第三章

第三章

有希はいつの間にか、あのメールに夢中になっていた。

何かあると、すぐに、パソコンに向かってメールを打った。その方が、本当の気持ちを伝えられるような気がした。

「こんにちは。今日は如何でしたでしょうか。あたしは、いつもそうなんだけど、やっぱり働いていないから、ほかの家族の人たちとは、一段格が低いと言われてしまっています。みんなはたらいてくれるのに、お前だけ、何をやっているんだって、いつも周りの人に言われています。口に出してそういう訳じゃありません。でも、そう思うんです。テレビとか、世論とかみんな働いている人にはいろんな権利を打ち出してくるけれど、私にはそういう権利は絶対にないと、言っているような気がします。でも、今は、仕事をしたいけれど、何もできません。どうして出来ないかというと、私の主治医が、どうしてもだめだって、いうんです。私は別にからだに異常があるわけでも無いのに、でも感情をコントロールできないとか、そういうことで、ダメと言われるんです。あたしは、結局、働けないで一生を終えるのかと思うと、もう惨めで仕方ありません。もう、辛くて仕方ないです。毎日、それでは、いけないと自分を責め続けて生きる日々は、もうさようならしたい。有希より。」

そうメールに書いて送ると、数分後に、こう返事が来た。

「有希さんへ。メール読みました。まず、君の人生は、周りの人が決めるという事はまずありません。君が主人公として、どんどんやりたいことをやってみてください。そうすれば、君の人生も少し変わるのではないかと思います。働いていないから、どうしても周りの人と比べてしまうのは分かりますが、もしどうしても働きたいのなら、もう病気のことは隠してしまっても良いのではないでしょうか。

もし、偉い人が、それではいけないとか危険だとか、そういう難癖をつけるのであれば、こういってやってください。働く以外に、何の生きがいがあるのかと。」

パソコンの前で泣いてしまう有希。それではと、こう返答を書く。

「でもばれてしまったら、どうしたらいいのでしょうか。それでは、ひどく怒られて、追放という事になってしまいませんか?」

すると、こう返信が来た。

「そうならないようにするためには、自身のスキルを持っておくことが大切です。何もないではなくて、何か資格でも取ってみたらどうでしょう。それを持っていれば、多少ばれても、心配はいりません。そうすれば、かえってそっちの方が助けてくれる場合もありますよ。簡単なものでいいですから、何か取って見たらどうでしょうか。コツとしては、需要の多いものを取ることです。今の人たちが何を求めているか、それを敏感に感じ取ることです。それは特技を得ることとは少し違っていて、時代に応じたものを取ること、それが一番肝要だと思います。例えば、僕は、クレーンの運転手の資格をもっていますが、それは、別にクレーンが好きだからというわけではなく、みんながクレーン運転手を欲しがっているからです。そういう風に、生きていくことが、一番肝要なのではないでしょうか。今は、すきなことをやっていくのではなく、他人が何を求めていて、それにこたえていくことが、一番無難な生き方だと思うんです。」

有希は、この文句を読んで、決心した。

「働く?姉ちゃんがか?」

夕食の席で、ブッチャーは、開いた口がふさがらないほど驚いて、思わず、箸を落とした。

「有希、何を言っているの?熱でもあるのかしら。」

母が、おもわず、額に手を当てようとすると、有希はそれを振りほどいた。

「そんなことないわよ。私は正常よ。働こうとしているんだから。なんで喜んでくれないのよ。」

しかし、文献によると、精神障碍のある人が、自分は正常だというときはちょっとおかしくなり始めている時であると、記述されていた。

「姉ちゃん、無理しなくていいよ。俺も、最近は貧乏呉服屋からやっと脱出できて、なんとかこのうちがやっていける様にしたんだからさ。姉ちゃんは、無理しないで、ゆっくり療養していけばそれでいいんだ。」

「でも、働く以外に生きがいはないでしょう?」

ブッチャーが心配そうに言うと、有希は、すぐにそう「反撃」した。

「そうだけど、姉ちゃんも俺もまだ時間はあるんだし、今は、ゆっくりやっていけば、いいんじゃないか。」

「だったら、せめて資格でも取らせてもらえないかしらね。」

有希の反撃はまだ続く。

「資格とるって、何の資格とるのよ。」

母が、有希に言った。

「そうね。医療関係とか、福祉関係とか。それが今の世の中一番需要があることだから。」

「あのなあ、杉ちゃんも言っていたんだが、単に金儲けのために、福祉関係にいついている人は、大して、信用できないって、言っていたぞ。そういう人じゃなくて、本当に誰かの役に立ちたいと思っている人にやってもらわないと、こっちも嫌な気持ちがするって。」

有希のめちゃくちゃな話に、ブッチャーは、そう反論した。でも、有希の決断は変わらないようだった。それでは、ブッチャーも母も、黙って承認してやるしかなかったのである。

有希は、その翌日自分のはした金で、資格取得のための本を買い、一生懸命勉強を始めた。ブッチャーは、そんな姉がとにかく心配で、仕方なかったのだが、、、。


「どうしたのブッチャー。何かあった?」

製鉄所を訪れていたブッチャーは、ふいに杉三から、そんなことをいわれた。

「へ、あ、な、何もないよ。」

急いでそう言い返したが、

「また何か悩んでいるんだろ?それなら、口に出していってしまえよ。」

と、杉三はからからと笑った。

「杉ちゃんには、俺の悩んでいることなんて、わからないだろうな。」

ブッチャーがそういうと、布団に横になっていた水穂さんが、

「もしかしたら、お姉さんの事ですか?」

と、静かにいったため、ブッチャーは大きくため息をつく。

「ははん、その顔を見ると、図星だったようだな。」

杉三は、またカラカラと笑った。

「一体どうしたの?お前さんの姉ちゃん、また変なことをいい始めたのか?」

「そうなんだよ。また働きたいとか言い出して。何だか、すごい焦っているみたいな口調でさ。資格とるとか言い出して、今一生懸命勉強しているんだけどね。でも、ぜんぜんできないみたいでさ、机をたたいたりして、俺は心配でしょうがないのよ。」

「それこそ、お前さんの姉ちゃんが、病んでいるという証拠なんだけどな。そうやって、机をたたかなければならんないほど、焦るんだからな。本来の人間であれば、そんなことはまずしないよ。」

ブッチャーが胸の中にしまっていた心配を杉ちゃんに発言すると、杉三は、そういった。たしかに、本来の人であれば、よほど逼迫した状況でなければ、そんな風に焦ったりはしない。

「まあねえ。日本社会は、ある程度、人生というものは決まっていますからね。それから外れた人は、ある程度の白眼視はやむをえないですよね。問題は、それに耐えられるかという事で。」

水穂さんが、ブッチャーの話に、同調するように言った。

「本当は、俺の姉ちゃん説得するのに、一番いい相手は、水穂さんじゃないんですか。働くどころかこうして、一日中寝ているんですから。そういう人もいるんだから、俺の姉ちゃんなんてずっとましですよ。」

「でもブッチャー、それはいけないんじゃない。きっと、それでは、あたしはまだできるんだから、もっと自分に厳しくとか、そういう風に考えてしまうと思うぞ。」

ブッチャーがそういうと、杉三がすぐに反論した。

「そうなるかなあ、、、。」

「ああ、必ずそうなると思う。さらに状態の悪い人をつれてきたら、そういう障害のある人は、逆効果。」

「杉ちゃん、じゃあ、俺の姉ちゃんどうなっちゃうんだろう。」

ブッチャーは、頭をかじった。

「うーん、結論から言えば、お前さんの姉ちゃんの居場所何てものは、何もないのさ。まあ、外国へ行けばちょっと違うかもしれないよ。例えば、中国のペー族みたいな、電気もガスも水道もないような、そういうところに行くこと。」

「バカにしないでくれ、杉ちゃん。俺たちは、本気で困っているんだから、そんなペー族なんて原始時代じゃないんだからさあ。」

杉三がそう発言すると、ブッチャーは、急いでそう訂正した。杉ちゃんは時折そういう突拍子のないことをいう。

「そうだけどねえ。今は、そういう所しか、居場所何てないよ。青柳教授も言っていたけど、そういう原始的な生活をしている、少数民族でないと、今の時代、弱い奴は住めないってさ。少なくとも、僕たちは、みんなの税金でやっているんだからさ。どうしても、働いて税金を出している奴らには、従わなくちゃならないしねえ。そういうときの、劣等感ってのは、なんだか、誰にも言えないものがあるよね。」

杉三は、やれやれとため息をついた。

「俺は杉ちゃんがうらやましいなあ。そういうことを大っぴらに言うことができるんだから。でも杉ちゃんは、ちゃんと、着物縫ったり、ご飯を作ったり、そういうことができるんだからさ。それを商売にすることだってできると思うんだけどな。どっかの着物屋さんの下請けでさ、着物を修理したりして、金儲けできるんじゃないのか?」

ブッチャーは、杉三にそういった。それは、杉ちゃんにしかない特技で、ほかのやつには、出来ないことである。

「いや、無理無理。僕は、金儲けで、着物を縫うつもりはありません。それでは、せっかくの着物がだめになっちゃう。もともと、着物というものは、金儲けのために、縫うもんじゃありませんから。」

と、さらりと言い返す杉ちゃん。

「それに、障害者が好きなことで金を儲けるのは、一番ねたまれやすいことでもあるので。税金で食べている奴らが、自分のすきなことで金を儲けるのは、なにごとだと、怒鳴りつけるやつらもいっぱいいるだろ。」

「そうだね。杉ちゃん。」

水穂もそう言った。

「僕もそういう気持ちわかりますよ。そういう生き方は理想的だと教育者はいうけれど、実際は、嫉妬と、いじめの嵐ですからね。何の役にもたちはしませんよ。人っていうのは、他人の批判は簡単だけど、自分を充実させることは非常に難しいんだから。」

水穂は、そう言いかけてまた咳き込んだ。ブッチャーが、おいおい、水穂さん大丈夫と、彼を急いで体を横向きにして、咳き込みやすくしてやった。


一方そのころ、有希は。

「今日も又、いつも通りに勉強をしています。でも、頭がちっとも働かなくて、それではいけないと思うのに、問題も答えも体に入りません。何だか、受験勉強していた時のように、すぐにぱっぱとあたまにはいればいいですけど、其れもできなくなりました。やっぱり年なのかな。あたしは。」

そんな感じのメールを、享一に送っている。

「有希さん、それは大変だね。きっと強い薬のせいで、いろいろ大変だと思うんですけど、きっとなにかあると思って頑張って下さい。僕も、会社で実は嫌味を言われています。クレーンの運転手をしているのですが、単に、僕は知能が低くて、ダメな人間であると言われたので、いつか、りっぱなクレーンの運転手になって、会社の人間を見返してやりたいと思っています。もし、たいして事情がないのなら、薬は、やめてしまおうかと。」

享一はそんなメールを送り返してきた。それは、何だか、悲しそうなメールだった。

「どうしたんですか、なにか、辛いことでもありましたか?」

と、有希は、メールを送ったところ、こんな内容の返事が返ってきた。

「はい。同僚に嫌味を言われてしまいました。僕は、癲癇を持っているから、それで知能が低いのではないかと。知能が低いから、単にクレーン車が好きで、この仕事に入ってきたんじゃないかって。僕はそんな気もちなんか、まったくなかったのに。クレーン車が好きだからとか、そんな理由じゃありません。単に、仕事をしないと生きていけないので、やむを得ず、クレーン車の仕事を始めただけの事です。その仕事というものが、健康な人みたいに、なんでもできるわけではないので。それが、単に好きだからではと勘違いされてしまうのでは、本当につらいです。」

そうなんだ。やっぱり、こういう風に、悩んでいる人はいるのか。みんな、にこやかに笑って、楽しそうに暮らしているように見えるけど、それはそうでもないんだなあと、有希は初めて知った。

「そうなんですね。私は、みんな、静かに楽しく暮らしているんだと、思っていましたが、そうでもないですね。そういう気持ちで、生きているって、さんざんみんなから言われてきましたが、あたしは、そうは思えませんでした。それは、絶対嘘というか、信じられなかったです。でも、あなたが、そうやって、悩んでくれているという事を聞いたら、なんだかもう一回生きてみようかなという気になれました。」

有希はそうメールを送って、また資格試験のための勉強を開始した。

「有希、お昼ができたわよ。食べにいらっしゃい。」

母が階段下でそういっている。

「わかったわ。」

有希は、そういって、一階の食堂へいった。

お昼なんて、いつも面倒くさいものの一つだから、出来合いの食品や、インスタント食品ばかり食べている。今日のお昼は、インスタントラーメンであった。

「テレビつけて。」

母にそういわれて、有希はテレビをつけた。特に、事情がない限りテレビは、つけるのがお決まりとなっている。

有希がテレビをつけると、たまたまニュース番組をやっていた。ニュースは本来なら有希はチャンネルを変えたくなってしまうのだが、その日はもうすぐ天気予報が始まるために、チャンネルを変えることができなかった。

「それでは、ここでもう一つニュースをお伝えします。今日午前七時半頃、静岡県静岡市にて、横断歩道を歩行中だった親子連れに、近隣で電気工事をしていたクレーン車が突っ込み、二人をはねるという事故がありました。この事故で、」

クレーン車だって?そういえば、あの、一ノ瀬享一さんは、クレーン車の運転手だったと言っていたっけ。でも、クレーン車の運転手は、星の数ほどいるはずだし、あの人な訳がない。と、有希は思い直していると、

「この事故で、クレーン車にはねられた、母親と三歳の息子さんが死亡し、警察は、クレーン車の運転手が、癲癇の発作による意識消失のために運転操作を誤ったことが原因として、クレーン車を運転していた、一ノ瀬享一容疑者を逮捕しました。一ノ瀬容疑者は、癲癇を持っていることは周知していましたが、癲癇であることを、誰にも話さず、抗癲癇薬の服用も怠っていたようです。さらに、家族には、癲癇であることを注意されてはいましたが、本人はたいしたことはないと、周囲にも吹聴していたと、いう事が、関係者への取材で分かりました、、、。」

う、嘘!そんなことあるわけが!と、有希はそう思って、テレビの画面を何回も見たが、字幕には、しっかりと一ノ瀬と書かれていた。さらに、中年の男性が、警察に連行されていく場面も映し出された。それは、禿げ頭で、よく太った男で、有希が想像していたのとは、明らかに違っていた。でも、しっかり字幕には、一ノ瀬と書かれていた。

ああ、なぜ!有希は思わずふらついて、その場に座ってしまいそうになった。本当に、一ノ瀬とはこういう人物だったのだろうか。癲癇を持っていることは確かなんだろうけど、もっと真摯に生きようとしている人ではなかったか。こんな風に平気で人間を殺してしまうような悪人であったなんて!有希は、自分が騙されたのと、こんな痛ましい事故が起きたのと、二重のショックを受け、声にならない声で泣いた。

「全く。嫌な人たちねえ。ちゃんと、罪の意識はあるのかしらね。こうやって、人を殺してしまう事だって十分あり得るとはっきりわかっていないから、そうなるのよ。」

後で母親がそういっている。

でも、一ノ瀬さんは、頑張って、癲癇を持っていても仕事をしたいと言っていたんだった。それは、間違いなく事実だ。だから、今回も癲癇を持ちながら一生懸命はたらかなければと思っていたのだろう。

「でも、所詮は人殺しよ。それは何をしたって、やってはいけないことなんだし、どんな理由であろうとも、してはいけないわ。」

「お母さん。きっとこの人は悪気があってやったわけではないと思う。あたしもわかるけど、癲癇であっても、働きたいから、それで一生懸命やっていただけだと思うの。」

母がそんなことをいいだすと、有希はそういって反論した。

「そうかもしれないけど、人殺しは人殺しよ。それは、どんな人であっても、やってはいけないことなの、さっきの人殺しだって、あんなふうにふてぶてしい態度とって、本当は、社会に復讐しようとか、そういうことを考えていたのかもしれない。だから、そういう人は、社会には出られないのよ。そういう人は、しっかり病気と向き合って、其れなりに、謙虚に過ごすことをしなくちゃいけない。だから、薬だってしっかり飲まなきゃいけないし、ちゃんと理解してくれる人たちの中で生きていかなければだめなの。あんたもそうなのよ。わかるわね。」

「そう、あたしは、結局、これではいけないんだと思っていたけど、こうして生きていくほかに選択肢も何もないのね。あたしは、何もしてはいけないってことね!」

母に言われて有希は、そう怒鳴りつけた。でも、この事故を起こした人物は、明らかに殺意をもって生きているのかというとそうではない気がした。母が言う通り、復讐しようとか、そういう気持ちを持っている人には見えなかった。

結局のところ、あたしたちは、水面下の他人に見えない世界で生きていくしかないんだ。

今回の事故で、そう学ばせてもらったような気がした。

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