第1話
「ん……」
ふと気が付いた。冷えたフローリングの床に直に寝そべっている。
体は、階段から落ちたようなひどい筋肉痛に似た痛みを発していて、身じろぎするだけでも軋むように痛んだ。
寒い。
全身がとても冷えきっている。体を見回してみると、どうにも身になにも着けていない。いやボクサーは履いているけど、それ以外。
自分の部屋で裸になって、ふざけて床で寝てしまったのかと考え、即座に否定する。
段々とぼーっとした意識がまとまりはじめてきた。
僕は瑞希さんに告白して、それでめちゃめちゃにタコ殴りにされたんだ…。
数分前か数時間前か、時間の感覚は依然として不明瞭なものの、その時の悲しみと後悔は強くまだ鮮明だった。
「おっ…起きたな」
上から声がかけられた。失恋の相手、瑞希さんの声だ。
頭は重い。痛いし、なにより彼を見るのが辛い。ゆっくりと見上げる。
どうして彼がここにいるんだろう?
ふと寝ぼけた頭はようやく冴えて、当然の疑問を失念していたことを知る。
ここはどこなのだろう…?
全身が、急速に危険信号を出し始める。
キョロキョロと痛む体を頭を無理して振り回し、情報をかき集める。
白い壁、フローリング、観葉植物、システムキッチン、およそ自宅とかけ離れた見ず知らずのモデルルームのような部屋。ここはリビングだろうか。
しかし、玄関は見えない。
ここは自分の部屋でないと悟り、全身から血の気が引いていく。
視界に影が射した。
彼が覗きこんでいる。
「まったく…ボーッとしてんじゃねぇよ。起きたなら声くらい掛けろって、ママに教わんなかったのか?」
馬鹿にするような笑みだった。
ショックだ。店員と客でしかないちょっと前までの優しさが、更に遠く感じる。
「ここは、どこなの…?」
怯えまじりに話しかけると、少しムッとしたようだった。
「どこ?どこなのだって?」
おもむろにしゃがみこんだ。
パンっ
一拍おいて、左頬が打たれたことに気付く。無理やり上げていた顔だった。勢いで床に頭を打ち付けた。
痛みの記憶がぶり返してくる。
「どこですか、だろ。飼い主には敬語を使え。ほら、どこですか?」
顎を思い切り掴まれて無理やり視線を合わせられた。
「ど、こ、ですか…?」
「ここは俺の家だよ、伊谷さん。まあ…これからはお前の家でもあるけどな」
何を言ってるんだ、この人は?話の意図があまりにもわからない。彼はスッと手を離した。
「よし、待ってろ」
そう言うなり、キッチンの方に向かう。
フンフン…
ザクザク…チャッチャッ…ジュー…
こちらからではあまりに視線が低いためなにも見えないが、どうやらなにか作っているらしいことはわかる。鼻唄混じりで、なにかを炒めているようだ。
今のうちになぜ自分はここにいるのか?考えたくない情報に埋め尽くされる脳内を整理することにした。
自分は路地裏で彼にこっぴどくフラれたはずだ。それが証拠に全身が痛む。そしてこの家は彼の家だ。ということはつまり、僕は拉致された…?
なんのために?
恐ろしい想像が頭を過る。這ってでも逃げ出さないといけないような恐怖が再び襲った。
しかしそううまくはいかない。
体の痛みもそうだが、最大には手足が動かなかった。
手首と足首は、バンドのようなもので括られていて、鎖が絡まっている。
口でどうにかほどこうと懸命に噛んでみたりもするが、中々どうして拘束は強く、歯が痛むだけに終わった。
その内調理が終わったらしい。
ぎしぎしとフローリングがかすかに揺れる。
「ありあわせだけど、まあ食えよ」
ことり、目の前に置かれたのは出来立てホヤホヤなチャーハンだった。
まさに一人暮らしの男の料理って感じの…。
卵でほのかに黄色く色づいたチャーハンは香ばしく炒められていて、食欲を刺激する香りが鼻孔をくすぐった。
自分としては今の今までまったく腹は減っていなかったものの、食料を目にすると思い出したように腹の虫はグルルと唸っていた。
瑞希はまた、愉快そうに笑う。
「い、いただきます。……?」
そういえばどうやって食べればいいんだろう?
もうもうと湯気をたてるチャーハンに鼻っ柱を突っ込む勇気などない。
困り果てて頭上を見上げると、椅子に座った彼は丁度足を振り上げていた。
ガッ
「あぐっ…!!」
「バッ…カだなぁ、お前!急にこっち見るんじゃねーよ!」
ガンっと、かすかに斜めに倒れる。
鼻の辺りは灼熱のような激痛。一瞬、目の前がチカチカと白く霞んだ。
その足でなにするつもりだったか知らないが、とにかく急に見上げた僕を避けようとはしてくれたらしい。しかし皮肉にも方向が逸れた勢いで加速した踵が、見事に斜めに蹴りつけるようにして鼻に直撃したんだ。
「う…ぅ…!」
「ほんと間の悪い奴…。そんなだからバイト仲間にも嫌われるんだよ」
「…?」
だらりと生暖かい液体が鼻から漏れた。
とっさに縛られた手で押さえる。
涙が出てきた。なんだこの状況は。
「チッ…」
ぼこぼこにされて、パンツ一丁で拘束されて、チャーハン出されて、蹴られて鼻血出して。
惨めで惨めで意味がわからなくてとても…恐ろしい。
「泣くな」
機嫌の悪そうな低い恫喝じみた命令に、涙は素直に止まってくれた。
「食えよ、折角作ってやったのに。冷めちまうだろ」
たしかにそうだ、おいしそうなチャーハンは先程より湯気がすくなくなってきている。でも、どうするべきかわからない。
手の内側にはおびただしい出血がいまだに止まっていない。
手を離して汚したら怒られるかもと思うと、もう僕には見上げて固まることしかできない。
「なんだよ、見上げたってスプーンは無いけど?」
「ふぁあじふぁふぉまんあい…えす…」
「は?なに?」
「あっ!ふぉえんあさいっ!」
あまりに感触でわかる。手の隙間から垂れてしまった。
慌てて更に上を向くと、それで瑞希もわかったらしい。思いっきり顔をしかめた。
「うわ、お前鼻血出てんじゃねぇかよ…!」
椅子からほぼ跳ねるようにしてしゃがみこんだ彼は、僕の手を払うと着ている白いシャツの長袖部分を鼻に押し当てた。
絶妙に痛みを感じるくらいのつよさで。
「ほら、手も。早く拭けよ」
急かされて、シャツの裾をちょっと握る。
「ごえんあさい…」
「止まんねぇなぁ…。はあ、もう後で洗ってやるから、まずそれ食えよ」
なんだか申し訳ない気持ちで一杯になった。
監禁される話 ミノオトコ @minootoko
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