終章

終章

あの事故があってから、有希は誰とも口を利かなかった。どうしたの、何かあったの?と母に言われても、答えなかった。

今日も、食事をしながらも、有希は疲れた顔をして、ご飯を食べる気にもなれないのだった。

「有希、どうしたの?あんたずっと何も言わないけど。」

母がそういっても、何も答えようとしない有希である。

「姉ちゃん。どうしたんだ。俺、何か傷つくようなこと、言ったかな?」

弟のブッチャーまでもがそういうが、有希は答えなかった。

「どうしちゃったのかしらね。」

ごちそう様も言わないで、部屋に戻っていく有希を、ブッチャーも母も心配そうに見た。

「どうしたんでしょうね。全くしゃべらなくなっちゃって。」

「うん、俺も心配だ。ちょっと相談に行った方が、いいかもしれないぞ。」

ブッチャーは、こういう時こそ男の出番だと思って、母に具体的な、アドバイスを送った。女の人は、こういうことになると、なかなか決断が下せないと、青柳教授から言われたことがあった。なので、こういう場合は、男として、具体的にこうしようというべきである。

「こういうときは、世間体もなにもいらないさ。もう、あらかさまに、困っている、と表現してしまえ。時にはそういうことも必要なんだよ。俺たちには、限界だとしっかり認めることもしなければ、ダメだ。」

「そうね。」

母は、息子の発言に、戸惑っているようだ。きっと息子からこんなことをいわれるとは、思ってもいなかったのだろう。

「相談と言ったって、何処へすればいいのよ。もう、市役所とか、そういうところには、さんざん言ったけど、何も答えなんか出してくれなかったのよ。」

とりあえず、女の人が言いそうな、そんな発言をする母。

「だけど、こういう時には答えを出さなきゃダメなんだ。誰かが、どこかで変化をどうのこうのではなくて、俺たちが何とかしてやらなくちゃ。姉ちゃんは、自分の力で切り替えるという事が、本当にできない人なんだから、それは、明らかに認めようよ。俺たちは、姉ちゃんを何とかしてやることも仕事の一つなんだとおもわなきゃ。」

「だけどねえ、相談するって言ったって、何処に行ったらいいのよ。もう、答えを出してくれそうな窓口は、全部行ったのよ。病院の先生だって、何回も同じものを出すなとか、それでは親御さんたちがいけないとか、そういう答えしか出してくれないじゃない。」

ブッチャーが、一生懸命話しても、母はそういう優柔普段なことをいう。ブッチャーは、なんで母ちゃんは、本当にこういうときになると決断ができないのだろうか、とあきれた顔をして、ため息をつきながら、ガブッとパンを口にした。

これではもう、母親も疲れ切っていて答えが出ないんだろう。これでは俺が何とかしなくてはならない。でも、俺自身、どうしたらいいのかわからない。ブッチャーは、とりあえず、いつも自身で頼りにしている、製鉄所に行ってみることにした。

「こんにちは。」

ブッチャーは、インターフォンのない製鉄所の玄関扉を開く。

「あ、須藤さん、どうしたんですか。今日はお仕事のはずではないのすか?」

出迎えたのは青柳先生であった。

「いや、俺、一寸悩んでいることがありまして。俺たち、どうしたらいいものか、わからなくなってしまいました。何処にもそうだんできるところがなくて。俺は、本当に悩んでいて。」

「須藤さん、その文句ですが、本当に何回も聞きましたよ。ほかにどこかへ相談を持ち込むとか、そういうところも、、、。」

わあ、また叱られてしまうか!と思ったが、青柳先生は、軽くため息をつき、

「ないですよね。」

と静かに言って、ブッチャーを中に入らせた。

「すみません、なんだかお忙しいときに、無理やり来てしまいまして。」

ブッチャーがそういうと、

「かまいませんよ。」

と青柳先生は一言だけ言って、ブッチャーを応接室に案内する。

「どうぞ、座りなさい。」

ブッチャーはそういわれて、応接室の椅子にすわった。

「で、ご相談と言いますのは。」

「はい。俺の姉ちゃんの事なんです。三日くらい前から何もしゃべらなくなっちゃって。母が話しても、俺が話しても、反応しなくなりました。俺、どうしていいものだか、何もわからなくなっちゃって。」

ブッチャーはとにかく詳細を一生懸命話した。

「そうですか。たしかに、それはお辛いですよね。お姉さんの方はきっと自分のことで精いっぱいなんでしょうし。ただ、事実として、なにがあったかさえつかめれば、本当に簡単なんですけど。」

「青柳先生、それができれば苦労はしませんよ。それを姉ちゃんが口に出して言ってくれればの話ですが、姉ちゃんが、俺たちに何があったか何も話してくれないもんですから。」

ブッチャーは、何でも事実事実として片づけてしまう青柳先生に、ちょっと、不満そうな発言をした。

「先生は、事実さえあればいいと言いますけどね。なんでもかんでも、それで解決しようなんていいますけど、俺たちは、家族ですから、心配はします。先生は、人間ができることは、事実を解決することだって言いますけどね、俺たちは、家族ですから、事実だけじゃなくて、ほかのことも考えちゃうんですよ。」

「それはそうですが、僕たちにできることは、其れしかないんですよ。いくら感情を相手に表現したって、伝わることはないんですから、それはもう排除したほうがいい。お姉さんのこともそうです。あなたがいくら心配したって、本人が動いてくれないと、何もならないですよ。ただ、あなたができることは、お姉さん抱えている事実をはっきりさせること、これしかないんですよ。」

「先生、それは仏法書に書いてあったことでしょう。そんな本を読んだって、俺の悩みは解決しませんよ。そんな宗教の本を引用したって、何も解決にはなりませんよ。」

「ええ、でも、できることはそれしかないんですよ。余計な事を考えると、あなたが返っておかしくなる可能性もあるんです。それは、もう仕方ないことと割り切って、お姉さんが何を悩んでいるかを把握して、その解決にはどうするか。を、考える事。それしか、解決法はありません。」

あーあ、とブッチャーはため息をついた。たしかにそうなのだが、ブッチャーが求めている答えとは、また違うような気がする。

「先生、水穂さんが、布団が欲しいと言っていますが。」

がちゃんと応接室のドアが開いて、一人の利用者が、青柳先生に言った。

「あ、わかりました。布団は、中庭に干してありますから、それを取って、かけてやって下さい。」

「はい。わかりました。」

利用者は、そういって四畳半に戻っていった。

「先生、水穂さん起きているんですか。布団が欲しいと言っているからには、起きているんですね。」

ブッチャーがそういうと、

「はい、そういうことになるんでしょうね。」

青柳先生は、いつもと変わらないクールな調子で言った。

「会いに行ってもいいですかね。」

「ああ、どうぞ。ただ、あんまり長居はしないでくださいよ。最近は落ち着いてはいるのですが、また悪くなる可能性も少なくないですからね。」

「わかりました。」

ブッチャーは、あーあとため息をついて、応接室を出て、四畳半に行った。

「すみません、水穂さんいますか。」

ブッチャーがふすまを開けると、先ほどの利用者にかけてもらったのか、あたたかそうなフランネルのかけ布団にくるまって水穂は寝ていた。

「水穂さん、一寸聞いてくれませんかね。」

ブッチャーは、水穂の枕元に座った。

「どうしたんです?」

と、水穂はブッチャーのほうを向いた。

「具合、いかがですか?」

「ああ、どうも寒くて。もうすぐ春なのにね。」

はあ、また熱があるのかなあと思ったが、それは言わないで置いた。そうなると容体はさほど良くないらしい。

「水穂さん、俺、どうしたらいいんですかね。俺の姉ちゃん、三日くらい前から、俺たちと何もしゃべらなくなっちゃって。俺は、どうしたらいいのでしょうか。もう姉ちゃんが心配で心配でしょうがないですよ。」

「そうですか。」

水穂は静かに言った。

「たいへんでしたね。ブッチャーさんも。」

「いや、俺はたいしたことはありません。俺はただ、心配しているだけです。それなのに、姉ちゃんは、俺の気持ちなんて、わかってくれる事もなくて。俺は、どうしたらいいんだか。」

ブッチャーは、ムキになってそういったが、本当は、誰かに自分のことをわかってもらいたい気持ちだったので、思わず涙がポロン、と出てしまった。

「俺の気持ちは、姉ちゃんには伝わりませんねえ。」

はっきりとそういった。

「本当は、俺たちがいるってことを、わかってもらいたいんですけど。姉ちゃん、一人で悩みだすと、誰にも言わないで、それで自分の中でどうにもできなくなって、変なことをいいだすんですから。本当は、誰かに迷惑をかけないようにっていう意味もあって、俺たちは、姉ちゃんと一緒に暮らしているんです。」

「まあねえ、この世で誰かに迷惑をかけない人間なんて、いるはずもないですからね。それをいうのなら、僕は最悪ですよ。こんな病気になって、一人じゃ何にもできないんですから。」

水穂は、そういい終わって、二、三度咳き込んだ。ブッチャーが、水穂さん大丈夫ですか、と言いながら、水穂の背をさすってやる。

「なんで、僕には自然に手が出て、お姉さんには、嫌になるのでしょう?」

水穂さんは、なぞなぞのような質問をした。

「そうだなあ。俺はよくわかりませんが、水穂さんは、何でも聞いてくれましたからね。俺がまだこっちにいたときもそうだったじゃないですか。俺、まだ覚えてますよ。水穂さんが、俺の話最後まで聞いてくれたこと。」

「そうですねえ。」

水穂は、少し苦笑いした。同和地区の人間が、普通の人より偉ぶった態度をとったら、一貫の終わりだぞ、と、穢多寺の和尚さんがよく言っていたことを、そのまま実行しているだけの話だが、なぜかブッチャーにはそう見えるらしい。そういうことが、青柳先生の言う功徳になるのかというと、決してそんなことはないと水穂も思っている。ただ、普通の人たちの生活の邪魔にならないように、普通の人たちが、自分たちのせいで大損をしないように、生きてきただけのことだ。

「水穂さんは、広上さんたちが認めてくれた様に、音楽家としても素晴らしいし、そうして、ほかのひとの話を聞くのもうまいんですから、もっと自信を持ってくれてもいいんじゃないでしょうかね。」

「いいえ、無理ですよ。自信をもって生きるなんて、許されるはずがありませんよ。」

ブッチャーがそう発言すると、水穂はすぐにそれを打ち消した。

「まあ、そうかもしれないですけどね。出来れば、俺の姉ちゃんの話を聞いてもらえないでしょうかね。俺の姉ちゃん、いつも同じ失敗した事ばっかり言って、俺たちは本当に困っているんですよ。水穂さんだったら、違った答えを出してくれるじゃないかな。」

「それも無理ですよ。もうそんな体力もありません。」

またブッチャーが発言すると、水穂はまたすぐ打ち消した。ブッチャーにしてみれば、水穂さんは、知恵の梟のような存在だった。それに、同和地区から来た人であれば、普通の人より何十倍も苦労していることをブッチャーは推量であるが知っている。前に銘仙の工場で修行させてもらったとき、そこの工場長が、銘仙を着るとどんなに不利であるか、さんざん語って聞かせてくれた。でも今は、かわいらしい着物の代表選手になっているので、認識が変わってきているんだよ、なんていっていたこともおぼえている。そういう風に、変わってきているのだから、同和地区から来たことを生かして商売することもできるのではないか、とブッチャーは考えていたが、水穂さんにもそうしてもらいたかった。

「俺は、水穂さんのことを尊敬しているからそういうんです。同和地区の人が、ゴドフスキーの弾き手になるなんて、すごいことを成し遂げたんじゃありませんか。世界的に有名な指揮者の広上さんが、ゴドフスキーをリサイタルで弾いたピアニストは、二人しかいないって言ってましたよね。もし、水穂さんが、それをもう一回やれば、三人目は日本人という事になって、すごいことになると広上さんは仰っていたんでしょう?ですから、それに乗ってしまえばいいんじゃありませんか。まだまだ、音楽の舞台で身を立てることはできますよ。ゴドフスキーなんて、ショパンと違って、誰でも気軽にホイホイと弾きこなせる作曲家じゃないんでしょう?」

ブッチャーはそう問いかけたが、返ってきたのは激しい咳であった。ブッチャーが急いで口元にタオルを当てると、タオルはすぐに朱く染まってしまったのだった。

「あーあ、俺はもうちょっと口がうまかったらいいんですがね。」

ブッチャーは、水穂さんの口元をタオルで拭いてやって、有ることを決断した。

「一度でいいですから、俺の姉ちゃんに会ってもらえないでしょうか。」

返事はなく、返ってきたのは、咳き込む音しかなかった。

丁度この時、ブッチャーのスマートフォンが鳴る。

「ハイハイもしもし。あ、おかあちゃん。どうしたんだよ。」

ブッチャーが電話を取ると、母からだった。

「すぐにかえってきてくれない?有希が、またお皿を壊して大泣きして、どうしようもないのよ。」

母の口調はまさしく神頼みという感じだ。

「何だよ母ちゃん。何をしろと姉ちゃんに言ったんだ?」

「ううん、アンタがいう通り、影浦先生のところに相談に行ったのよ。そしたら先生、対人関係で何か問題があったのかもしれないから、そのあたりを本人に聞いてみてくれって言うの。だから、有希のパソコン開いて、一寸点検しようと思ったら、もう火が付いたように怒り出して、、、。もう之だから困るのよね。偉い人に相談するのは。偉い人は、そういう答えは出してくれるけれども、具体的に、やろうとするときの注意点とかはなにも教えてくれない、、、。」

「だからあ、それは母ちゃんがちょっと強引にやりすぎたんじゃないの?そりゃ、誰でもプライバシーというものはあるだろうし、それをいきなり侵害するようなことをしたら、誰だって怒るさ。」

「じゃあ、どうしたら、よかったの!直接話さなきゃ、何も伝わらないでしょ!」

他にも方法はあると思う。例えば、手紙を書くとか、参考書をさりげなく置いておくとか、やり方は色いろあるはずなのだが、母はどうしても、直接対峙してしまうようなのだ。それが一番いいと思っているらしい。

「今は帰れないよ。水穂さんのことが心配だから、まだ帰れない。」

ブッチャーはとりあえず自分の用事を説明する。

「まあ、アンタって人は、家族の一大事より、他人の一大事のことを心配するなんて、親不孝な子ね。そこにいるのは、あの、例の水穂さんっていう、きれいな人なんでしょう?もう有希から聞いたわよ。聰が、今は昔ほど怖い病気ではなくなっていて、すぐに何とか治せる病気の人にいり浸ってるって。そんな暇があるんだったら、すぐにかえってきて、有希のこと心配して頂戴。昔の映画なんかでは、苦しんですぐに逝ってしまう場面はいくらでもあったけど、今はそうじゃないんだから、そんな人、放っておけばいいのよ。其れよりも有希のほうがもっと重大よ。早く帰ってきて頂戴。早く!」

母は、がなり立てるような口調でブッチャーにまくし立てた。

「無理だ!俺は水穂さんが落ち着いてくれるまで、こっちにいる。今ここで帰るなんて、無責任なことはしたくない。」

ブッチャーが、そういって「対抗」すると、不意に自分の袖を引っ張られているのに気が付いた。

そっちの方を見ると、水穂が横向きに寝たまま、自分の着物の袖を引っ張っていたのだった。

「ブッチャーさん今日の所はかえってくれて結構です。」

「しかしねえ、水穂さん。」

ブッチャーは一度スマートフォンを置いて、困った顔をして水穂さんの方を見た。

「俺は、水穂さんのことが、心配でならないのですよ。勿論家族も大事ですが、俺が尊敬しているのは水穂さんなんですから、、、。」

水穂さんは、静かに首を振る。

「尊敬なんてしてはなりません。僕は尊敬なんてされてはならないんです。同和地区とはそういう物です。」

「ですけど、、、。」

ブッチャーが、そう口ごもって言うと、

「お帰りなさい!」

水穂さんは、結構強い口調で言った。

「そ、そうですか、わかりました。俺、水穂さんのこと心配だから、そばにいてあげたくて、ここにいるんですけどね。」

「そんな、そばにいてやりたいだなんて、無駄な同情は必要ありませんよ。」

そういわれてブッチャーは、静かにわかりましたと言って、たちあがった。ふすまを開けて、廊下へ出て、またふすまを閉めて歩き出す。歩き出すと、鴬張りの廊下が音を立てるのだが、それに混じって、咳き込む音も聞こえてくる。苦しそうだ。水穂さんは大丈夫なのだろうか?そうではないという事も、すぐにわかった。

でも、ブッチャーは、今しなければならないことは、姉の事なんだと考えなおした。俺は、今は水穂さんの事よりも、姉ちゃんのことを考えなくちゃ、また暴れているようだから、急いで帰って止めさせないと。ブッチャーは、そう頭を切り替えることに成功する。

遠くで、中庭に設置された鹿威しが、カーン、カーンと鳴っている音がする。いつもなら心地よい音のはずなのだが、今日は、早く出ろ!早く出ろ!と急かしているようだ。ブッチャーは、早く姉ちゃんのところに帰らないとなと、急いで玄関先に行き、青柳先生に形式的な挨拶をして、すぐに製鉄所を飛び出していった。

庭の鹿威しは、急がせるようにカーン、カーン、カーンと鳴っていたが、其れもいつも通りの静かな音に変わった。

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サスペンス篇3、憧れ 増田朋美 @masubuchi4996

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