花筏の底

花筏の底

 女子高というのは異空間だ。男の目さえなければ、生徒たちは自分で金槌を持って大工仕事をする。重い物を「持てない」とも言わないし、知っていることを知らないふりもしない。

 男が同じことをすれば単なる無能と思われるのに、女がこんなことをするのは男の視線を意識して行動すれば自分の得になることを知っているからだ。

 島田輝沙(しまだ きさ)は子供のころから強くて賢かったから、弱者の擬態をする必要がなかった。背が高く、スポーツも勉強も得意だった輝沙をだれも弱いとは思わなかった。鏡を見ると、中性的な少年のような顔立ちに、短い髪、薄い胸の自分が映っている。こんな自分と恋愛をする男なんて、まるで同性愛者のようだとさえ思う。

 ――この先、だれかを深く愛せるだろうか。

 モラトリアムの真ん中にいるような女子高の生活のなかで、輝沙はだれにも本音を明かさなかった。周囲には恋愛への期待が溢れていて、輝沙の悩みはどこへも収まらない形をした鍵のようなものだった。


「北校の子がね、私が自分の知らない英単語を知ってるとムカつくの」

 進路指導の順番を待っているときに、初めて鈴井雪音(すずい ゆきね)と話をした。

 この学校にはふたつのグループがある。ひとつは積極的に他校の男子生徒とつきあうグループ、もうひとつは部活や勉強や趣味に打ち込むグループだ。雪音は前者、輝沙は後者だった。この学校は、県内でトップの進学校である北高に行けなかった女子の吹きだまりで、ゆえにこの学校の生徒は隣接する北高の男子生徒と交流を持つことが多かった。

「だから二回に一回は塾で単語の意味を聞かれても知らないふりをするの」

 雪音は輝沙の前の椅子に座ると指を組み合わせて伸びをした。

「ばっかみたい」

 雪音が言い捨てる。

「相手が? それとも自分が?」

 雪音はポニーテールの尻尾をくるりと回転させると、

「両方」

 と口元を引き結んだ。

「彼氏にも同じことするの。そうすると、向こうが安心するから」

「わざと馬鹿の真似をするんだ」

 輝沙の口調が気に食わなかったらしい。雪音は切れ上がった大きな目を尖らせて、

「賢すぎる女はシアワセになれないから、北高には行くなって、パパが言ってた」

「行けなかったんじゃないの?」

「行かなかったの。内申と成績は足りてたけど」

 北高の女子の割合は二割だった。受験は男子生徒よりも狭き門となる。輝沙も早々に北高を諦めて、この女子高に狙いを定めた口だった。雪音のようなことを言う生徒は、この学校には何人もいた。

「馬鹿なふりした自分を好きになってくれる彼氏でいいの?」

「だって自分より頭のいい女を好きになる男はいないでしょ?」

 雪音は北高の男子生徒によくもてていた。黒くやわらかな髪をポニーテールにして、白いオーガンジーのシュシュで縛っていた。名前のとおり、透き通るような白い肌をしていて、黒い髪がよく映えていた。どこにも収まらない形の悩みなど雪音には無縁だろう。

「私はあまり男の人を深く愛せないのかもしれない」

 輝沙がかすかに目を瞠る。輝沙の机に肘をつくと、雪音は首をかしげて頬杖をついた。

「あるていどしか男の人を好きにならないんじゃないかなあ」

「じゃあ、擬態しなければいい」

 輝沙は短い前髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。雪音はこの世のすべてが自分のものになりそうな女なのに。ぜいたくな悩みだと思った。

「ほんとうの私を愛してほしいなんて思わない」

 雪音はやわらかそうな唇に歪んだ笑みを浮かべた。

「イノセントなんて言葉は、私には似合わない」


「放課後、雪音センパイと話していましたね」

 美術準備室でモリエールをデッサンしていたときに、輝沙は後輩に声をかけられた。

「王子と姫って感じで萌えました」

 輝沙は食パンで木炭の影を薄くしながら、雪音の中身も姫だったらもっと楽に生きられただろうに、と思った。

「いっしょに演劇部に入ってくれたら、王子と姫で衣装を作るんですが、考えてもらえませんか?」

「私は目立つのが嫌いだから」

「もったいないですよ」

 後輩は考えてくださいね、と言い残して輝沙のもとを去っていった。


「私に演劇部に入れって言ったの、輝沙さん?」

 二日後に美術準備室へ現れた雪音は、完成したモリエールのデッサンを眺めている輝沙にそう聞いた。

「私の後輩。私じゃない」

 美術準備室で油絵を描いていた下級生たちが申し合わせたように部屋を出ていった。ふしぎに思う輝沙と、無表情の雪音が取り残される。

「私は演劇部に入る気、ない。絵を描くから」

「教育学部の美術科を狙ってるって、先生から聞いた」

 部屋の外から後輩たちの笑い声がさざ波のように聞こえてくる。

「桜、散っちゃったね」

 雪音は窓辺の椅子に座ると、学校をぐるりと囲む桜並木を見下ろした。

「桜の花びらはどこに行ったんだろう」

「下に落ちてるんじゃないの?」

「花びらは落ちていないよ。どこにも」

 雪音に並んで窓の外を眺める。新芽をつけた桜の木の下には、赤い萼だけが積み重なっていた。

「花びらはどこかの吹きだまりに集まっているのかな、花びらの墓場みたいなところに」

「象の墓場みたいに?」

「花びらが川に押し流されて、海に沈んでいるのかな」

 雪音は窓の桟に肘をついて、顔を手で支えていた。

「演劇部に入れって言った子に、私と輝沙さんが姫と王子みたいだって言われたけど」

「夢見るお年頃なんですよ」

「他人事みたいな言い方ね」

 雪音はポニーテールを散らす風に頬を晒していた。

「そんな時期はきっと一瞬だね」

 雪音はふっと寂しげな顔で微笑すると、輝沙へ向き直った。

「私と輝沙さんが姫と王子様なのも、きっと一瞬だよ」

「雪音さんは姫じゃない」

「じゃあ、何よ」

「獣」

「なんで私が獣なのよ」

 目を鋭くする雪音に、輝沙は軽い笑い声をあげた。顔を逸らして雪音が部屋を出ていく。部屋の外で、後輩たちが笑いさざめく声が聞こえる。

 輝沙はぼんやりと窓の外を眺めた。光の届かない海の底で、潮に流されて沈んでいく桜の花びらが見えた。

 輝沙が花びらの行方に思いを馳せていると、ふたたび美術準備室の扉が開いて雪音が部屋へ入ってきた。

 窓辺で佇んでいる輝沙の顔をぐいと引き寄せる。

 一瞬、輝沙の唇にやわらかい雪音の唇がかぶさってきた。

 わあ、と背後で歓声があがる。目を瞠って雪音と後輩たちの顔を見較べる輝沙に、雪音は、

「後輩たちの夢を叶えてあげちゃった」

 と笑って美術準備室を出ていった。口元を押さえた輝沙が取り残される。

 獣にファーストキスを奪われた。そう思った。


 あれから雪音が輝沙に話しかけることはなかった。交通事故のようなキスも、あれは雪音が自分の言葉に苛立ったいやがらせだろうと結論づけた。

 一週間後、街のカフェで雪音を見かけた。雪音は北高の男子生徒と二人連れで、親しげに顔を寄せ合ってフラペチーノを飲んでいた。輝沙に気づきもしなかった。

 空気がうすくなったような気がして、輝沙はその場を離れた。空気が濃い場所を探して歩いていく。

 公園の池のほとりには、桃色のしだれ桜が枝を垂らしていた。池にはいちめんに桜の花びらが降り、午後の陽を浴びて淡く輝いていた。

 雪音を見たとき、胸にチリッと焦げるような感覚を覚えた。私はいったいだれに嫉妬したのだろう。雪音に? あるいは男子生徒に?

 どこにも収まらない形の疑問を抱えたまま、雪音はあの北高の男子生徒と付き合っていくのだろう。雪音に思いを寄せても未来はない。それは、自分を取り巻く後輩の憧れのような、女子高に通った生徒の一過性の感情だ。

 それなのに胸がざわついて落ち着かない。潮の底流にたなびく桜の花びらのイメージが頭に焼きついて離れない。

 輝沙はしだれ桜の枝に指を絡めて乱暴に枝を揺らした。幾重にも降り積もる桃色の雪を、輝沙はどこか脅えたような表情で見ていた。

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