番外編 妻と夫の距離
アウラはデイヴィッドに請われるまま、寝台の上へと連れてこられた。
正真正銘初めての夜で、アウラは自分の手足が少しだけ冷たくなっていることを自覚する。
すぐ目の前にいるデイヴィッドが知らない男のように見える。
「アウラ、震えていますね……。怖いですか?」
夫の声は、熱を帯びていたが、アウラへの気遣いに満ちていた。
きっとアウラが怖いと言えば、彼は今日は何もしないでアウラを抱えて眠るだけにしておいてくれるだろう。
そういう声音だった。
「あなたが嫌とかじゃないの。だけど……初めてのことだから、だから少しだけ怖い。でも、それはきっとわたしにとって未知のことだから……」
知識だけはあるけれど、アウラには経験の無いことで。
だから、女が男に抱かれるという感覚が分からない。
それなのに、アウラのことを抱けばいいのにと思っていた自分は相当にお子様だった。そういうのをちゃんとわかっていたからデイヴィッドは今までアウラに手を出さなかったのだ。
デイヴィッドはアウラの本音を聞いて、こめかみのあたりを優しく撫でてきた。
「僕も怖いですよ」
「あなたが?」
アウラが驚くとデイヴィッドが弱ったように眉根を下げた。
「ええ。あなたに嫌われるのが怖いんです」
「わたし、あなたのこと嫌いになったりしないわ」
アウラは慌てた。
アウラはデイヴィッドへ腕を伸ばした。
寝台の上で、二人はお互いに顔を会わせるように座り込んでいる。
「優しくします、アウラ」
デイヴィッドがアウラを引き寄せる。
アウラは瞳を閉じた。
彼はまるで繊細なガラス細工を扱うように優しくアウラに触れていった。
体中をデイヴィッドにさらして、羞恥心とかそんなものを感じないくらいアウラの心はデイヴィッドの愛情で満たされていく。
初めて熱を帯びた男の背中に腕をまわした。少し汗ばんだ男の体の上をアウラの指が滑っていった。
彼は何度もアウラの名を呼び、アウラも同じように彼の名前を呼び続けた。彼の腕の中が心地よくて、アウラは安心して身をゆだねた。彼の腕の中に囚われているのがとても幸福で、アウラの瞳からは自然と涙が溢れてきた。
最初こそためらいがちだったデイヴィッドだったが、二人同じ寝台で眠るようになってからは、彼は週に何度かアウラを求めるようになった。
「僕は案外独占欲の塊のようです」
彼は閨の最中にそんなことを言う。
「どうして?」
「こんなにも可愛いアウラを閉じ込めておきたいと思う自分がいるからです」
もうずっと前から思っていました、と彼はアウラに口づけを落とした。
アウラは小さく唇を開いて、彼を受け入れた。深く舌を絡ませていると、彼の強い感情ごと流れてくるようだ。
口づけの最中の呼吸の仕方が分からなくて戸惑っていたのがうそのよう。
アウラはもっとデイヴィッドを感じたくて自分の方から彼の舌に自分のそれを絡ませる。
しばらく二人は無我夢中でお互いを求め合う。アウラはデイヴィッドの髪の毛に細い指をうずめて、彼を引き寄せる。
やがて顔を離したアウラは小さく笑った。
彼はアウラを腕の中に閉じ込めたまま「どうしました?」と聞いてきた。
「ううん。あなたがわたしのことを好きでいてくれるのが嬉しくて。たまに夢だと思うことがあるのよ、あなたがわたしをちゃんと女性として見てくれているのが」
一糸まとわぬ姿で二人は寝台の中で体を寄せ合う。お互いに熱を帯びた体を密着させているので、暑いくらいだ。
「それは僕の方も同じです。あなたがずっと僕を好きでいてくれるのが不思議でなりませんから」
「そう?」
「ええ。今でも時折思っています。年を取ると卑屈になるんです」
そう言って彼はもう一度アウラの体の上にのしかかってきた。デイヴィッドはアウラの首筋に唇を這わせていく。
彼の顔が首筋から鎖骨、それから胸へと移動をしていくたびにアウラはか細い声を上げる。
アウラはデイヴィッドからの愛撫を受け止めながら数か月前のことを思い出す。
彼はアウラと想いを通わるとすぐに結婚契約書を用意した。
公証人立ち合いの元、二人は結婚契約書に署名をして、それを当時アウラが居を構えていたリーズエンドの役所へと届けた。デイヴィッドはアウラの勤め先のモールビル家の主人夫妻に挨拶をし、正式にアウラの夫になったことを伝えた。
「僕の妻のことをよろしくお願いします」
そんな風に言われるのがこそばゆくてアウラはすごく逃げ出したかったのに、彼がアウラの腰に手をまわしていたものだからそれも叶わなかった。
それから彼は休日のたびにアウラの元を訪れた。週に一度ある休息日だ。
「あなた、そんなにも無理しなくていいのよ。ここまで通うの大変でしょう」
アウラは内心の嬉しさを押し殺して何度かそう提案をした。
デイヴィッドだって忙しいのに、アウラのために貴重な休日を潰してほしくはない。
デイヴィッドは割と真剣な顔をして「僕の大切なお嫁さんですからそれは無理な相談です。それに牽制も必要ですから」と諭してきた。
「牽制?」
「ええそうです。あなたはもっと自分の顔に自覚をもってください。きれいなアウラとお近づきになりたいと思っている不届き物は多いんですよ」
「わたし、そんなに美人じゃないわよ」
昔シモーネにも言われたし。わたしよりもオルフェリアの方がきれいなんでしょう、と。さすがにこれは言えないから黙っておく。つまらないやきもちということくらい自覚している。
「そんなことありません。あなたは十分にきれいなお嬢さんです」
デイヴィッドがかなり真剣にそういうものだからアウラはつい頷いてしまった。
二人はリーズランドの街で会うとき公園を散歩したりする。カフェや食堂だと周りの目があるからどうにも落ち着かない。
恋人の距離がこそばゆくてアウラはデイヴィッドと腕を組んで歩いたり、彼と口づけを交わすと顔が蕩けてしまう。
夏の休暇で一週間ほど休みをもらったときは、デイヴィッドが迎えに来てくれてダガスランドへと帰郷した。
懐かしい我が家と思えるくらいにアウラはダガスランドでの生活に溶け込んでいた。
けれど、その日は別の緊張もあった。
デイヴィッドと夫婦になって初めて一つ屋根の下で夜を過ごすのだ。
アウラは彼からの誘いを期待したし、内心戸惑いもあった。
それなのに彼はあっさりとお休みなさいと言って自室へと引き上げていった。
アウラは拍子抜けした。
アウラはそのつもりだったのに、デイヴィッドはまったくもって普段通りだったのだ。
おかげでその日は色々と悩んでしまって寝付くのが遅くなった。
やっぱり彼はアウラをただ側に置いておきたいだけで、欲情する相手とは見なしていないのではないか。男って性欲があるから、誰でもいけるんじゃなかったの? とかなりひどいことを考えた。
せっかく同じ家に住んでいるのに行儀のよい関係のまま数日が過ぎて行って、さすがにアウラはたまらなくなってデイヴィッドに詰め寄った。
「あなた、わたしのことお嫁さんにしたんでしょう? なのにどうして抱こうとしないの?」
デイヴィッドはアウラの直接表現にたじろいだ。
「アウラ、そういう言い方は……」
「だって」
アウラは泣きたくなる。
想いが通じ合って、彼とは口づけを交わす仲になったのに。
抱きしめてはくれるのにその先は駄目だなんて。
アウラの必死の形相に、デイヴィッドは小さく嘆息した。たぶん彼を困らせている。道理の分からない子供だと思われると悲しくなるし、彼に嫌われたくない。
「ご、ごめんなさい……」
アウラは謝った。
「いえ、謝る必要はありません。僕も、あなたが欲しいですよ。けれど、あなたはまだ働いているでしょう。今回は休暇であって、僕の元に本当の意味で帰ってきてくれたわけではありません」
デイヴィッドはアウラを居間の長椅子へと連れて行く。
二人は並んで座った。
デイヴィッドがアウラの頭を引き寄せた。アウラはされるままになる。
「あなたを今抱いてしまうと、僕は確実にあなたを離せなくなる。だから辛いですけどお預けしているんです」
「お預け?」
「僕があなたを前になにも感じていないと思いましたか?」
それはもう思い切り。アウラは大きく頷いた。
デイヴィッドは苦笑した。
「それはきっと僕が年を取ったからですね。年を取ると芝居がうまくなるんですよ」
あなたがほしくてたまりませんよ、とデイヴィッドはアウラの耳元で囁いた。
「まあ、もう一つ理由があるにはあるんですが、これはまだ内緒です」
アウラは首をかしげたが、彼はもう一つの理由については教えてはくれなかった。
アウラは休暇の間クラリスたち友人と遊びに行ったり、デイヴィッドと海の見えるレストランで食事を楽しんだりした。
あっという間に休暇は終わり、デイヴィッドはアウラをリーズエンドの街まで送り届けてくれた。
離れるときとても寂しくて、いつまでも抱きしめていたいと思った。
きっと、こういうことなのだろうと思った。彼と結ばれていたらもっともっと離れがたくなる。
「またこちらに来ますよ」
「待ってる」
寂しくて寂しくてアウラはデイヴィッドに絡ませた指に力を込めた。
もうすぐモールビル家というところでデイヴィッドはアウラに口づけをした。
いつもの触れるだけのものとはちがって、今日のそれは彼の舌が口の中に侵入してきた。
「愛しています、僕のアウラ」
初めてのやり方に、アウラは呼吸も分からなくて息を乱しているのに、最後にそんなことを言うなんて卑怯だ。
デイヴィッドを睨みつけると彼はもう一度、今度はアウラの目じりに口づけを落としてきた。
彼のペースに翻弄されっぱなしで面白くないのに、彼の顔が切なそうに歪んでいたから、アウラも留飲を下げるしかない。
アウラは睡眠と覚醒を何度か繰り返えしていた。
昨日はたっぷりと彼に愛されて疲れているはずなのに、少し眠りが浅いようだ。
もう少し眠らないと、今日は午後からクラリスにお茶の席に誘われている。
隣には眠りこけた夫の姿がある。
デイヴィッドは眠りが深い方だ。寝ぼけることもよくある。
(まあ、それについてはよおくわかっていることよね)
アウラはくすりと笑みを漏らした。
間近にある夫の顔にかかる前髪を一房つまんで後ろへと流す。
何しろ寝ぼけたデイヴィッドはその昔アウラを抱きしめて、過去に好きだった女性の名前をつぶやいたのだ。
あれはかなり切なかった。
そういえば、いつ彼はオルフェリアのことを吹っ切ったのだろう。
怖くて聞いたことがないけれど、今度聞いてみようか。
今は聞けるくらいデイヴィッドの心がアウラにあることを自負している。彼のアウラを見つめる眼差しとか、言葉とかそういうものがちゃんと真実であると信じられるから。
(ううーん、でも嫉妬深いって思われちゃうのもね……)
もうこの腕はアウラだけのものだから。
アウラはもう少し彼の腕の中で眠るために今度こそちゃんと瞼を閉ざした。
ちゃんと眠れたようで、二度寝をして起きたら今度は朝の八時を回っていた。
そろそろ起きた方がいいかなって思いアウラはそろりと身を起こした。
デイヴィッドはまだ眠りこけている。
アウラはデイヴィッドの髪の毛を優しく梳いた。
「デイヴィッド、朝よ。起きて」
そう声をかけると、彼はアウラの何度目かの問いかけにうめき声をあげた。
彼は隣にいるアウラを探しているのか、その腕を掴んで自身の元へ引き寄せた。
アウラはデイヴィッドの胸の上に倒れこむ。
「デイヴィッド、寝ぼけている?」
朝は苦手なんですよね、とは彼の口癖でもある。
彼はくぐもった声を出す。
「デイヴィッド?」
「……アウラ……愛して……ます」
彼はそれだけ言うとアウラを抱きしめてまた寝息を立て始めた。
言われたアウラは体を硬直させたまま。
「びっくりした……」
それなのに顔がにやけてしまうのを押さえられない。
今が一番幸福で、アウラはそのままデイヴィッドの言葉の余韻に浸ったのだった。
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