ある少年・春のめざめ

淡島ほたる

Ⅰ. サラの冒険


「サラにも、恋人がいるのね」

 シュラハは星の降る夜、サラを抱きしめてそう言いました。ですからサラは、そうなの、とこたえて暗闇にしゃがみ込みました。

--ねえシュラハ、僕はいっとう、あなたがすきよ。



 シュラハは、心の優しい少女でした。

 だれよりもうつくしい魂を持ちながら、驕ることをしませんでした。朝露のような清らかな瞳や、白くすこやかな額が目に映るたび、サラは泣きたい気持ちに駆られるのでした。甘やかな嫉妬を抱いて彼女を崇拝していることを、幼いサラ自身は知り得ません。

〈親愛なるサラへ〉

 その書き出しを読んだとき、サラは濡れた髪のまま、まっ青な毛布にくるまっていました。肌寒い夜でした。けれど足のうらは熱を持って、胸のうちは燃えるようです。サラは、あきることなくシュラハの文字を飲み込みます。すると、なぜだかひどく苦しくなりました。しくしくと心が痛いのです。あいしている、と、くちびるだけで呟きました。

 眠れないまま寝そべっているうち、窓の外はうす暗い灰色に染まって、はげしい雨の音が小屋に響きわたりました。

 夜の底でシュラハの筆跡をたどりながら、サラは、自分のちっぽけなからだがじゃまだと思いました。「心があるならば、体なんて要らないだろう」と。

 そう感じるとき、きまってサラは叫びたくなりました。自分の存在に意味をみつけられないことが、おそろしいのです。自分自身の声が、顔が、崩れ去って行くような心細さに襲われていくのです。

 しかしサラを思い出すと、狂いそうな衝動の波は引いてゆきました。はあ、と大きく息を吐いて、顔を覆います。こんな日々が、サラには数えきれないほどありました。

 --死にたいなんて、軽々しいことば。

 うんと子どものころ、そう吐きすてられたのを、サラは思い出しました。ぐ、と声が漏れます。

 毛布にくるまりながら、もう、眠ってしまおうと思いました。かなしいけれど、眠れば生きていることすらも忘れられるのだと、サラは心底まじめに信じていたのです。

 


 甘い風の吹く夜でした。

 サラはシュラハの手紙に書かれていた場所で、彼女を待っていました。「さだめられた丘」と名づけられた、なだらかな山頂で。

 夜はゆっくりと更けてゆきます。待ちぼうけたサラがとうとう目をつむってしまうと、パオンというねこに出逢いました。縞模様で、手脚がながくて、およそねこには見えません。

 パオンは「サラの居場所を知っている」と、目をぱちぱち瞬かせて笑いました。おしえて、とさけんだ瞬間、サラのからだは宙に浮きました。すずしく、柔らかな風に包まれます。視界がまっ暗で、けれど心は凪いでいました。ああ、とサラはつぶやきました。なにもありません。なにもなくて、だから、笑ってしまいました。シュラハはいないし、サラもきっと、いないのです。

 ふたりとも存在しないのならば、いまの僕は、何なのだろう。

 ちっぽけな光が、遠くの空に灯っていました。あれは、シュラハかもしれない。大きく息をすいこむと、サラは泣きたい気持ちで空を仰ぎました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある少年・春のめざめ 淡島ほたる @yoimachi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る