Fly High

 地理Bの授業でちょっとした騒ぎがあった。地理Bの教師は坂下という五十代の男の教師だった。

 その日の授業ではデルタとエスチュアリーのある河川の名前と、川の特徴を説明していた。

「デルタは三角州のことだが、俗語では女性の股のこともデルタという。昔の女子生徒の体操服はブルマっていう短いパンツだったが、デルタが強調されるって苦情があってハーフパンツになったそうだ」

 この学校は大正時代から続く女子校だ。ブルマって何? と生徒たちが騒ぎ始める。スマートフォンで検索した生徒が、風俗店の写真を見て悲鳴を上げた。周囲に写真を見せるクラスメートに、 島田輝沙(しまだ きさ)は軽蔑したような目を向ける。

「静かに! 邪魔になるから、後で調べろ!」

 坂下が黒板を手のひらで叩いて騒ぎを鎮めようとする。生徒たちは仕方なく自分たちの席に戻った。輝沙はちらりと斜め前の席に座る鈴井雪音(すずいゆきね)を見た。

 雪音は静かに前を向いたまま、先ほどの騒ぎには興味がないようだった。


 次の授業は保険体育だった。体育の着替えの時間、クラスはブルマの話で盛り上がっていた。

「あんなコスプレみたいな服で授業してたんだ。昭和っておかしくない?」

「坂下もエロネタ言わなきゃいいのに」

 体操服に着替えた生徒たちが体育館へ向かっていく。

「今日は跳び箱だって」

 輝沙は先を歩く雪音がすこし硬い面持ちをしていることに気づいた。

 体操をしたのち、いくつかの組に分かれて跳び箱を跳び始める。

 六段の跳び箱に軽く助走すると、輝沙は踏み切り板で大きく跳躍して跳び箱に手をついた。腰が浮き上がりすぎて着地で足がもつれる。

「輝沙、高っか」

 尻が浮き上がりすぎてしまった。次はもうすこし踏切を弱くするか、と輝沙は考える。

 雪音が飛ぶ番になった。雪音は小走りで跳び箱に駆けていくと、跳び箱の手前で手をついて跳び箱に乗り上げた。あれでは手が開脚跳びの邪魔になる。輝沙は、雪音はあまりやる気がないのだろうと思っていた。

 が、隣の列に戻ってきた雪音は深刻そうな青い顔をしていた。

「六段が飛べないと体育の補習になるらしいよ」

「マジで?」

 後ろから声が聞こえた。輝沙は雪音の列に並ぶと、雪音のもとへ近づいた。

「跳び箱、苦手?」

 雪音はポニーテールの髪を揺らして輝沙を振り返った。

「あまり跳べたことなくて」

「跳び箱に踏切が近すぎるのと、手を手前についてる。踏切板の中央で上に踏み切って、跳び箱の奥に手をついたら跳べるよ」

「跳び箱にぶつかりそうで怖いよ」

「飛型がもっと流線型になるんだよ。跳ぶから、見てて」

 輝沙は自分の列に戻ると、助走をつけて前よりも軽めに跳び箱を跳んだ。

 雪音は戻ってくる輝沙を真剣に見つめている。

「跳び箱、怖くないんだね」

「怖いと思ったら身体が硬くなって跳べないよ。大丈夫、六段くらいなら踏切板で跳べる」

 雪音の番になった。雪音は前よりも速く助走すると、踏切板の真ん中で高く飛び上がった。

 跳び箱の真ん中に手をついて、浮き上がった尻が跳び箱にバウンドする。泣き笑いのような顔で列に戻ってきた雪音は、輝沙に、

「やっぱ怖い」

と呟いて目を閉じた。

「前よりも良くなってるから、勢いはそのままに、遠くに手をついて跳ぶよう意識して」

「……やってみる」

 輝沙の列の段が一段上がった。輝沙は助走を速くすると、上に跳び上がるように意識して跳び箱を跳んだ。輝沙がマットの上に着地すると、ギャラリーから拍手が起こる。

 雪音は列に戻ってきた輝沙を拍手して迎えた。

「輝沙さんの飛び方、きれい」

「もうちょっとで跳べるよ。怖いって意識しないで」

 雪音が無言でうなずいて手を上げる。

 雪音が助走を始めた。いいペースだと輝沙が眺めていると、雪音は踏切台をきれいに踏み切って、跳び箱の奥に手をついた。跳び箱を跳び越えて、マットへ着地する。

 雪音が跳ねるように走りながら輝沙のもとへ戻ってくる。

「跳べた!」

「言ったでしょ?」

「輝沙さんの跳び方でイメトレしたら、跳べた!」

 ありがとう、と雪音は跳ねながら輝沙の手を握った。ポニーテールの髪が左右に揺れる。

「雪音、すごいじゃん」

「跳べた~」

 雪音は自分の列に戻って肩を叩かれていた。クラスメートが輝沙に話しかける。

「輝沙さんが人の面倒見るなんて珍しいね」

「そうかな」

 輝沙が意外そうな顔をすると、クラスメートはいい傾向だね、と輝沙にかすかな笑みを向けた。

 輝沙も雪音の意外な一面を見たと思った。保健体育の授業なんて適当に流しているかと思ったが、雪音は輝沙の言葉を真面目に聞いて実践していた。

 自分も雪音が補習になったら気の毒だと思ったし、と心のなかで考える。

 雪音を見る。体操着にハーフパンツ姿の雪音がほかの生徒と喋っている。

 ――ブルマ、似合いそうだったな。

 輝沙は地理Bの授業のときにちらりと見えたブルマの写真を思い出した。ブルマだったらもっと雪音のきゃしゃな足が際立っただろう。

 雪音はそんなコスプレには興味ないか、と輝沙は頭のなかで自分の考えを打ち消した。


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花筏の底 千住白 @shoko_senju

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