は」


 頭を優しく撫でる。

 紗奈の呼吸が少しだけ大きくなった。


「とりあえず、寝かせようか」


 紗奈の背中に回していた腕を首の後ろと、膝裏に回す。いわゆるお姫様抱っこの状態で、ベットまで運んだ。

 ゆっくりと下ろす。


「えへへ…和希…」


 幸せそうな顔で、寝言を呟く。一体どんな夢を見ているのだろうか。


「おやすみ、紗奈」


 それだけを言い残して、俺はリビングへと戻った。



 3時間後…

 テレビを見ていると、ドン!と言う物音が聞こえてきた。するとその音はドタドタドタと言う音に変り、最後にドアをバンッ!と開く音に変わった。


「ごめん、私!」


 焦る彼女の顔からは、それが読み取れた。

 詰まるところ、夜飯の時間を寝過ごしてしまってゴメンなさい!との事なんだろう。

 俺は微笑むと、「いいよ、大丈夫」とキッチンへ向かった。


「紗奈、今日は俺がご飯を作るからゆっくり休んでて」


「いや、でも…」


 自分で夕飯を用意できなかったことがそれほどショックなのだろう。しゅんとした表情をすると目を逸らした。

 そんな紗奈に、「今日はゆっくり休んで、紗奈」

 そう言って笑いかけると、「ありがとう」と複雑な顔をしてドアを閉めた。


 40分ほど経過しただろうか、調理を全て終えると、寝室のドアを開ける。

 薄暗い部屋には、小さな寝息だけが響いていた。


「紗奈」


 華奢な肩を揺らす。

「んー…」と言って彼女は目を開けた。


「夜ご飯出来たよ」


「…ありがと」


 のさりと起き上がると、おぼつかない足でこちらへ向かう。


「ほら、掴まって」


 俺の差し出した手に、うん、と小さく頷く。

 ふわりと紗奈のあたたかい体温が伝わって来た。

 …。

 だからだろう、これからのことを考えると、大きな罪悪感がブワッとのしかかる。

 ゴメンな、紗奈。

 紗奈が椅子に腰掛けると、テーブルに皿を並べていく。

 卵焼き、野菜炒め、豆腐、ご飯、焼き魚。

 どれも普通で、何の変哲もない。

 …。

 見た目だけなら。


「和希って料理上手だね」


 優しく微笑む。


「まぁな…」


 心臓がギュゥーッと嫌な音を立てた。


「それじゃ、いただきます」


 箸が皿と口を行き来する。その度に紗奈は「おいしい」と笑った。

 そして、


「ご馳走様でした」


 紗奈は最後の最後まで笑顔を絶やすことなく料理を完食した。

 そしてそれは同時に、あれを確信した瞬間だった。


「…紗奈」


 冷静に彼女を呼ぶ。


「なに?」


「本当においしかった?」


「え、どうしたの?普通に美味しかったけど」


 美味しかった…か。

 …。

 そんなはずはないんだけどな。

 俺は無言で席を立つ。キッチンへ向かうと冷蔵庫からふたつのコップを取り出す。


「ねぇ、本当にどうしたの和希?」


 彼女の心配そうな声が聞こえた。

 …ゴメンな。


「紗奈、ちょっとこれ飲んでみてくれ」


 2つのコップをテーブルに置く。

 一方、紗奈の方はチンプンカンプンと言った様子だ。まぁ、確かにいきなりコップ2杯分の水を飲めって言われても困るわな。

 動揺する紗奈に俺は続ける。


「2つのうちどっちが塩で、どっちが砂糖か、分かるか?」


「え…そんなの飲めば分かるに決まってんじゃん…」


「本当に?」


 紗奈の顔から笑顔が消えていく。

 そして、みるみる視線は床へと落ちていった。


「…紗奈、何か隠してない?」


 すると、一瞬呼吸が止まったようにピクリと肩が震えた。

 そして、少し間をあけて、


「…ごめんなさい」


 紗奈は恐る恐る顔を上げて、そういう言うのだった。



 頭部障害による味覚障害。

 テーブルを挟んで差し出されたスマホにはそう表示してあった。

 頭部に強い打撃が与えられたことによって、味覚を感じるところが機能しなくなってしまう。

 そんな説明が淡白な文字で書かれていた。

 私ね…紗奈はスマホを引っ込めると、テーブルの上で手を組み、親指をくるくると動かす。

 そして嫌なことを思い出すような顔で口を開いた。


「むかし、自転車で事故を起こしたの。高校生の2年生の夏頃かな、通学してたら、いきなり横から車が飛び出してきて、そのまま自転車ごと轢かれたの」


 轢かれた。その単語に思わず息を呑む。

 同時に、そんな紗奈を騙してしまったことがやっぱり俺の胸を痛めた。


「奇跡的に目立った外傷もなく、なんの異常もなかったんだけどね、少しずつ味が分からなくなっていって、最初は気のせいかなって…だけど、どんどん味が分からなくなって、そのせいで当時の彼氏にフラれて…」


 親指のくるくるが止まる。


「私…また捨てられるんじゃないかなって、怖かった…だから言えなかった…」


 すると、「今まで黙ってて…ごめんなさい…」と、泣いてしまった。

 きっと、紗奈にとって味がわからなくなってしまったのが、本当にショックだったんだろう。

 でも、ここで何も言わなかったら、きっと紗奈はもう立ち上がれないかもしれない。


 だから俺は、


「はは…どうりで飯が不味かったわけだ」


 と、笑った。


 ぴくりと肩を動かし、ゆっくりと顔を上げて俺の方を見る。


 そんな紗奈に向かって俺は続けた。


「最初、びっくりしたよ、あの卵焼き。不味かった、本当に不味かった」


「そ、そのまで言わなくても…」


「いいや、言うね。最強に不味かった、そして最高に嬉しかった」


「…え?」


 驚いたような表情で固まった。

 まるで意味がわかりません。みたいな顔で。


「今までファミマばかりだったけど、初めて紗奈が自分で作ってくれた卵焼きが、本当に嬉しかった。」


「確かに、味は最悪だったかもしれない。だけどな、今まで食ってきたどの料理よりも温かかった…だからな、紗奈」


 俺は紗奈の方をみて、ニコリと笑った。


「騙してごめんな。そして本当のこと言ってくれてありがとう」



 すると、彼女はポロポロと涙を流して、鼻をすする。

 俺はそんな紗奈の頭に手を伸ばして、わしゃわしゃと撫でた。


「泣くなって。な?」


「うん…うん…」


 首を縦に振りながら頷くのであった。



 一週間後。


「かずき、起きて」


「んー」


「ほら、遅刻しちゃうよ」


「…ん」


 そんないつも通り始まった朝。


 朝食も以前と同じく、近くのファミマで買ってきた惣菜ばかりが並んでいた。


「いただきます」


 手を合わせてから箸を持つ。


 そして、とある小皿を見て、小さく笑った。


 俺たちの朝食に、少しだけ変わったところがある。

 それは、いつものメニューに卵焼きが増えたこと。


 黄色くて、フワフワした卵焼きを口へ運ぶ。


 紗奈はそれをじっと見ていた。


「んー…30点」


「えー、もうちょっと上手くできたと思うんだけどな…」


 そして紗奈は小さく笑う。


 それを見て俺も笑った。


 そんな、ひとつのクソマズ卵焼きから始まった事件は、こうして、幸せなトッピングとして幕を閉じたのであった。



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俺の妻がメシマズな理由 あげもち @saku24919

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