甘い宝石

「ほら、非モテの王子さまが来た」

 周囲の声に、鈴井雪音は教室の外を見た。大きな画板と鞄を抱えた島田輝沙が廊下を横切っていく。

 栗色のショートの髪と、涼やかな二重の目、高い鼻筋に引き締まった口元の輝沙は、高校一年生のころに三年生の女生徒に告白されたというこの女子高の伝説の持ち主だった。

 非モテの王子さまにはふたつの意味がある。ひとつは言葉どおり非モテ「の」王子さま、もうひとつは非モテ「の女の子のための」王子さまだ。

「本人は非モテだって気にしていないでしょ」

「内心悩んでいたりして」

「まあ女にも好かれる女っていうのがステイタスじゃないの?」

 本人はそう思っていないだろう、と雪音は心のなかで呟いた。高校一年生の輝沙は、『女性には興味がない』という理由で三年生の女生徒を振ったという。三年生は輝沙を言い方がきついと非難したが、輝沙は表情ひとつ変えずにこう言った。

 ――可能性がないのに優しい言葉をかけるほうが残酷でしょう。

 碁盤の目の道のようにまっすぐで正しい人。雪音のなかで輝沙はそんな印象だった。まっすぐで正しく、どこか冷たい。周囲よりもつねに温度が低そうな人間だと思った。

「ちやほやされるのも今のうち。この学校を出ればただの人よ」

 雪音の周囲の女生徒はそう結論づけた。


 雪音が最初に輝沙を意識したのは、高校一年生の選択科目の美術の時間だった。

 新入生のなかに際立ってバラのスケッチが上手な生徒がいた。それが輝沙だった。小学生のときから画塾で絵を描いている生徒だいう。

 雪音は輝沙の名前を第二校舎の渡り廊下で発見する。

 輝沙は美術部に入っていた。美術部の生徒の作品は、定期的に第二校舎の渡り廊下に展示される。雪音は渡り廊下で初めて輝沙の絵を見た。

 神社のお祭りの夜店の絵だった。ラピスラズリのような藍色の空に、金の星。空よりも暗い樹影に、屋台のカラフルな屋根が画面の奥へと連なっている。

 絵には金魚の水槽と、風船釣りの水槽、画面の端に花のない朝顔の鉢、そして神社の参道を行き交う人の群れが描かれている。

 輝沙の絵は技巧的な三年生の絵よりも素直で写実的だった。正しい形、正しい色彩、正しい陰影で描かれたその絵は、輝沙の性格を表しているようだった。

 ラピスラズリの空は、以前母がつけていたピアスを連想させた。丸くて大粒のラピスラズリのピアス。五歳の雪音は、母のそのピアスを舐めたくてしょうがなかった。ラピスラズリはこっくりとしたキャラメルのような味がするだろう。そう思っていたからだ。

 ――雪ちゃんが舐めたらピアスがなくなっちゃうから、口には入れないでね。

 母は苦笑しながら雪音に言った。

 ピアスとともに母は雪音のまえから去っていった。雪音が十四歳のときに母は父と離婚した。母の新しい仕事に父が理解を示さないというのが離婚の理由だったが、母は勤めていた短期大学の同じ講師のひとりと恋に落ちていたのを、雪音は知っている。

 現実の正しさはひとによって違うのだ、と十四歳の雪音は思った。誰にとっても自分の考える現実は正しい。でも、それがひとと同じ現実とは限らない。

 パパはママの永遠ではなかった。

 残酷な正しい現実がもうひとつ。

 ママは私にとって永遠のママではなかった。

 輝沙の絵のまえで雪音は、母の現実と自分の現実が重ならなかったことを思った。

 そして、もう自分が神社の参道を母と歩くことはないだろうと思った。


 夜眠るまえに、輝沙に似合う宝石はなんだろうと、雪音は考える。キャラメルの味がするラピスラズリはどうだろう。夜空が凝ったような、深い青の石。夜空はきっと甘い味がするのだろうと思って、子供のころの輝沙は夜の空気に舌を突き出したものだった。舌が短すぎて、夜空には届かなかったけれども。

 透明な藍色のタンザナイトはどうだろう。あるいは、もっとやわらかい青と白のラリマー、浅い海の泡のようなアクアマリン。輝沙の耳元を飾るピアスを想像しながら、雪音は天井を見上げた。

 輝沙に似合うのはブルートパーズだ。雪音は自分の思いつきに笑みを浮かべた。鋭角的で濃い水色の、南極の氷山のような石。ドロップカットの大粒の石が輝沙のとがった耳に映えるだろう。自分にはあんな強い輪郭の石は似合わない。


 雪音が学校から自分の部屋へ帰ってきたとき、スマートフォンの着信音が鳴った。

 ……誕生日のプレゼント、なにがいい?

 雪音はスマートフォンの画面を見ながら、それを本人に先に聞いちゃうんだ、と思った。

 今つきあっている北高の男子生徒からのラインだった。自分だったらプレゼントを贈る相手にぜったいに中身を明かさない。猫がプンプン怒っているスタンプをラインで送った。

 ……なに怒ってるの?

 ……プレゼントの中身なんて、私に聞かないでよ。

 ……なんで。本人が欲しいもののほうがいいだろ?

 欲しいのはものじゃなくて気持ちだと、雪音は思った。スマートフォンをタップして、文を送信する。

 ……マジかよ。機嫌悪いの?

 つづけてすぐに返信が来た。

 ……もしかして、あの日?

 雪音ははっきりと、この男は私の永遠じゃない、と思った。

 ……本気だよ。

 雪音はもう一度、同じ文面をタップした。

 ……あなたとは付き合えない。別れよう。

 ラインを送信したあと、雪音はスマートフォンの電源を切った。相手は雪音の気まぐれに怒って、別れる理由を聞いてくることだろう。

「だってあなたは、私を猫だとしか思ってないんでしょ?」

 あの日、放課後の美術準備室で、輝沙は雪音のことを獣だと言った。あのときは反射的に腹が立った。でも、輝沙はあの碁盤の目の道のような思考回路で、雪音の本質を言い当てていたのかもしれない。

 母がいなくても生きていける、心の強さを。

 母には母の正しい現実があるのだと受け入れることができる、本質的な深さを。

「ガウ」

 雪音は天井に向かって吠えると、口元を引き結んで目を細めた。

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