ガンダムと原体験

重永東維

ガンダムと原体験

 時は、西暦1981年。元号ならば、昭和五十六年。

 昭和、平成の世を経て、現在は令和になろうとしている。

 当時、幼かった私は文字すらロクに読めず、ただテレビから流れてくるアニメ映像に釘付けになり、ひたすら魅せられていた。特に「機動戦士ガンダム」がお気に入りだった。登場人物は勇敢で格好良く、強く、優しい。そして、ほんの少しだけ「ほろ苦い」。心にジワりと残る感覚の正体を知らぬまま、私は翌年の1982年を迎えたのだった……。


 ──「機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙」

 

 どのような経緯で映画館に連れて行って貰えたかはよく覚えてはいない。

 子育てに無頓着だった父が母に変わり連れて行ったぐらいだ。余程、私が泣いて駄々を捏ねたのだろう。父と二人、巣鴨駅から山手線に揺られ、駅二つ。池袋駅で下車し、東口の映画館に向かったのだった。

 確か、父は映画館には入らなかっと思う。パンフレットと映画の半券だけを渡し、近所の碁会所にいるからと、そそくさと消えてしまったのだ。私は見知らぬ場所に一人だけ取り残され不安に駆られる一方、ここで喚いて引き返してしまえば全てが水の泡。折角の機会が台無しになってしまう。不安を払拭するかの如く、私はスクリーンに噛り付いたのだった──。


 あっという間の二時間半。話の流れは何となく理解できたものの、台詞の半分以上は意味不明。しかし、とても「面白かった」のだ。言葉の意味は分からずとも、大画面から放たれる圧倒的な迫力と熱量が、作り手の強い「想い」となって、私に伝わってくる。

 おそらく、その「面白さ」とは理屈では無い。魂の躍動ともいうべき情熱が言葉の壁を通り越して、素直に反応し、呼応したまでのこと。気分はまるでニュータイプ。其れ等は、まだまだ幼かった私の心にも、充分に行き届いたのだ。

 総力戦の果て……、白い彗星と謳われていたガンダムもシャア大佐の操るジオングに頭部と腕を破壊され、それでも満身創痍で戦う姿に熱く酔い痴れた。破滅への美学という概念を知らずとも、強く感情を揺さぶられる音楽と映像美。ラストシーンでは、子供達の誘導によりア・バオア・クーより、脱出してくる仲間やアムロにも存分に心を踊らされた。そして、幸運にも「機動戦士ガンダム」の完結編を観たのが、今回が初めてだったからだ。


 上映が終わり、私は興奮冷めやらぬまま、父のいる碁会所へ向かった。

 歩いてすぐの場所だったと思う。入口から長い階段を登り、中に入ると、タバコを燻らせ、難しい顔をしてる父がいた。囲碁は唯一の趣味である。対局は終盤のヨセの読み合いにもつれ込み、父は辛くも勝利を納めた。「もう一局だけ、頼む」とせがむ老人に対し、父は私を理由にやんわりと断ると、親子で碁会所を後にしたのだった……。


 後にも先にも、父が映画館に連れて行ってくれたのは、これ一回きりだったと記憶している。映画の感想など聞いてくるような人ではなかったが、身ぶり手振りを交え、興奮気味に説明してる私の姿を見て終始、不思議そうな顔をしていた。

 不意に、私からガンダムのパンフレットを取り上げ、パラパラとめくってたりもした。咄嗟にパンフに描かれているガンダムのポーズを取ると、私に向かって仕方なさそうに笑って見せたのだった──。


 春先に賑わう駅前の雑踏。喫茶店でクリームソーダを飲みながら、私は池袋の駅風景を眺めている。向かいの席では、ガンダムのパンフレットを読み、ほろ苦いコーヒーを啜りながらタバコを吹かす父がいた。なんとも安寧とした、この時間と空間は私の美しい原体験の一つとして、今でも深く刻まれている。

 そして、その「ほろ苦さ」の正体というのは、そんな父と未だによく解りえぬという、親子特有の溝の深さだったのでは、なかろうか……。そういえば、アムロも父親との確執があったな……と、思ったりもした。

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