29 エンディング
そして日常が帰ってきた。
海から戻った枦木を待っていたのは、家出少年の末路としてはごくごくありきたりな、親からの説教だった。
何事だ、というのが父からの言葉だった。頭を冷やせとは言った。考えろとは言った。しかし心配をかけろとは言っていない。母さんなんて捜索届まで出そうとしてたんだぞ、と。
しばらく枦木はそれを、はいはいうんうん仰るとおりです申し訳ございませんでした、と聞いていたが、ふと、なんで俺が謝らなきゃならないんだ、という気持ちが湧いてきて、その上うっかり口に出してしまった。
「なんで俺が謝らなきゃならねーんだよ」
そしてあまつさえ、
「てか前から思ってたんだけど、裕子さんってまだ離婚してなかったころから父さんの見舞いとか来てなかった?」
あれ何、と。
以前の家庭が現在の家庭にグラデーションしていく過程について突っ込んだ指摘をしてしまった。
すると父は言った。言っていいことと悪いことを考えろ、と。それに対して枦木は、うっせー馬鹿、と返した。
「人にばっか考えさせんな! たまには自分で考えろ!」
そして言った。自由恋愛大いに結構。離婚結婚大歓迎。
でも俺も好きにやらせてもらう。
そして意外にも部屋ではかわいいパジャマを着ている男こと、二十九歳医師、北見理人のところに転がり込んだ。
インターホンに出た北見はしばらく絶句していたが、それほど間を空けずに枦木を迎え入れてくれた。かわいいパジャマで。
北川と枦木の現両親の間で何事かのやり取りがあったらしく、結局、五日ほどで家には戻されてしまったのだが、その間はずっと北見の家に住むことになった。
一日目、北川の出勤に相乗りする形で向かった病院で、病気が完治していることが発覚した。
「…………………は?」
長い長い溜めの後に北川が言ったのはまずそれだけで、人生最大の難問にぶち当たったような哀愁すらあった。どう考えてもありえない、と北川は言った。症状の進行が止まるだけならわかる。だが死んだ組織が軒並み復活しているのはどう考えてもおかしい。理屈に合わない、ありえない、と。
「……お前、宇宙人に手術でもされたのか」
いたって真面目な表情で言った。そういえば、幼いころに一緒に留守番してくれていた北川は、UFO特番とかそんなのばかり見ていたな、と思い出した。
「人魚に治してもらった。んで、もしかしたら寿命も二百年くらいになってるかも」
今んとこ、足に鱗は生えてねーけど、と枦木は言った。北川はレントゲン写真を難しい顔で見つめて、
「……ありうるかもしれん」
と言った。
それから、実家に戻される前の日の夜。部屋の電気を消して、寝る準備をしてから、枦木はこんなことを言った。
「俺さ、昔から父さんと母さん、嫌いだったんだよね」
暗い中だったから、北川がどんな表情だったかはわからなかったけれど、
「知ってたよ」
と、当たり前のように返ってきたので、枦木は少しだけ、安心した。
打ち明け話の流れだと思ったのか、その後北川が、ぼそりと、
「お前が治ってよかった」
と言った。そして続けて、
「医師免許を捨てるところだった」
と言った。その言葉にビビり散らかした枦木は、なんで、と聞いたが、北見はものすごい速度で眠りに入ってしまっていて、結局その理由は聞けず仕舞いだった。何となくネットで説明義務とかそういうことについては調べがついたが、どのくらいの綱渡りだったのかは、結局いまいち想像がつかないままでいる。
それはそれとして学校のこともある。
二回目の登校日のころ、枦木の身体には異変が起こっていた。
髪がほんのり赤く色づいていたのである。
鮮やかすぎる赤色ではないので、街中にいれば人目を引くようなものではないが、色が入っているのは明らかなだけに、学校の中ではものすごく目立った。隣の席の峯村は「夏休みデビュー来たな」と言ってめちゃくちゃ笑っていた。
夏の間に髪型を変える生徒は結構いる。髪色まで変えるのはさすがに他には誰もいなかったが、その延長だろうということで、枦木の変化はクラスでは普通に受け入れられた。
受け入れなかったのはドド。三十半ば、かつて大手予備校に勤務していた際に会得したスパルタ式教育メソッドを誇りとする土橋教員である。
まず教室に入ってきてドドはぎょっとした。そして威圧的な表情で枦木の席まで近寄ってきて、
「てめえ、なんだこれは」
と言った。
「地毛です」
枦木が返すと、
「なわけねえだろ!」
とドドは言った。
そりゃそうなるだろうな、と枦木は思った。だから、あらかじめ用意しておいた紙を一枚出しながら、
「病気の治療してたら副作用で色変わりました」
手には北川に書いてもらった地毛証明書がある。何も嘘は言っていない。枦木の態度は堂々としたものだった。
教室にいる人間全員が狐につままれたような表情で枦木を見ていたが、枦木の髪の色が変わっていくのを間近で見て、地毛証明書まで書かされた当時の北川の方が五十倍くらい怪訝そうな顔をしていた。
ドドはその証明書を乱暴に奪い取り、確認する、と言った。それから振り上げた拳の行き場を探すようにして、
「宿題はやってきたんだろうな」
と言った。やってません、と枦木が答えたときにはその口元に笑みが浮かんだが、
「家庭の方針で宿題はやらないことになってるんです」
すぐに、面倒ごとの気配を察知した表情に変わり、
「あと、三者面談の日程調整なんですけど、親と揉めてるんで持ってこれませんでした」
ついにはどうして自分はこいつに話しかけてしまったんだ、という後悔の表情に変わっていた。
隣の席で峯村は顔を隠してずっと笑っていたが、のちほど宿題を忘れてきたことが発覚し、死ぬほど怒られた。
「枦木くん」
名前を呼ばれて、枦木は顔を上げた。
髪を下ろして眼鏡を外した小野崎が、相変わらず重そうなバッグを手にぶら下げて、目の前に立っていた。
「よ」
読んでいた本を閉じて枦木が言えば、小野崎もはにかんで、「よ」と返した。
大きな池の傍の四阿。
相変わらず夏の陽は照りつけていて、蝉だってまだまだ元気に鳴いていたけれど、ここだけは妙に涼しい風が吹く。水面がきらきら反射して、あたり一面が光の水たまりのようにきらきらと輝いている。小野崎の猫のような目も、眩し気に細められていた。
小野崎は枦木の隣の椅子に座った。
「今日、すごかったね」
「あー」
「バチバチだった」
小野崎は笑う。悪いことした、と枦木はバツが悪そうな顔で言った。
「あ、それ」
と、小野崎が枦木の手にある本を指差す。ああ、と枦木は頷いて、
「全部読んだ。面白かったわ、ありがとな」
「ほんと? 気に入ってもらえたならよかった」
「でも最後、びっくりしたわ」
「だよねだよね? 本当はそれ、貸すときから言いたくて仕方なかったんだ」
「だよな。でもこれ言っちゃうと、」
「そう。驚きがなくなっちゃうから」
面白かったわ、と本を返す。確かに返してもらいました、と言いたげに小野崎はそれを両手で握ると、バッグにしまった。
「そういや小野崎、この間ありがとな」
「え?」
「コンビニで会ったとき」
「あ、ううん。あれそういえば、今日病気だったって先生に言ってたけど、もしかして、」
「色々あった」
枦木が笑って言うと、小野崎はついさっき本をしまった自分のバッグに目線をやってから、なるほど、と力強く頷いて、
「色々あるってことだね」
「色々あるってことです」
顔を合わせて笑い合う。
「あれ、」
そのとき、小野崎の視界に池が映り込んだ。そして池の淵に、何か物が置いてあるのが目に入った。
「なんだろ、あれ」
と、問いかけるように口にすると、ああ、と枦木が相槌を打って、
「お供え物」
と言った。小野崎は驚いた顔で枦木を見る。
「私、今までしたことなかった」
「たぶんしてやると人魚も喜ぶぞ」
特に甘いものがいいらしい、と枦木は言う。小野崎はそうなの?と首を傾げる。枦木は、そう聞いたことがある、と言った。
そして一度会話は途切れて、小野崎はバッグから本を取り出す。それに合わせてか、枦木も、自分の鞄から本を取り出した。あ、と小野崎はそれに目を止めて、タイトルを読む。
人魚、という文字が見えた。
「それ……」
「ああ」
枦木は頷いて言う。
「将来さ、妖怪研究家になろうと思って」
とんでもないことを。
小野崎は目を丸くした。妖怪研究家。そんな職業がこの世にあるのだろうか。本やお話の中ではありそうだと思うけれど。
「それか霊能者」
さらにとんでもないことを枦木は言う。小野崎はしばらく口を小さく開け続けてから、
「マジですか」
と言う。枦木は恥ずかしそうに笑って、
「マジ」
と言ってから、かも、と付け足した。
「別にはっきりそれになろうとか思ってるわけじゃないんだけど、ちょっとやりたいことができてさ」
そのとき、池の方で水音がした。小野崎は反射的に、その方向に瞳を動かす。水面が波立っている。魚でも跳ねたのかな、と想像した。
「あのさ、小野崎。知ってるか?」
その波が、またきらきらと光り始める。空気の中に、あらゆる飛沫の中に、まだ名前のない星を散りばめたみたいに、人魚のいる池が、輝いている。
赤い髪の少年は、微笑んで、こんなことを言った。
「人魚って、めちゃくちゃ綺麗らしいぜ」
難病で余命いくばくもなくなった少年が不老不死の人魚と出会う話。 quiet @quiet
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